思考の時間は終わった。俺は、〝家〟の離れ、暗闇の中にいた。静かで、湿っていて、絶望の匂いがする部屋。もうこの場所にいる理由は無い。外に出て、やるべきことを一つずつ。一つずつこなしていって、その後、俺は自分の中にあるあやふやな答えを一つにまとめる。俺が一番求めている形。辿りつくべき場所。あと、少しだ。
ドアノブに手をかけた。揺すって騒げば誰かが来て、様子を見るだろう。少しでも開けば、それを機に無理矢理にでも外へ出る。そういう算段で、力いっぱい。あっさりと回ったドアノブのせいで少し肩を痛めた。予定外だ。
開いた扉の外は、暗くて深い夜だった。空気が冷え切っている。俺の記憶が確かならば、もう春が随分深まったころのはずだ。そう考えれば、それほど寒くないようにも思えてくる。まだ何処にも来ていないはずの夏を体感三日。俺の身体はとても単純なのだ。全部嘘の世界なんだ、あんなもの。そう思って、それからすぐに自分で訂正。ミイに会った。触れた。撫でた。体温を感じた。あれは嘘じゃない。嘘なんかでたまるか。
拠点内は静まり返っていた。人の気配はまるでしない。中にも誰もいなかった。どの部屋の扉も開け放たれている。部屋ごとに差はあるけれど、殆どの部屋がひどく散らかっていた。慌てて出ていったのか、それとも、逃げたのか。さて、何があったのやらと思って参謀室まで行ってみると、扉は開け放たれていて、机に頬杖をついてミカミが座っていた。
「ああ、ようやくおでましのタケさんか。家ん中、見ました?」
「誰もいねえ」
「総攻撃、見事しくじりましてね。半分以上捕まりました。どうもね、いけない。街の何もかもがあいつらに味方してる感じだ。人の数も異常だし、連中のボス、あのドウサワとかいう奴が合図すりゃあ、タケさんの家の前ん時と同じ、おかしなところからやたらガタイのいい奴が生えてくるし……まあいいや。そんなこんなで壊滅っす。逃げ帰った連中の半分は寝返ったんじゃないすかね。いつの間にかいなくなってたんで。んで、仕方がないから残ってた奴らも全員外に出しました。ま、ダー坊にトシオ加えても十人いなかったけど……」
「お前は?」
「行くとこなんかねえんだよ! 今じゃ、俺もあんたも同じだ。役立たずのクズだろ……マジで笑えてくる。俺達は一体何やってたんだ? リーダーだのなんだのって偉ぶって、なんにも出来なかった。ま、悪かったっすよ。もしあのままタケさんがやってたら、こんなザマにはならなかったかもっすね。すんませんでした」
頬杖を外し、机に両手をついてミカミは頭を下げていた。伸びきった髭と、乱れた髪。疲れた目。震える手。数十秒、俺は言うべき言葉を探した。
「ミカミ、少し時間をくれ。やりたいことがある」
「何処へでも行けばいいじゃないすか。もう、此処は駄目だ」
「俺がやろうとしてること、聞いてくれるか?」
「興味ねえっすね。あいつら、街を完全に作り換えるらしいですよ。これまでの、従属することに慣れ過ぎた奴らも全部まとめて消して、俺達からは自由を没収だそうで。勝手にしやがれってんだ」
「お前はどうすんだよ。行くとこ無いって言ったって、此処に居続けるわけにもいかねえだろ」
「これから決めるんですよ。俺は……経緯はどうあっても此処の頭張ったから……最後の一人が消えるまではいるって最初から決めてたんで。だから、早く消えてくれっつーの。あんたがぐずぐずしてると俺も動けねえんだよ……!」
何度も離れに来て、俺に声をかけたらしい。俺は返事をしなかった。ミカミが言うには、室内には確かに〝俺〟が眠っていたらしい。ミカミは、そんな俺を待っていた。礼を言い、謝罪し、俺も外に出た。早く、少しでも早く終わらせないといけない。心が走りだす。身体も走らせようと思ったけれど、離れにずっとひきこもっていたせいだ。上手くいかなかった。よたよたと、ばたばたと、出来るだけ急ぐ。街中を見て回りたかった。そうして、自分が求める答えにたどりつくための方法を見つけるのだ。答えは、離れに戻ってきたその時からずっと、ひらひらと俺の前を漂っている。俺は走り、手を伸ばし、それを捕まえればいい。そんなに難しいことじゃない。確信がある。俺は今、正しいレーンにいる。止まって考え込んでいる時間は、もう、少しも見当たらなかった。
