梢は落ち着かない様子で、笑理の作業部屋となっている書斎のソファーに腰かけていた。まさか三田村理絵の正体が笑理だったとは、未だに信じられない思いだったが、確かに本棚には『著・三田村理絵』と書かれた書籍がいくつも整頓されている。
何事もないように、笑理がケーキと紅茶を運んできた。
「こんなものしかないけど、どうぞ」
「ありがとうございます」
十年ぶりの先輩に向かって、何を聞いて良いのか分からなかったが、笑理はまるで梢の気持ちを読み取るかのように、
「作家三田村理絵の正体が私だって、驚いてるんじゃないの?」
「え……それは……」
「気づくと思ったのになぁ」
笑理は苦笑すると、デスクの上に置いてあったメモ帳とペンを持ってきて、『みたむらりえ』と書き、梢に見せた。
「並べ替えてごらん」
梢はメモ帳を凝視した。
「む・ら・た・え・み・り……あ……」
「アナグラム」
「全然気づきませんでした」
「ほら、紅茶冷めちゃうよ」
「はい……」
笑理に勧められ、梢はティーカップを手にしたが、やはり緊張してしまい、手が震えた。
「十年ぶりにこんな形で会ったら、緊張もするか」
ふと梢の脳裏に、十年前にキスをした情景が蘇った。
梢も笑理も共にテニス部だったが、笑理は部活内だけでなく学校全体で憧れの存在で、他校の生徒からも人気があったほどだった。当然笑理とキスをしたことは、この十年で梢は誰にも告げず、自分の胸の内に秘めていたが、間違いなくキスをした事実を周囲の人間が知れば、羨ましがられるだろう。それぐらい、笑理の存在は特別なものだった。
「十年前のあの日、私がキスをした後の梢ちゃんのリアクションを見て、私分かったの。梢ちゃんにとって、あのキスはファーストキスだったんだって」
梢は何も言い返せなかった。
「ファーストキスを奪った罪悪感みたいなのが私の中であったの……それで、何だか梢ちゃんと会うのも気が引けてたの。高梨部長から、後任の編集者の連絡をもらったとき、ただの同姓同名なのか、それとも本当に梢ちゃんなのか、正直ソワソワしてた。けどまさか、梢ちゃんだったなんてね……あの時は、ごめんなさい」
笑理はふと頭を下げたが、梢は慌てるように、
「そんなことありません。むしろ私、嬉しかったんです。告白をしてくれて」
「梢ちゃん……」
「私、ずっと笑理先輩のこと、忘れられませんでした」
意を決したように梢は深呼吸をすると、笑理の大きな瞳を見つめてそう言った。