夜になり、梢は自身のマンションに帰宅した。勤務先の『ひかり書房』から私鉄を乗り継いで一時間ほどの場所に位置するワンルームマンションである。
クッションソファーにもたれながら、梢は笑理から借りたデビュー作『指切りげんまん』の単行本の続きを読んでいた。会社に行けば在庫もあり、駅から自宅までの途中にある書店で購入することもできたが、あえて笑理から借りたのは、返却を口実にまた笑理に会うことができるからである。
入社以来、数多くの原稿に目を通してきたこともあり、梢の文章を読むスピードは速いほうであった。その日のうちに、梢は小説を読み終えた。
本をテーブルに置くと、梢は背筋を思い切り伸ばした。そしてふと、唇に手を当てた。昨日と今日で、笑理にキスをされた感触がまだ残っている。
「笑理先輩……」
頭の中は、笑理のことで夢中だった。これまで恋愛経験の無い梢にとって、笑理は初めての相手である。ふとしたタイミングで笑理のことを考えてしまうこの感覚が、恋というものなのかと梢は思っていた。
未だ笑理に直接会うと緊張することがあるが、それは先輩だから緊張しているのではなく、作家三田村理絵だからでもなく、心から愛している人だからだろうと、自分に言い聞かせた。
同じ頃、笑理は自身のマンションの書斎兼作業部屋で、パソコンで原稿を書いていた。梢が帰り、一人になった作業部屋では、ただキーボードで文字を打つ音だけが響いている。
ルーズリーフをまとめたファイルは創作ノートになっており、アイディアやプロットなどのメモが殴り書きされており、笑理はそれを見ながら原稿の執筆を進めている。しかしこの日は、作業効率が異常なまでに悪くなっていた。
赤縁のPC眼鏡をはずし、肩を回すと、椅子から立ち上がってストレッチを始めた。パソコン相手の仕事なので、肩や首が凝りやすく、執筆のタイミングを見計らってストレッチをするのが、笑理の日課だった。
ストレッチを終えると、再び椅子に座ったが、やはり筆が進まない。笑理はスマホの写真フォルダを開き、保存してある梢の寝顔写真を見つめた。
「会いたいよ、梢ちゃん……」
昨晩から数時間前まで会っていたはずの梢に、また無性に会いたいという気持ちが出ていた。これから編集者と作家という関係で、いくらでも会う機会はあるのに、梢の存在が恋しくなっている。愛している人ともっとずっと一緒にいたいと、心底梢に惚れている笑理だった。