目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 6 十年目? Lost heaven

 ギイ、という音が鳴ると、それから数秒して外の光が差し込む。暗がりじゃあんまりだから、と電灯も用意されているけれど、あまり必要な時は無いから殆どつけない。かえって、暗がりのほうが落ち着きを保ちやすかった。

 場所は、家の敷地の片隅にある離れだ。俺は、こんなものがあることすら知らなかったのだからミカミ達の判断した通り、リーダーとしての資質に欠けていたのだろう。今では、自分でも驚くぐらい冷静に、そう考えている。

 暮らしぶりは至って単調だ。一日三回、食事をする。時々排泄する。照明のスイッチを入れるのは、これらの時だけだ。離れの片隅に、垂れ流しの、死にたくなるような臭いのするトイレがある。蓋がついていなかったら、きっと今頃は頭か身体のどちらかがおかしくなっていたことだろう。

 それ以外の時間はじっと座って、或いは横になって考え事をする。暗闇の中に身体を溶かして、呼吸のペースを落として、意識を、細くて長い線のようにする。考えることはその日の気分次第だ。ミイのこと、クサカのこと。ミカミのことの日もあれば、音楽がテーマの時もある。街のこと、消えた雑民達のこと、箱、オルヴァー、アリシア。アオ、酒、それに、自由について。

 他にやることが無いから、じっと考え続ける。何が正しくて何が間違っているのか。それに、そもそも、そういう正解、不正解の判断は必要なのかどうか。自由って何だ? 街は、誰のものだ? まるっきり姿を見せなくなったオルヴァーは何処で何をしている? 箱の連中側は、今、一体どんな気持ちでいるのやら。これら、答えなんか何処にもありそうもない疑問を、順番に考えて、行き止まりで立ちつくして、仕方なく方向転換して、また考える。

昨日だったか一昨日だったか忘れたけれど、別の部屋に拘禁されていたクサカは食事を運んでくる当番の人間を誑かして脱走したらしい。理由なんか考えるまでもない。閉じ込められている限り、酒なんか飲めないのだ。きっと今頃は何処かで酔っぱらいになっていることだろう。少し羨ましいけれど、俺には見張りを突破するような力も技術も無いから、どうしようもない。ただじっと、考え続ける。疲れてくると、そのまま、暗闇の一部のように眠る。そして、ミイの夢を見る。

 確信がある。ミイはまだ、何処かにいる。根拠も無いし、誰かから目撃談が寄せられたわけでもない。それでも、分かる。ミイは何処かにいる。何処かで、俺のことを待っている。三日に一度ぐらい、そういう気持ちが強くなる。そういう時は、ミイを助けた後でやりたいことや、話したいことを考える。少し難しいことを言った時に小首をかしげるミイを思い出して、頭を撫でてやった時の、満足げな、細くなる目を思い出す。そもそも俺にとってミイが何だったのかを考える。命。失ってはならないもの。守るべきもの。間違ってはいないと思うけれど、どうもしっくりこない。多分、この問いに対する正しい解答を得るためには、同時に、ミイにとっての俺が何だったのかも考えなければいけないのだ。そんなの、ミイに訊いてみないと分からない。何処かに絶対いるのだから、助けてから訊けば良い。俺にとってのミイと、ミイにとっての俺。命で、守るべきで、失ってはならないもの。或いは、それ以上の何らか。俺がミイを必要としているように、ミイも俺を必要としている。それは確かだ。だから、あまり心配する必要は無い。俺は暗闇の隙間でそんな結論に至り、そっと頬を緩ませる。そういう、気分が良い日もたまにはある。



 最初のうちは食事回数から自分がどれぐらい閉じ込められているのかを計っていたけれど、そんな面倒なことは随分前に止めた。だから、大体だ。体感から、おそらくまだ二カ月は経っていない。また扉が開く。それに合わせて目を覚ます。外から差し込む光の色で、朝昼晩の区別はつく。朝だった。何か、とても楽しいことを考えていた気がする。何だか思い出せなかった。

