タクシーが学校の前に停まると、僕は運転手にお礼を言い、料金を支払って車を降りた。
冬の冷たい風が頬を撫で、灰色の雲が広がる空の下、静かに校門へと歩く。
校庭には昼食を終えた生徒たちが思い思いに過ごしている姿が見えた。
ベンチで談笑する者、教室へ戻る者、廊下をゆっくり歩く者。それぞれの昼休みが名残惜しくも流れていく。
曇り空の下歩みを進めながら、まだ心にぼんやりとした疲れが残っている。時折すれ違う生徒たちの笑い声が聞こえ、いつもの学校の雰囲気が少しだけ気を緩ませてくれた。
「はぁ、なんだかとても疲れた……」
出版社での会談は思ったより早く終わった。
監督さんたちがすぐに応接室に来てくれたおかげで、混乱していた状況も無事収拾。お互いの自己紹介を済ませ、映画の説明を受け、記者によるインタビューをこなした後、ふと時計を見ると、まだ午後の授業に間に合う時間だった。
せっかくならと、タクシーで学校へ向かうことにした。
小説も大事だけど、それが原因で学校を中退、なんてことになったら両親に申し訳が立たない。やりたいことをやらせてもらっている以上、きちんと両立しないと。
「よし」
気持ちを切り替えたその瞬間――。
――ブーッブーッブーッ。
制服のポケットに閉まってあった携帯が振動している。
慌てて取り出し画面を確認するが、番号しか表示されていない。
誰だろうと首を傾げつつ着信に出ると。
『あ!はじめ先生ですか?私です、先ほどお会いした先生の神楽ちゃんです』
「え……ええぇっ!」
『あは、先生声でか』
確かに、良く聞けばこの声、忘れもしない、篠宮神楽さんだ。
というかなぜこの番号を?いや、そもそも先生の神楽ちゃんってなんだ!?
『せ、先生私、私もいます!せ、先生の真凛ですっ!』
この声は香坂真凛さんだ。
『ちょっ真凛腕引っ張らいでよ、ていうか先生の真凛ちゃんって何よ、うけるんだけど』
『なっ神楽ちゃんが先に言ったんでしょ!』
『だからってムキになり過ぎ、もう真凛は可愛いなあ』
『きゃっ!どこ触ってるのよ!』
『さてどこでしょう、ふふふ、先生はどこ触ったか分かりますぅ?』
携帯から篠宮さんの含んだ笑い声が聞こえてくる。
だめだ、完全に手玉に取られている。
「んんっ!えっと、それで僕に何か用ですか?」
ここは平常心だ。慌てたりしたらそれこそ相手の思うつぼ。
『先生真面目だなぁ、まあそこがまた可愛いんですけど』
「ぐっ……! げほっ、げほっ」
思わずむせ返り自分の喉元を叩いた。
世間には童貞を殺す服なるものがあると聞いた事はあるけど、まさか童貞を殺す言葉があるとは知らなかった。
『大丈夫ですか?あ、ところで先生、今どこにいるんですか?』
「い、今は学校にいます、思ったより早く切り上げられたので、午後の授業受けようと思いまして」
『ふうん、実は私、先生の落とし物拾っちゃったんですよねえ』
「え?お、落とし物?」
言いながら慌てて自分のポケットをまさぐり、何か落としていないか確認を取った。すると。
あれ……ない、今朝右ポケットに入れていたはずの定期入れが、しかもあれには学生証も入っている。
「あ、あの篠宮さん!」
『神楽』
「へっ?」
『だから~かぐら、です』
「か、神楽……さん」
『はぁい、何ですか先生?』
『ずるい!先生私も真凛、真凛って呼んでください!』
くっもう勘弁して欲しい。なぜこんな羞恥プレイを受けなければいけないのか……。
「真凛……さん」
『あはは、自分で呼ばせといて何悶えてんの真凛』
『だってぇ……』
「それであの神楽さん?落とし物ってもしかして定期入れだったりしますか?」
『ぴんぽーん、正解です!』
「あ、やっぱり、あの良ければ、緋崎さんが近くにいるなら緋崎さんに預け――」
そう言いかけた瞬間。
『正解者にはご褒美として、もれなく私と真凛ちゃんが直接お届けしちゃいます』
神楽さんの被せてきた言葉に、僕は一瞬で顔を強張らせその場で硬直してしまった。
『あれ?もしもし先生?聞こえてます?』
僕はハッとして携帯を持ち直した。
「も、持ってくるってどこへ!?」
『天野宮高等学校二年A組、相沢啓』
「なっ!?」
『大丈夫ですよ先生、ちゃんと場所も確認しましたから、ではまた後で』
『はじめ先生またねっ!』
プツリと、携帯から虚しく機械音が鳴り通話が切れた。
来る?学校へ?
「はぁ、どうしよう……」
午後の予鈴が鳴り響く中、僕は重い気持ちを抱えながら校舎へと向かった。
その足取りはまるで風に揺れる小枝のように不安定で、心の中の迷いがそのまま体に現れているかのようだった。