*
街中をうろついて回った。既に〝作り換え〟が済んだのかもしれない。街はもう、俺の知っている場所ではなかった。何処かで見たことがある奴ら、かつては俺たちと同じ、好き勝手を働いていた顔ぶれが魚を売ったり花を売ったりしていて、おなじように、何処かで見たことのあるどこかし等の構造でしかなかった奴が欠伸を噛み殺しながら街を闊歩していた。タクシーを止めると、お前は駄目だ、乗せられねえ、と断られた。その運転手も、俺が見たことのある――多分、劇場で何度か会ったことがある奴だ。随分懐かしい顔に見えたから、おそらくは〝家〟には参加しなかったのだろう――市民だった。
俺が元住んでいた家の跡地にはピカピカの新しい家が建てられようとしていた。近づくと、作業をしていた連中に追い払われた。
アオによく似た女の子を見かけた。声をかけたら、無視された。ニイサンによく似た男も、マスターによく似た男もいた。全員、新品だ。俺の事なんか知らなくて、これまでの経緯も知らない、新しい人々。
俺たちの自由はもう無い。街は、俺の知らない場所になりつつある。なのに、俺はまだこうしている。まだ出来ることがあると思って動きまわっている。ミイがこれを見たら、何と言うだろう。「往生際が悪いのはよくないと思うな」なんて、ミイがもし言ってくれるなら両手を挙げて投降してやっても良いのだが。幸いなのかどうか、街にはミイも、ミイに良くにた新品の子供もいなかった。おかげで、くじけないで済んだ。
黒いスーツに身を固めた男に声をかけられ、紙きれを渡された。〝自由の家〟に関与していてまだ仕事を割り振られていない人間は七番通りにある職業指定所なる施設に出頭しなければいけないらしい。行かないと、混乱の収束を目的に新設された治安維持部隊によって身柄を拘束するだとか何とか。途中で、俺が誰だか気がついたらしい。「今日は見逃してやるが、すぐに出頭しなければ強制的に収容するからな」だと。言うまでもないかもしれないが、適当に聞き流した。聞いているフリは、割と得意だ。
騒ぐのにまだあまり馴れていないらしい新品どもが十一番通り沿いをわがもの顔で歩き回っていた。どうせ新品を用意するならばあらかじめ遊び方も仕込んでやれば良いものを。何の都合かそういうことはできないらしく、全員が全員、醜い酔い方をしていてそこら中の壁や看板を蹴飛ばして回っていた。騒ぎ方が全然なっちゃいない。道の片隅では、こちらも全然なっちゃいない、下手くそなバンドが路上ライブをしていて――足を止めて聴いている奴なんか誰もいなかった――そのバンドの連中と酔っぱらいが口論を始めたかと思えば、すぐにそれは殴り合いになった。
新しくなったあいつらは、今でも街の部品で、都合に合わせて出たり消えたりするのだろうか。案外、俺達が今ではそういう扱いになっていそうな気もする。考えても仕方のないことだけれど、花が咲くことに怯えていたあの頃とはまた少し違う、身体の芯がずしりと重くなるような恐怖に駆られて、ほぼ決着がつきかけていた殴り合いに乱入して、どさくさに紛れてバンド側と酔っぱらいそれぞれを殴りつけてやった。こんなの、ただの暴力だ。
〝家〟にいた奴を見かけるたびに話しかけた。殆ど全員が、俺の事を気まずそうに無視した。箱の連中に言いつけに行った馬鹿がいたせいで、早速、追いかけまわされるようになった。
街中を、うるさく騒ぐ街宣車が何台も走りまわっていた。どの車も流す放送は一緒だ。もう〝自由の家〟は瓦解した。もう市民は何処にもいない。もう争いは終わった。大人しく投降し、新しい街の一部にならなければいけない。そんな内容だ。どうやら、隠れて反攻の機会を窺っている、残党と呼ぶべき奴らが何処かに潜んでいるらしい。投降を拒否する元市民を見かけたら通報するように、だと。一度追いかけられてからは俺もすっかり通報対象になったらしい。街宣車すら俺を見かけるとハイビームやクラクションを飛ばしながら追いかけてくるようになった。