「今日、ボスが話をしたいそうですが、良いですか?」

 食事を運んできた若い男がそうう言ってきた。ボス、つまりミカミ。奴は、自分のことはそう呼ぶように、と指導しているらしい。前に話をした時にそんなことを言っていた。組織内ではきちんと、誰が上で責任者なのかをはっきりしておかなきゃいけないから、とか何とか。

「構わねえよ。何かやることがあるわけでもねえしな」

「そう伝えますね」

 それだけ言うと、昨晩の食事の空いた皿を下げて男は帰っていく。また、ギィ。暗闇。照明をつける。部屋の中が明るくなって、俺の身体の正面に、鬱陶しい影が生まれる。此処で生活するようになって、俺はこれまでの暮らしからは信じられないほどに暗闇と親しくなった。この明るさに不安を覚える。だから、急いで食事を片づける。美味くなんかないから、味わったりしない。かきこむ。げっぷをひとつして、皿を扉脇、所定の場所に置き、消灯。それから、腕立て伏せを五十回に腹筋を五十回。少しは身体を動かしておかないと、いつか元通りの暮らしに戻った時に困ると思って習慣とした。身体が汗ばんだところで、そのまま横になる。呼吸を整えながら、意識を闇に溶かす。体中が汗臭かったから、面倒ではあったけれどもう一度照明をつけ、部屋の隅にある蛇口で備え付けのタオルを濡らし、体中を拭いた。それから、二日に一度運ばれてくる新しいシャツに着替える。ミカミが来ると、色々煩いのだ。服を用意しているんだからちゃんと着換えろだの、暗いままにしておくのはあまり好ましくないだの、俺にとってはどうでも良いようなことばかり言う。

再び照明を落とし、俺は思考を始める。そもそも、どうして俺は此処に閉じ込められ続けなければならない? 不要な存在なら、〝家〟の外にでも放り出したほうが、余計な食糧を使わなくて済むのに。しばらく考えたけれどそんなに面白い答えは浮かばなかった。

「おはようございます。ご機嫌はいかがですか?」

 ミカミが、この場にはどうも似合わないそんな挨拶を伴って入ってきたのは、朝食からしばらくして、俺が次の空腹を感じ始める頃だった。昼飯の時間か、と思って扉の開く音に耳を傾けていたら、挨拶。ミカミが外の光を背に受けて微笑していた。

「明かり、つけてくださいよ。せっかくそういう設備、改築してつけたんですから」

「放っておけよ。別に俺は不自由していない」

「それにしてもこの離れ、もうちょっとマシな暮らしが出来る場所だと思いますがね。まあ、急ぎで倉庫を改築したんで、ちょっと埃の臭いが残ってますが」

「ふうん、ここ倉庫だったのか」

 〝家〟内に複数、倉庫代わりにしている部屋があることぐらいは俺も知っているけれど、離れた場所に独立して倉庫があったことなんかまるで知らなかった。もっと拠点の中をちゃんと歩いて、この場所もちゃんと見ておけば、もしかしたら抜け出す手段の一つぐらい知っていたかもしれないのに。もっとも、それほど抜け出すことに執着してもいないが。

「正確には、此処が劇場として使用されていた頃の倉庫です。タケさん用の個室として改築する以前から、懲罰房にするつもりで中は空にしてありましたから」

「懲罰?」

「おしおきですね。悪さした奴を数日閉じ込めておく……まあ、そういう部屋です。その用途では一回も使いませんでしたが」

「別にどうでもいいさ、そんなの。クサカは見つかったのか?」

「まだですね。と言うよりも、殆ど探してないです。あの飲んだくれ、どうにも備蓄を減らしすぎる。それに、知ってるでしょ? 俺はああいう面倒な手合いは好きじゃないんで」

