笑理の顔が近づくと、梢はゆっくりと目を閉じる。唇に当たる感触は実に柔らかいもので、この瞬間こそ梢にとってはファーストキスだった。
微動だにしない梢が目を開けると、そこには優しく微笑む笑理の姿があった。
「笑理先輩……」
「梢ちゃん」
梢はそのまま、笑理にそっと抱きしめられた。密着した笑理の体のぬくもりが、梢にも伝わっている。
「じゃあね」
笑理はそれだけ言うと、梢の特徴であった三つ編みを撫でて、去っていった。梢はただ、呆然と笑理の後ろ姿を見送ったが、これが笑理の姿を見た最後の日となった。
あの卒業式から十年の歳月が流れ、入社四年目の春を迎えた梢は、都心にある出版社『ひかり書房』で、小説担当の編集者をしている。三つ編みだった髪型はポニーテールに変わっており、どちらかと言えば控えめだった性格も、編集者という仕事柄か割とハキハキした物言いになっていた。
「山辺君」
名前を呼ばれた梢は、文字校正中だった原稿と赤ペンを置き、文芸部長の高梨のデスクへ向かった。
「三田村理絵先生の後任、正式に君になった。先生には、既に俺から後任の担当が君になったことは伝えてある。近いうちに、先生の事務所に挨拶に行ってきてくれ」
「分かりました」
名前以外に公となっている情報は出ていないものの、三田村理絵と言えば恋愛小説のヒットメーカーで、文芸部にとっても大きな存在であることは梢にも分かっていた。
数日後、梢は高梨から教えてもらった住所を元に、スマホのマップアプリを見ながら、私鉄で三十分ほどの郊外を歩いて、三田村のマンション兼事務所を探していた。
とある高層マンションに到着すると、梢は部屋番号を押し、インターホンを鳴らした。
「はい?」
スピーカーから女性の声が聞こえた。
「『ひかり書房』の山辺と言います。ご挨拶に伺いました」
「どうぞ」
と、声が聞こえ、オートロックとなっている自動ドアが開いた。
三田村の部屋の前に来た梢は、ドアの前でチャイムを鳴らした。部屋からはこちらに向かってくる足音が聞こえる。
「やっぱり、梢ちゃんだ」
ドアが開き、明るい声で出迎えたのは、笑理だった。あの長い黒髪は健在である。
「笑理先輩……」
突然の笑理との再会に、梢は思わず唖然となった。