夜は、路地の片隅にあった工事現場で息を潜めて朝を待った。物音がするたびに目を覚ました。喉が渇いて仕方が無かったから、夜明け前にもう一度街中を歩き、飲めるものを探した。結局、安全に飲めそうなものなんか何もなくて、ちょうど閉店前の掃除をしていた、おそらくまだグランドオープンしたばかりのバーに押し込んで、適当な酒と水を強奪した。店内には、俺が通っていたバーのマスターとは似ても似つかない、気の弱そうなマスターが一人しかいなかった。見たこともない奴だったけれど、街の主導権が俺たちから消失している以上、こいつもかつては市民だったのだろう。向こうは俺のことをちゃんと知っていた。
「何も言わずに水と酒をよこせ」
「タケさん……あんたも投降したほうがいい。もう終わったんだから。商売とか、こうしてやるのも悪くはないよ。ムカつく客もいるがね。俺達はこれまで随分遊ばせてもらった。そのツケを払っていかないといけないんだから。それが今の街の流れだよ。流れを読んで賢くやってかないと。だいたい……」
話が長くて鬱陶しかったから、横顔を一発殴りつけて、そのまま逃げた。なんだか、上手く言葉に出来ないほど気が立っていた。扉を閉めた直後に、饒舌過ぎるマスター氏が何処かに電話をかける声が聞こえた。強盗で、犯人は元自由の家の首謀者です、とでも言っているのだろう。どうせ、もう既に追われているのだ。あまり関係無い。水が二リットルに、酒が一リットル手に入った。治安維持部隊が来るまでにはしばらく時間がかかるだろう、と踏んでもう一度店内に戻り、酒を返した。勢いでかっぱらったけれど、ちょっと邪魔だったのだ。その代わりとして、店内にあったつまみを数種類、改めて強奪した。気持ちが落ち着いたのか、マスター氏が包丁を手に抵抗してきやがったから、手近な酒瓶を投げつけて黙らせた。別の酒瓶に当たって、両方割れて、周囲が大惨事になった。マスター氏はすっかり怯えてしゃがみこみ、「なんなんだ、なんなんだ……」とぶつぶつ言いながら震えていた。なんだか、とんでもない悪党になった気がする。
とりあえずの食事を済ませ、なんとか気持ちを立て直してからは、前の日の続きだ。手当たり次第に話しかけて回った。相手をしてくれた奴が何人かいたから、俺がやろうとしている事を話した。一緒にやりたがるような物好きは一人もいなかった。ふうん、と聞き流す奴が三割で、ようやく諦めがついてきてるんだから余計なことするな、と文句をつけてくるやつが七割。かえって決心がついた。
数日、似たような日々が続いた。つまり、話しかけて、大半に無視されて、追いかけまわされて、飢えると店を襲う日々だ。監視の目が日々厳しくなっていって、最初に襲ったバーなんか、常時、治安維持部隊の見張りが目を光らせるようになった。少しずつ襲いやすい店が少なくなっていた。空腹を我慢して、渇きを我慢して、歩いて、話して、追いかけられる。建物と建物の隙間の細い路地で何度か気を失うようにして眠った。道端に生えている雑草を見つけては食べた。味なんかしない。遠くから〝この近くの筈だ〟なんて声が聞こえてくる。身体を無理に立たせて、逃げる。店はもう難しそうだから、と腹をくくって、普通の家に押し入って略奪もした。小さな、ミイよりも小さな女の子が一人で留守番をしていた。俺の姿を見て泣いて、俺の振る舞いを見て逃げ出した。構っている場合じゃない。それでも、ここ最近の毎日の中で一番くじけそうになった瞬間だった。
投降せずにゲリラ戦を展開している連中の隠れ家に引きいれられたのは十五日目の夜で、夜の暗さに乗じて、襲えそうな家を探している途中だった。拠点にいた奴らのうち十数人が群れていた。ダー君とトシオ君もいた。
「おいタケシタヒロシ。お前はてっきり諦めて何処かでタクシーでも転がしてるんだとばっかり思っていたがな」
その場を取り仕切っていたのは、どういう経緯からなのか、随分前に逃げたはずの酔っぱらいだった。相変わらず酒臭くて、赤い顔をしていて、偉そうで、少し不機嫌そうな、街一番の酔っぱらい、クサカ。曰く、もう他の奴らに任せるのはうんざりなんだ、だそうだ。
「姐さん、タケさんはそんな簡単じゃないと思います。と言うか、姐さんがそう主張して探させていたんじゃなかったかと」