「そう言ってやるなよ……まあ、あいつからいなくなったってとこが問題だが」

「その話はまたいずれ。それより、今日は報告があるんです」

「良い報告なら聞きたいけど、悪い報告ならいらん。どうせ此処にいるんだ。外で何があっても殆ど関係が無い」

「聞きたくないって言っても、聞いてもらいます。箱の本拠地が割れました」

 扉は開いたままで床に腰をおろしながらミカミはそう言った。面白くもなさそうな顔だ。あれだけ箱側に攻め込みたがっていたミカミ達にとって本拠地判明が吉報にならない。つまり、代償が小さくなかった、ということなのだろう。

「十人のチームで箱連中を尾行しましてね。いつだったかの会議で報告したように、連中は本拠地以外にも複数、隠れ家を用意していますからね。手間取りましたが、ようやくです」

「俺達側の損害はどうなんだ?」

「十人のうち八人が捕まりました。楽観出来るような状況ではありませんが、悲観することでもない。元より、帰れない覚悟の出来ている人間を十人選抜したんで」

 表情を薄い笑いに変え、ミカミがそう言った。何だ? これは、何だ? 心がひどくざわついていた。帰れない覚悟? そんなものを、自分の本心として口に出来る奴なんか本当にいるのか? それに、ミカミの言葉。〝悲観することでもない〟。覚悟が出来ていようといなかろうと、仲間がいなくなるのは悲しいことだ。例え、本当に、少しの悲しみも持っていなくとも、そんなこと、わざわざ口にすべきことじゃない。俺はそう思う。

「勿論、他の連中の前じゃこんなことは言いませんよ。全員の無事救出を念頭に置いて次の作戦行動に移る、なんて。これも別に嘘じゃないんですけどね。ただ、俺の本心としては、俺達が無理矢理に行かせたわけでもないんで、ある程度自己責任って感じですかね。助ける努力はするけど、しくじったらごめんよってね。わざわざ言うほどのことでもないけど、勝つべきは俺達っていう集団で、そこには犠牲になる奴もいりゃ、勝手に逃げる馬鹿もいる。そんなの気にしてらんないでしょ、実際」

「どっか行けよ、お前。悪いけど、俺には理解できん」

「……指揮官ってのはひとつひとつをむらなく、機械的に片づけていくべきなんすよ。タケさんみたいに大真面目にやってたら、終わるもんも終わらない」

「だから勝手にやれよ。俺はもう関係ない」

「一応、誘いに来たんで用件を。近日中に、総攻撃ってことで全員で一気に潰しにいきます。来ますか?」

「行かねえよ、勝手にやれ。俺のことはもう放っておけ」

「……ま、素直に応じるとも思わなかったけど。まあ、あんたにゃ此処のほうがお似合いかな」

 言うべき言葉なんか何もなかった。見て話すべき目も、何処にもない。俺は俯いて、床をじっと見ていた。扉の閉まる音。暗闇が帰ってくる音。どうして、こんな事になった? 俺が悪いのか? 考えてみたけれど、そうは思わなかった。悪いのは俺じゃない。



――アクセス権限所有者の作業続行許可を求めています。

 ミカミが〝倉庫〟という単語を口にした時から試そうと思っていたのだ。試したら、上手くいった。ただひたすらに、中枢へ呼びかけた。何かを陳情したかったわけではない。俺が何をすべきなのかを知りたかった。言い換えるならば、街が俺に何を望んでいるのか。俺は、オルヴァーの言うところの〝街の意思〟とやらによって祭り上げられた。その立場をあっさりと追われた。街はこれをどう見ているのか。入れろ。中に入れろ。そして、教えろ。お前らは俺に何をさせたいのか。

――アクセス権限を認証しています……認証成功。新しい構成情報を取り込みます。この処理には数分かかる場合があります……〟

 中枢。前と同じ、閉じた風景。強い風。オルヴァーは〝意思〟と呼んでいた、蠢く環状の輪郭。その数と大きさだけが前と異なっていた。以前は幾つもあったそれはほぼ同じ大きさの二つと、とても小さな一つだけになっている。左から、大きい意思、小さい意思、そして、もう一つの大きい意思。大きい二つはどちらも騒がしく揺れ動いている。間に挟まれた小さな球は、殆ど動かない。まるで、怯えているかのように、じっとしている。

