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第二話『出帆』

 鬼神子シュラの出奔による騒ぎにつられ、御殿の最奥間でシュラによく似た少女が微睡から目を覚ました。

 濡れ烏の如き髪を揺らして少女は高窓に覗く月を見上げた。


「今日は望月なのね。……ウツホ


「お呼びでしょうか、翛羅ユラ様」


 ウツホ、そう呼ばれた少女は濡れ烏の少女へ御簾越しにかしずく。


「この騒ぎは……?」


「どうやら、シュラ姫が出奔したそうで……」


「なんと……それは誠ですか」


 ユラと呼ばれた少女は眉を上げて顔を驚きに染める。

 そして顎に手を当て何やら考え込むような仕草を見せる。


「あの子が一人でそのような策を講じられるとは思えません……手引きをした者が居ますね」


「それは……玉梓様でしょう」


 ウツホの言葉に深く頷くとユラは再び高窓を見上げた。


「……これは……動乱の幕開け、か」


 眉を顰めて零されたその言葉は宵闇に溶け消えた。


「ユラ様……」


「……水臭いですね、シュラ。私を誘ってもくれないなんて」


 寂しそうに目を伏してそう言うとユラは手を何かを転がすように動かし始める。


蜘蛛絲梓弦くものいとあずさのゆみはり


 そう唱えるとユラの手の中に鞠程の大きさの真白い球が現れた。

 彼女はそれを玩びながら、さらに何やら唱える。


「ユラ様……?」


「父上……大旦那様はきっとあの子を是が非でも追うでしょう。しかし、鬼神であられる故に自らがというわけには行かない。ならば……」


 "私の力をお求めになることでしょう"


 そんな消え入りそうな声が角行灯を揺らした。


 払暁の刻、従者玉梓と共に手漕ぎ舟にて鬼ヶ島の南東部にある貿易港へと辿り着いていた。


 二人は荷車に空の葛龍を載せ、装いを変えることで行商に扮し曨へと向かう廻船へ並ぶ列の先頭に居た。


 後方では積荷の検査が行われているが、シュラ達はイブキの手回しによりこれを通過していた。


「じい様め、案外気が利くではないか」


 満足気に言いながら、船頭の案内に従い廻船に乗り込む。

 玉梓はというと船頭と何やら話をしているため荷車は、(酷く業腹ではあるが)シュラ自ら船に積み込んだ。


 からんからんと下駄を鳴らして乗り込めば、船上には酒樽をはじめとした品々が並んでいる。


 『萬兩』ののぼりが風に靡いている。


「大嬢、その瓢箪はあまり人目に触れさせないほうが……」


 暁天の海原を肴に瓢箪を呷っていると窘めるように玉梓は言葉を吐く。


 シュラの手にあるその瓢箪は名を泉酒の瓢箪と言い、鬼神の一族に代々受け継がれてきた神器の1つ。

 幾度呷れども中身が尽きぬ底無しの瓢箪である。

 そこから湧き出る酒は薬酒から辛酒や奇酒にいたるまで、遣手つかいての望むモノを限りなく。


 左党蟒蛇さとううわばみばかりの鬼族にとって酒は金子より遥かに価値を持つ。

 故にその瓢箪を知らぬ鬼はいない。

 先代鬼神のイブキからシュラの生誕祝いの祭事にて直手ただてに渡されたのを多くの鬼衆が見届けているのだ。

 シュラは旅装束に菅笠で周囲に紛れているものの、ソレを所持している事が他人目に触れでもすれば途端にかの鬼神子だと露見するだろう。


「なんじゃ、心配性な奴だのぅ……」


「出奔の謀りが水の泡となってもよろしいので?」


「むぅ……仕方ない、曨に着くまで酒は控えるか……」


 しょぼくれた様子で瓢箪を懐にしまうと、シュラは船の縁壁へりかべの傍に座り込み海を眺める。

 平素ならば歯牙にもかけぬ酒樽が今はただただ妬ましい。


「そう気落ちしないでくだされ、大嬢。ほら、船が出ますぞ」


 歌膝の鬼姫に玉梓はそう声をかける。

 依然として拗ねた子供じみた表情を見せていたシュラだが、船頭のたたく法鼓と法螺貝の音にがばりと顔を上げた。


 畳まれていた帆が風を受けて膨らみ、水押みよしが海面を割り白波を作る。


「大嬢、曨までは百二十里程……休まず船を進めたとしても五日はかかりましょう」


「長いのぅ……」


「大嬢の手力で以て水面を掻けば、二日は早く着きましょうや」


「阿呆、そんな目立つことをするわけなかろう」


「おや、酒が抜けたようですね?」


「どういう意味じゃ」


「どうもこうもございません、言葉通りでございます」


「あの狸爺の次はお前に軽口を叩かれるのか儂は」


 他愛もない会話と共に船は進む。

 機嫌の悪そうな言葉とは裏腹に鬼姫の目は楽し気に細められ、波を映す瞳が童のように輝くのを見た侍従はほんの少し頬を緩めた。


「なんじゃ急に微笑んで……薄ら気味悪い奴じゃの」


「いえいえ、少々懐かしき思い出に浸っていたまで。それより、曨へ着きましたら如何に致しましょうか」


 少々の思案。


「……参った」


「如何なさいました?」


「絞り込めぬ、兎角曨へ行くことしか考えておらなんだわ」


「それはそれは……」


 幼き日から時を共にしている侍従は再び、今度は傍目にもわかるほど笑った。


「それは大変、僥倖にございます」


「ほぅ……儂はてっきりまた馬鹿にされるものと思うておったが」


 少しばかり驚いた、また計画性がどうこうと言うかと思うておったゆえと揶揄うように言えば侍従はわざとらしく心外そうな顔をする。


「わえはそこまで絡繰りのようになった覚えはございません。それにせっかく出奔してまでの自由なのです。気の向くままに参られるのも大変よろしいかと」


「ふん、そうか。自由というには小うるさいオマケつきじゃがの」


「勿体なきお言葉ですわ」


「皮肉の通じん奴じゃ。つまらん」


 大旦那様のおかげで、と返せばふん、と鼻を鳴らして再び立つ白波に目をやってしまう。

 その紅玉にはまだ見ぬ冒険、まだ見ぬ明日が映っているのだろう。

 恐らくかつて旅人が語った物語を聞いていた時と同様に胸を高鳴らせている主人の胸中を察し、堪え切れず笑みを漏らすと不機嫌気な視線がこちらを睨む。


「さっきからなんじゃ、言いたいことがあるなら言わんか」


「いいえ。何も」


「「…………」」


「大嬢」


「なんじゃ」


「愉しみでございますね」


 今度は何も返さない。

 見た目に反し幾分幼い主を微笑ましく思いながら侍従も物思いにふける。

 船は未だ途上。

 長い長い旅路を共に行く主の背はこの旅の終わりに向かっていく中でどれほど大きくなっていくのだろうか。

 などと、柄でもないですね。


「……この眺めを肴にすればさぞ旨かろうのぉ……」


「大嬢」


「分かっておるわ。堅物め」


 軽口を載せて行く船を朝月と白波が見送るのであった。

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