ダー君が半ば笑いながらそう言い、トシオ君が無言、無表情のまま頷くと、クサカはつまらなそうに鼻をならし、グラスを俺に突き付けた。
「まずは再会に乾杯だ。話はあとにしろ」
*
クサカ達のアジトは、現在でもきちんと運営されているパン屋の二階だった。街が変わる前も此処はパン屋で、当時は赤ら顔の、オジイ、と近辺で呼ばれていた奴が店主をしていた。今の店主は、なんともおかしなことに、トシオ君だった。〝自由の家〟が瓦解し、街に職業指定所が出来た時にダー君とトシオ君で話し合い、アジトに出来るような場所を確保すべく、他の賛同者も一緒に職業の指定を受けたその結果こうなったらしい。
「あんなの、指定でもなんでもないですよ。こっちが希望を言う。箱が幾つか並んでて、向こうが指定した箱の中のくじをひかされる。殆どの奴がタクシーの運転手か治安維持部隊の下っ端にされる。当たりくじが、こういう店の運営みたいで。まあ、上手くいかなかったら諦める腹積もりだったんですけど」
ダー君は、俺の知っているかつての彼よりも饒舌になっていた。今ではこのアジトの活動のほぼ全てを取り仕切っているらしい。
普段からアジトの方針会議なんかで使っている、という一室に通された。室内にいたのはクサカやダー君、トシオ君を入れて十三人。全員が此処にいるらしい。俺が中に入ると、何人かが、「おお」と声を漏らした。俺を此処まで引っ張ってきた若い男が得意げに「俺が見つけたんだ、近くの道端に落ちてたから」と言うと、クサカが「何人かは、余計なことしやがって、なんて思っていそうだな」と言い、部屋全体を見回した。それに合わせて俺もぐるり、見渡すと、確かに不満そうに俯いている奴が数人。
「なんにもしなかった奴招き入れて何になるんだか」
はっきりとクレームをつけてきた奴も一人。ミカミの助手をしていた女の子だった。あの日の醜態で嫌われたのか、それとも、それ以前から反感を買っていたのかは分からない。
「それでも、こいつは必要だ。こいつが本気で声を出せば、ついてくる奴がまだ街にはいる。人が増えれば、もっと美味い酒が飲める」
クサカがそう宣言すると、室内はすぐに静かになった。どういう方法を使ったのか分からないけれど、クサカはこのアジト内で相当な信頼を勝ち得ているらしい。本当に、どうやったのやら。
「おい、酒だ。酒、酒」
クサカがそう号令すると、室内の全員に酒で満たされたグラスが手渡された。それを合図にトシオ君が部屋の外に出ていく。パン屋として営業を始めた以上は、それに基づいた生活をしなければならないらしい。つまり、夜、早くに寝て、朝一番、誰よりも早く起き出してパンの仕込みをする暮らしだ。そんな説明をダー君がしてくれた。
「そうするのがこの場所を出来るだけ長く使うためには一番だって、奴は言ってました。なんか申し訳ない気持ちでいっぱいですけど」
「そういうことだ。タケシタヒロシ、酔っぱらってあんまり騒ぐなよ?」
クサカがそう言って笑う。一番騒ぎそうなのはお前だ。
「あたしは騒がんさ。あの頃と同じってわけにはいかん。まずは、好きに騒げるような元通りの街にしなきゃいけないからな。そういうわけで乾杯だ、お前ら、好きに飲め。但し騒ぐな」
酒をある程度飲みだすと、まず、俺が部屋に入った時に声を漏らした奴らを中心に、俺に好意的な奴が残らず寄ってきて、「無事で良かったです」だの「ずっとタケシタさんが仕切ったほうが良かったって思います」だの、クサカの言いつけなんか完全に無視して騒ぎだした。
「あの頃は何にも出来なかった。多分、俺が続けてたって、結果は同じだっただろうよ」
「それでも、無謀な突撃なんかしなかったと思います!」
「そう、その通り。あれはただの蛮勇だった。結果、沢山捕まった。知らないと思いますけど、捕まった連中はこうして職業が順次割り振られてる今でもまだ捕まったままなんですよ。治安維持のため、とか何とか理由をつけられて。何度解放を嘆願しても奴ら、聞く耳も持たない」