「お前らは俺にどうして欲しいんだ?」

 俺はそう訊ねた。返事は無かったし、球の動きも変わらない。小さな球がかすかに震えた気がしたけれど、多分気のせいだ。何かが起こった、なんてとても言えない。

 そのまま寝転んでやった。前に来た時にも感じたこと。俺はこの場所にとって、この、浮かぶ意思どもにとっては酷いノイズ。風は今でも吹き荒れている。俺を、排除しようとしている。ノイズが長居を決め込んでいるのだ。嫌なら、向こうから何らかアクションを起こしてくるかもしれない。

 見えるものは、天井の先、仰向けに寝転ぶ俺の背中、後頭部、尻に足だ。こうして見ていると、右足よりも左足が少し短いことが分かる。足を揃えるように意識して姿勢を整えると、身体全体にかすかなきしみを感じる。姿勢が悪かったからかもしれない。そんな格好ばっかりしてると、ひねくれちゃうよー、なんて、ミイのそういう忠告はいちいち鋭くて、可愛いかった。ミイは何処だ? 膝の上に抱えて、俺達にしか分からない話を朝までしたい。離れにいたときはこんなに恋しくならなかったのに。この場所のせいなのか? 気持ちが悪くなってくる。吐き気をもよおすほどに、何がなんだか分からなくなってくる。俺が、一体、何をした?

「何もしていないわ。残念なほどに、何も」

 中枢側からのアクションは、冷たい響きの声だった。深い場所から響いてくる、暗い、女性の声。此処に入る時に聞こえる〟認証成功〟のそれと同じ声。

「此処の担当者か何かか?」

「そうね。そういう言い方が一番適切かもしれない。貴方が街に動かされるのと同じように、わたしも街の一部として動かされている。勿論、他の人も皆。此処は、そういう場所……ごめんなさい、物事を噛み砕いて説明するの、得意じゃないの」

「よく俺が理解出来てないって分かったな」

「それぐらい分かるわ。此処は、閉じた場所だから……ごめんなさい。よく分からない……よね?」

「いいよ、別に。そもそも俺に理解出来ることなんか、最近じゃ殆ど無い」

「けれど、貴方には理解してもらわないといけない。じゃないと、このままじゃ貴方は何も出来ないまま、不要になる。私は、街の中で貴方に好意的な気持ちを持っている部分から遣わされているの。貴方が街から無為に捨てられないように」

「街が勝手に選んだのに」

「勝手に選ばれたって分かっているのに、勝手に捨てられる可能性から目を背けるのはあまり賢くないと思うわ」

「たしかに」

「街の唯一の目的は、より良い在り方を導き出すこと。誰が痛がろうと、損しようと、そんなの関係無い。それがこの街よ。この事実を無視することは誰にもできない」

 女性が感情の見えない口調で語り、俺はそれを仰向けに寝転んだままで受け取る。起き上がったところで仕方が無いような気がしたのだ。天井の向こうに、ちゃんと女性の姿が見える。俺の足元に、すらりとした足が二本。ちゃんと、そこにいる〝人〟だ。環状の意思が喋っているわけでもなければ、それ以外の、得体の知れない何かというわけでもない。ほんの少し俺が足を伸ばせば触れられる位置にいる、実体のある人間だ。どうして此処にいるのか、なんていう面倒なことさえ考えなければ、何の問題も無い。

「俺に何をしろって言うんだよ……勝手に選んだなら、そのぐらい教えろ」

「それを決めるのは貴方よ。貴方にしか、それは決められない」

 女性が一歩後退し、俺の足元に座るのが見えた。いつの間にか、強く吹いていたはずの風は止んでいた。

「誰でも良かったわけじゃない。貴方のために全てはある。選ばれるって、そういうことよ。貴方が全部決めればいいの」

 女性が小さく笑った。此処に来て、出会ってから一度目の笑い声は、そこまでの話し方とは随分落差のある、可愛らしくて子供っぽいものだった。ぜんぜん、ひとつも面白くなんかないのに。言葉が出ないままの俺は、泣きだしそうになってすらいるのに。

