午後になり、梢はソファーに座って、笑理のデビュー作『指切りげんまん』の単行本を読んでいた。読者というよりも、『ひかり書房』の編集者の目線になりながら、笑理の紡いだ文章表現に夢中になっていた。
すると突然、右頬に柔らかい何かがあたる感触があった。梢が思わず振り向くと、既に笑理に唇を奪われている。
「梢ちゃん、集中して読んでるんだもん」
隣に座る笑理は微笑んで、そう言った。
「三田村理絵先生の文体や特徴が、どんなものかちゃんと見ておきたくて」
「編集者の目になってたよ。でもさ、二人きりの時ぐらい、三田村先生って言うのやめようよ。私、梢ちゃんの前では、村田笑理に戻りたいんだから」
「笑理先輩……」
編集者をしている梢にとって、作家は常に孤独との戦いであることは分かっており、笑理の立場も痛感していた。前任の編集担当者が本人の希望で漫画部に異動したことは、文芸部長の高梨から聞いていたが、笑理にとっては編集者というパートナーが突然変わったことが少なからず動揺した出来事であったことは間違いないだろう。
作品を生み出すためのコンディションを良くすることや、モチベーションを上げることが編集者の仕事であると考えている梢は、改めて公私に渡って笑理を支えていきたいと思っていた。
「書けなくなったらどうしようっていう不安な気持ちはね、常にあるんだよ。これから先の人生、あと何作生み出すのか、そもそも生み出せることができるのかなって考えちゃうの」
これが、作家三田村理絵の心境であった。梢は担当編集者として、何ができるのかを考えようとしたが、今すぐにパッと思い浮かぶものではなかった。
「笑理先輩……いや、三田村先生。その不安な気持ちは、分かります。私、他にも担当を受け持ってますが、どの作家さんも言うんですよ。これから、今の作品よりも面白いものが書けるのかって。作家のクオリティを向上させるのも、我々編集者の仕事だと思ってます」
真剣な眼差しで梢は笑理を見つめた。
「ありがとう、梢ちゃん」
「あ、また三田村先生って呼んじゃいましたね」
「良いの。今の目は、私の後輩じゃなくて、担当編集者の目だった。偶然の再会だけど、梢ちゃんが後任の担当編集者になってくれて良かった」
「私も光栄です。三田村理絵先生の担当になれたんですから」
梢は笑理に手を握られた。そして微笑み合うと、どちらからともなく顔を近づけ、優しい口づけを交わした。