わいのわいのと俺に話しかけてくるのは二人、どちらも自由の家にいた、ジョウノという若い男と、それよりも少し年上で、スキンヘッドにして、頭の横に〝夢〟と入れ墨をしているサガミザワ。巨躯で、手足も胴体も分厚い筋肉に覆われているその見た目にはあまり似合っていない、繊細な、壊れもののような話し方をする。その他にあと四人が、その周囲を取り巻いていた。
「おい、タケさんがせっかく来てくれたのにそこでシケた面してる奴ら、失礼だろ」
ジョウノがそう言うと、元ミカミの助手の女の子が代表して舌打ちでもってそれに応えた。
「囲む馬鹿どもと囲まれる大馬鹿ね……みっともない光景だわ」
「彼女に一体何をしたんですか? 普段はとても快活な子なんですけど」
サガミザワが心配そうに、とても壊れやすそうな、小さな声をこぼすと、「あんなの、放っておけばいいんですって、サガミーさん、優しすぎ」とジョウノが混ぜ返す。
「特に覚えはねえよ。二日酔いでぶっつぶれてるところを一回見られたぐらいだ」
「じゃあ放っておきましょう。そんな程度で未だにどうこう文句があるような奴、相手にする必要はありません」
サガミザワがそう言い、それからジョウノが「いいから他の奴らこっち来いって。て言うか、どっかに楽器ないんすか、楽器。生でタケさんの歌、聴きたいんですけど、俺」と大声を出す。その後頭部をクサカが派手にひっぱたいた。
「バカだね、こいつは。此処で歌って騒いだりしたら、あたしら全員捕まって終わりだろうが、このバカ」
「姐さん……すんません」
「治安維持部隊、とかいう奴らか?」
「あたしらの中じゃ、面倒くさくて〝豚〟って呼んでるけどな」
クサカが言うには、箱側としても、元市民の運営する店が反抗的組織の温床にならないように目を光らせているらしい。実際に、数日に一度はクサカが言うところの〝豚〟が様子を身に来て、不穏当な事をしていないか確認する、とか何とか。
「そんなんだから、あたしらの中で、店の仕事を引き当てた奴は、あのひょろい兄さんだけだった。多分、大人しそうに見えたんだね」
「お前は何の仕事してるんだよ」
「あたしが仕事なんかすると思うのか、お前は」
「訊いた俺が馬鹿だった」
「そういうことだ」
「そんな話は後にして、飲んで、飲んで、酔っぱらいましょう」
「お前ら、潰れるまで飲んでな。先にあたしは遅刻してきた奴に此処のことを説明しておく。タケシタヒロシよ、こちらへ来い。グラスはそのまま持ってくるんだ」
*
クサカに連れていかれた別室は、小麦粉やその他、パンの材料らしいものが備蓄されている倉庫だった。床一面、湿気よけの簀が置かれていて、その上にあぐらをかいて座り、クサカは例によって飲み始めた。いつでも、何処でもクサカは酒を飲むのだ。どんな時だろうと、いかなる状況だろうと、クサカの飲酒をとめることなんか誰にも出来ない。
「なかなか、悪くない場所だろ? 諦めの悪い奴らを集めたら、こうなった」
「何をしようとしてるんだ?」
「街を混乱させるのさ。もう一回、街の中枢とやらが考え直すように。無駄な抵抗過ぎて、笑えてくるだろ。此処にいる奴らは全員そんなこと分かってる」
「じゃあなんでわざわざこんな手の込んだことしてるんだよ」
「気の合う連中と少しでも長く、良い酒が飲みたい。ひょろい兄さんが頑張ってはいるが、こんなパン屋ごっこ、そのうちに追い出される。それまで毎日飲んで暮らす。適当に箱連中を捕まえたり、連中の作った建物を壊したりしながらな」
「まあ、お前らしいな……ミカミに閉じ込められて逃げたあとはどうしてたんだ?」
「そこらをうろついていただけだ。何軒か飲ませてくれる店もあったからな。そうしたら、あっという間に〝家〟が終わった話が流れて、ひょろい兄さんや丸い兄さんと一緒に、此処を作った。そんなんどうでもいいだろう。それよりお前は? お前だって、街を適当にほっつき歩いてただけじゃない。何か目的があった筈だ。報告があがってきてる。手当たりしだいに話しかけて回ってたらしいじゃないか」
「街を、ひとつにする」
俺は、出来るだけ丁寧にクサカに話した。中枢で、街の終わりで見たもの、聞いた言葉。ミイとの再会。喋りながら、自分の考えにおかしなところがないかどうかを確認。大丈夫だった。間違いは無い。