「いいもの、見せてあげる」

 女性はそう言った。まだ声に、かすかながら笑いが残っている。俺の反応を楽しんでいるかの様子だ。目を閉じるように言われた。閉じた。視界は暗闇に覆われた。強い風を感じた。

「いいわよ、開いても」

 そこは、街の〝終わり〟だった。



 俺の後方、五十メートルぐらい後ろに見慣れた柵が見える。木で造られた、高さ二メートルぐらいの柵。街の終わりのライン。柵の一か所、ちょうど俺から見て真後ろにあたる位置でその柵は切れていて、そこに一人の男が立っていた。街がおかしなことになる前と、同じ奴の筈。見慣れた身体つきだ。俺はこいつが欠伸をしたり、退屈そうに身体を揺すっているのを何度となく見たことがある。どうやら、彼だけは蚊帳の外におかれているらしい。街がどうなろうと必要な役割だから。街の一番外れ。境界線。俺は、その外側に立っていた。前方、見渡す限り何も無い。ただの、真っ白い空間が続いている。足元、街の切れ端の地面。二歩ほど踏み出せば真っ白。空だけはずっと、遥か彼方まで青く続いていた。 

中枢に現れた女性は俺の少し後ろに立っていた。背が低くて、穏やかな顔つきに長い黒髪の、瞳の大きな人だった。何処かで会ったことがあるような気もするけれど、何処にでもいそうな雰囲気でもあるから、どうとも言い難い。

「行きましょう」

「行けば分かるって言いたそうな顔つきだな」

「勘が良いのね」

 言われた通りに進んで、止まったのは数えて十五歩目だ。何かに当たった。目には見えない何かだ。触れることが出来る。堅い、岩のような何か。その〝何か〟の向こう側、ずっと遠くに、黒い塊のようなものが見える。

「中枢から来たんだもの。想像はつくでしょう?」

「街の反対側……」

「終わりと始まりがつながる、閉じた世界。完璧な調和。それがこの世界の全てよ。街は、その中心」

「……本当、勘弁してくれ。気持ち悪くなってきた。それによ、あんまりこんなこと人前で言うことじゃないかもしれないけど、正直言って、怖い」

「何をするのも貴方の自由よ。考えて答えを出すのも、諦めて、泣き崩れたまま、完全な決着を迎えるのも……。だから、ゆっくり考えて。まだ、時間はあるわ。街の一部は、確かに貴方に好意を持っている。周り全てが敵なわけじゃないから」

 その声を最後に、女性は何処かへといなくなった。その代わりなのか、その場に現れたのは、俺の、とてもよく知っている奴だった。

「だいぶ苦戦しているようだ。僕に何か手伝えることはあるかな?」

 にこやかな顔に、明るい声。全ては自分の計算通り、とでも言いたそうだ。彫の深い顔にくっきりとした笑顔の皺。手伝えること。言われて考えてみた。思いつくわけがなかった。

「そうだな、まずは状況を少し整理してみよう。臆病すぎた君は何も変えられなかった。逃げるようにして此処へ来た。そして、世界は閉じている、そのことを知った。そして、絶望した。恐怖した。現在、引き続き混乱中、と」

「この状況で華麗に立ちまわれる奴なんか、俺の知り合いにはいねえよ」

「他者をすぐ引き合いに出すんだな、君は。必要なのは君の答えだ。それ以上に効果的なものなんか無い」

 返事をする気は起きなかった。どうしてこんなことになった? どうして、俺がこんな貧乏くじを引いた? どうせ、誰も答えやしない。

「その問いに答えられる人はこの街中全てを探したって、何処にもいないさ。自分で考えるしかないよ。答えは、未来の君しか知らない……さ、次の人に代わろう。僕だけが長話をするわけにはいかないからね」

