夕映えの淡い茜色が、ゆっくりと薄紫へと溶けていく。
校舎の窓から差し込む光は次第に弱まり、やがて夜の帳が下りる気配が近づいていた。
僕は袖で泣きはらした目元を雑に拭い、ふと顔を上げる。
壁に掛けられた時計の針は、午後五時を指していた。
……どれくらい、このまま座り込んでいたんだろう。
ぼんやりとした意識を繋ぎ止め、ぎこちなく立ち上がる。
まだ足元がふらつく。重たい空気を胸に詰め込んだまま、扉へと向かおうとした、その時だった。
人の気配がした。
教室の出入り口。そこに立っていたのは、黒のジャージ姿にバスケットボールを抱えた人物。
スラリとした体型ながら、見るべきところを見れば女性らしいラインがしっかりとある。
目が合う。
よく知る顔だった。
「……
僕と同じクラスの同級生であり、さっき教室を飛び出していった天音あまね 雅みやびの幼馴染。
そして、かつては僕も含めた三人で、どこへ行くにも一緒だった──そう、“だった”のだ。
今となっては、雅と同じように、校内ですれ違ってもほとんど無視される関係になってしまっていた。
「啓、もしかして泣いてる?」
「あっ、いや……その」
思わず言葉に詰まる。
すると、葵は少し苛立ったように眉をひそめた。
意志の強そうな瞳に整った顔立ち。さらりとしたショートボブは整然としていて、どこを取っても、凛とした雰囲気が漂っている。
バスケ部のエースで男女問わず人気があり、サバサバとした性格の彼女は、僕とは、正反対の存在だった。
「ふん、なんか久々に啓の声聞いた気がするわ。あんた普段、誰とも喋らないし、机にかじりついてばっかだしさ」
皮肉めいた言葉。
……ついさっき、雅にも似たようなことを言われた気がする。
「そういえば、さっき雅を見かけたけど……なんか機嫌が悪かったな。あんた、何か言った?」
訝しげな視線が、僕を射抜く。
心臓が跳ね咄嗟に視線を逸らした。
「ああ、ね。何? もしかして雅に告って、振られたとか?」
「なっ!? いや、そんな……」
葵は昔から勘が鋭い。たまにこうして、考えていることを的確に当ててくる。
「……図星かよ。まっ、今のあんたじゃ振られて当然だよね。努力もしない、結果も出せない、おまけに約束も守れないヘタレだし」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃。
胸が苦しくなる。
努力も、結果も、約束も……。
自分では、ずっとやってきたつもりだった。
後は結果を出して、約束を守るだけだったはずなのに……。
「……そういえば、葵とも約束したよね。雅と約束を交わした時にさ、葵がそれを見て『雅だけズルい、私も物語の主人公にしろ』って──」
その瞬間だった。
──ガンッ!!
葵が手にしていたバスケットボールを、勢いよく床に叩きつけた。
ボールは大きく跳ね返り、葵の足元へ転がっていく。
何か、癇しゃくに障ったのか?
強張った身体のまま、恐る恐る転がるボールを拾い上げる。
「……私も、今、告られてるんだ」
「え? あ……そ、そうなんだ……」
葵も……。
胸の奥が、チクリと痛んだ。
なんで?
いや、人気のある葵なら、誰かに告白されても不思議じゃない。
むしろ、今までいなかったほうが驚きだ。
「私も雅みたいに、OKしちゃおうかな」
「OKって……葵、雅と伍代ごだい先輩のこと知ってたの?」
「まあね。学校一の美人と、人気者の伍代先輩だもん。噂は尽きないよ」
淡々とした口調だった。
「ま、私は雅があんたじゃなく、伍代先輩を選んでホッとしてるけどね」
「……雅が、伍代先輩を選ぶことも、知ってたんだ」
「知ってたっていうか、私の勘だよ。……雅も私も、待ち疲れてたからさ」
「葵も……?」
まただ。
雅も、待っていたと言った。
ずっと、僕が結果を出し、約束を守るのを。
「僕だって……僕だって、頑張ってたんだ……!」
衝動的に叫ぶ。
けれど──
「はあっ?」
冷たい声。
葵はバスケットボールを、ぐっと握りしめた。
「……ふざけないで。自分の殻に閉じこもって、私たちを見ないフリしてただけでしょ?」
「そ、それは──」
「それにアンタは……!はぁ、もういい。あんたと喋ってるとイライラする。二度と話しかけないで。雅にも、私にも」
吐き捨てるように言うと、葵は踵を返し、足早に教室を去っていった。
僕は動けなかった。
何が、間違っていたんだろう。
ただ、虚しさと、苦しさと、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
そんな時だった。
──ブーブーブーブー。
無機質な携帯のバイブ音が、静まり返った教室に響いた。
手に取った携帯の画面に目をやると、そこにはお父さん、と表示されている。
今の状況を悟られまいと、僕は深く息を吸ってから着信に出た。
「もしもし、父さん?」
『おお啓か!?』
「うん……なんかすごくテンション高いけど、何かあったの?」
普段よりキーの高い父さんの声に、首を傾げつつ聞き返す。
『発表されたんだよ発表!今ニュースにも出てるぞ、今年の波木賞なみきしょう!お前のペンネームがでかでかと載ってる!史上最年少だぞ最年少!編集者さんから連絡来ただろ』
「波木……賞……!?」
『え?お、おい啓?啓聞いてるのか?今すぐ家に――』
――ゴトン、と携帯が手から滑り落ち鈍い音を立て床に転がった。
スピーカーから微かに父さんの声が聞こえてくる。
だがそれすらも聞き取れない程、僕の頭の中はグチャグチャだった。
あの日交わした約束、波木賞を取って、二人を物語の主人公にする。
そのために努力して、全てを投げうって数年間書き続けた物語。
自室でも、教室でも、ただひたすら約束を果たすために書き続けた僕の小説……。
ネットの小説公募に応募して、出版まで持ち込めたプロとして初めての作品二人と一人、今の僕の集大成、その作品が波木賞受賞……。
「賞、取れたんだ……はは、ははは」
感情が上手く表現できない。嬉しいのか、悲しいのか、悔しいのか、それとも怒りなのか。
グルグルと渦巻くあらゆる感情が、脳を侵食するように押し寄せてくる。
ただ一つハッキリしているのは、僕は大きなことを成し遂げ、そして大事なものを失ったという事。
その事実が、重く、深く、僕の小さな肩にのしかかってくる。
既に途切れた携帯を拾いあげると、重い足取りで一歩前に踏み出した。
振り返らず、過去を置き去りにするように、一歩、また一歩と、前へ……。