「やっぱり、お前は何か、他の奴とは違うんだね。選ばれてる……だっけか。何かしら、お前にしか出来ないことがあるんだろうな」
「上手くいくとは思えんし、上手くいきそうな方法も思いつかねえんだが」
「これはあたしの勝手な考え方かもしれんが、お前が思いついて動いてる以上、やれるさ。この街はそういう風に出来てる」
「その考えにはある程度、同意出来るね。やあ、久しぶり」
扉が開くと同時に投げ込まれた声。少し懐かしさを感じるのは、多分、前にも似たようなことがあったからだ。こいつはいつでも、頃合いを見計らってやってくるのだ。どうせ来るのなら、例えば俺が渇きと飢えに苦しんでバーに押し込み強盗を働く前に来てくれれば俺は余計な犯罪に手を染めないで済んだものを。
「勘違いしないでほしい。僕は何も、一方的に君を助けるためにいるわけじゃない。君のために動いているのではなく、街のために動いている。これが前提だ。つまり、簡単に言えば、君の行動が街に向かっている時、僕もまた動くわけだ。ああ、僕にも一杯もらえるかな?」
クサカが酒瓶を回すと、オルヴァーは自分のグラスに酒を注ぎ、悠然とその場に座った。わざわざグラスをちゃんと持ってきているあたりが何だか腹が立つ。自分の居場所や立場、相手の出方をちゃんと把握しているらしい振る舞いだ。
「で、オルヴァーさんよ。あたしの考えに賛成してくれるためだけに出てきたのか? あたしの残り少ない酒を分けてやったんだ。納得のいく回答が出来ないなら、この場に全員呼んでフクロだぞ、お前」
「僕がこうしてタイミングを見て此処に来た事がひとつの答えになるんじゃないかな。僕は君達とも、箱側の人々とも違う、特別な存在だ。街が、街のために用意し、街のためにだけ動く。街が必要性を認めた時にやってきて、そうでない時、僕は、何処にもいない」
「つまり、タケシタヒロシがこうして目的を持って動いているから出てきたのか?」
「その解釈で問題無いよ。僕は街の中でもタケシタ君に好意的な意思の支配下にあるからね。もう随分、勢力も弱まった。殆ど出来ることはないが、それでも最後まで協力しないといけない」
「なあ、あたしはよく分からないんだが、お前さんの言う〝最後〟ってのはいつなんだい?」
「それは街が判断することだよ。現状、街は新しい形に落ち着きつつある。君達のグループは破れ、箱によって街は再構成された。自由の総量は何も変わっていない。だが、その所有者が変わった。このまま落ち着き、街の乱れた調和も完全に閉じるのか、それとも、君達が再度蜂起するのか、街は注視している」
「あんたが……いや、街の中枢が手伝ってくれるんなら、やりたいことがある」
俺がそう言うと、オルヴァーは酒を一口飲み、いかにも可笑しそうな口ぶりで「もう、〝俺はどうしたらいい?〟って言わないんだな。僕の知っている君らしくなくて、何だか面白くないな」だと。大きなお世話だ。
「頼む、やらせてくれ。ミイだけじゃない、いろんな奴に、いろいろしてもらった、その分を俺は返さないといけない」
「おいタケシタヒロシ。その方法とやらを話せ。あたしに内容を話す前にオルヴァーに協力を持ちかけるなんてのはこのあたしに失礼だろうが」
「確かに、こちらの美しいお嬢さん、それに、君の案には他にも参加者が必要なようだからね。全員を集めて、全員にタケシタ君の口から内容を話すんだ。状況的に、これが結果はどうあれ、最後のアクションになる。悔いが無いようにしてくれ。それが何より大切だ」
「何をするのかをさっさと言え、とあたしは言ってるんだ!」
「さあタケシタ君、最初のメンバーが君の腹案を聞きたくて仕方がないみたいだ」
オルヴァーがわざとらしいふざけた口調でそう言う。言われるまでもない。考えた結果思いついた、俺に出来ること。思いついたのは、街を歩き回って、人々に無視され続けた中でのことだ。自分があまりにも無力で、笑えて仕方が無かった。ほんのちょっと前まではステージの上で、俺の一声で皆、飛んだり跳ねたり合唱したりしていたのに。悔しさや馬鹿馬鹿しさの中で思ったのだ。俺に出来ることなんか、一つしかなかった。
「ライブだ。街がぶっ壊れるくらいの」