そして、別の声。今度も知ってる奴だ。オルヴァーなんかよりずっと親しみが持てる。不器用そうな表情に、癖のある喋り方。随分久しぶりな気がした。

「あの、分からないことを悩んでいても仕方ないと思うのですよ」

「入れ替わり立ち替わり来るのは、どんな意味があるんだ? ニイサン、分かる?」

「私には分からないのですよ」

「ニイサン、一回街からいなくなったろ? その間、何処で何してたんだ?」

「それも分からないのですよ。今こうして此処にいる私は、ちゃんと私です。タケさんのことも知ってる。昔のことも覚えてる。タケさんが入場口でぼやぼやしてるうちにシネマホールが満席になって嫌々『街に住まう民として』に入場したとか、覚えているのですよ。だけど、八号館が閉鎖になる最後の晩、いつも通りの宿舎で眠りについたのに、私は今此処にいるのですよ」

「……ニイサンも大変だ」

「そうでもないのですよ。難しいことが分からないのも、こういう事を〝大変だ〟って思わないように出来ているのも含めて〝私は私〟なのですよ」

「俺だって同じなのにな……どうして俺はそういう風に考えられないんだ?」

 俺の問いかけに、ニイサンからの返事は戻って来なかった。きっと、ニイサンは話すべきことを全て話し終えていたのだろう。消えていた。街によって消された、とも言える。ニイサンの考えなんか頭から無視して、用事がある時に出す。終われば消す。こんな街が世界の中心で、世界は閉じていて、街は永遠で、俺達は使い捨ての実験部品。そ俺は街に対して、これまで以上のはっきりとした憎悪を感じている。街の行為を〝悪〟だと思っている。こんな街、崩れて消えちまえばいいのに。強く、強く、強く、そう思っている。

「仕方ないよ。あたし達皆おんなじ。多分、何も知らないでいられる人が一番幸せ……なんだよ、きっと」

「アオ……」

「不思議だね。なんとなくだけど、分かるよ? 久しぶりだってこと」

「もう会えないって思ってたぐらいだ」

「あ、分かった。ひろ、ちょっとやつれてるんだ。あたしの知ってるひろじゃないぐらい、ぼろぼろ。て言うか変な顔」

「大きなお世話だ。お前はちょっと見ない間に老けたな」

「似合わないよ、ひろがそういう事言うの。ひろはいつだって、恥ずかしくなってくるぐらい優しくて、頼りないところもあるけど、だけどちゃんと、いざって時には欲しい言葉をくれる。そういう人だよ……なんかさ、難しい話するために呼ばれたって分かってるんだけど、あたし嫌いなの。そういうの、さ。だから、褒めてみました。ひろも、あたしのこと褒めていいよ?」

「俺がしんどい時、いつでも慰めてくれたのがアオだ。慰めてくれるだけじゃなく、俺に、甘えてるだけじゃいけないことを教えてくれたのも、お前だよ」

 アオが小さく笑った。俺も。何かに喜んだり、前向きになれるような状況じゃないのに、そんなこと関係なく。

「なにも知らないでいられるのが幸せってさっき言ったけど、訂正。知ってても、幸せな人は幸せなんだよ、きっと。あたしは今、ひろと話をするために経緯なんかを知ってるけど、それでも幸せだもん……多分、ひろとこうして話す役目に、あたしが選ばれたから?」

「アオは……何を話しに?」

「嫌だ。言わない。街なんか、困ればいいんだから……なんてね。そういうわけにもいかないんだけど。ただ一言、〝ひろの、一番やりたいように〟……これだけ」

「覚えておく……また、会えるか?」

「街次第だよ。でも、会えるといいね……だってさ、こんなの、おかしいよ、間違ってる……だから、会えるって信じてて。あたしも信じてるから」

「絶対また会おう。俺、頑張るから。絶対、答えを見つけるから」

 抱きしめたアオは、ちゃんと俺の知っているアオだ。やわらかい髪、小さめの顔。少しとがった顎と、冷たくて優しい爪。いい匂いがする。腕の中で、弱々しくふるえる。

「ごめん、もう、行くね。時間切れ……みたい」

「行くなよ、もう少しだけ」

「駄目だよ……あたしにはどうすることも出来ないもん……」

「悪い……またな。きっと、また」

 穏やかで、悲しそうな頬笑みを一つ残し、そして、アオも消えた。真っ白い空間、見えない壁。後方の柵。前方の黒い塊。閉じた世界。アオの温もりが少しずつ解けて、空に消えていく。雲ひとつない青い空は、世界が閉じているだとかそんなことまるで関係が無いかのように、何処までも、ただ広がっていた。



 唐突に目の前に現れたのは、一枚の扉だった。別に特徴もない、古い、木製の扉だ。白く塗られた一枚の板、錆びた蝶番に、ざらざらしたドアノブ。鍵は、飛び出ているノブを押しこむだけの簡単なものだ。試してみなくたって分かる。ずっと昔に壊れたまま、誰にも直してもらえない錠前。俺はこの扉をよく知っている。

 こんこん、とノックの音が聞こえた。

 返事として、俺は三回叩く。こんこんこん。

 そうすると、反対側からはとてもリズミカルに、こんこん、ここん、こん、ここん、と音が連なる。俺はこの扉を、とてもよく知っている。街に暮らし始めてから十年弱、ミイと一緒に暮らした古い家の、トイレ。ふと気付いた時、俺は便器に座っていた。ズボンも、ちゃんと降ろされていた。外からのノックの音が〝こん〟から〝ドン〟に変わった。家の外で、蝉が騒々しく騒いでいる。俺はタンクについているレバーをひねり、水を流す。古い家だけれどトイレの設備だけは綺麗に改築されている、今考えると少しおかしな家だった。

 便器が綺麗になったのを確認してから、ドアノブをひねる。トイレットペーパーがへばりついていたりすると、その日一日、じとっとした目で睨まれるのだ。

 扉を開く。ミイが、ちゃんとそこにはいた。見慣れた風景だ。ミイは俺がトイレからしばらく出てこないと、いつもこうしてノックするのだ。自分がトイレを待っているわけでもないのに、こんこん、ここん、こん、ここん。

「ほんと、ひろくんトイレながいよねー」

「人それぞれだ。いいじゃねえか、別に」

「綺麗に流した?」

「確認もした」

「よろしい」

 ミイがにっこりと笑ったから、そのままの表情が左右に揺れるぐらいしっかりと力を込めて頭を三往復撫でてやった。勿論、俺の頭の中は、そんなことをしながらひどい混乱に陥っているが。

 扉が現れて、気がついたらトイレに座っていて、ノックが聞こえて、ミイがいる。箱に粉砕されたはずの俺の家。箱に持って行かれたはずのミイ。街の終わりでアオを見送って、さてどうしようか、と思っていた俺。これは、何だ?

「ひろくん、どうせ今日も出かけるんでしょ?」

「あ……いや、今日は出かけない」

「どうして?」

「そういう気分の日もあるの」

 話ながら、決めた。この状況を、街の、俺に好意を持っている部分とやらによる優しさなのだと受け取ることにする。

「じゃあひろくん、何して遊ぶ?」

「なんでも、ミイの好きなことでいいよ」

 せっかくだから、めいっぱい、この好意に甘えることにする。ミイがいるなら、考え事だとかやるべき事なんて、八割がたがその質量を失うのだ。



 家は、俺が知っているままの、俺がミイと過ごしたままの家だった。植木鉢もちゃんとあった。白いタオルをかぶって、あの日のままだ。そんな家の中で俺とミイは、しりとりをしたり、かくれんぼをしたりした。空いた時間にだけ、細々と考え事を続けた。  

いつの間にかやってきていた夏が取り囲む街の片隅、俺の家。外に遊びに行こう、という気持ちは不思議なほど起こらなかった。理由は明らかだ。俺は怖がっている。外に出て、せっかく再会出来たミイとの時間が終わってしまうのが。出来る限り、そう、出来るなら十年でも二十年でも、俺はこの時間を長持ちさせたいのだ。勿論それは、こんなのいつまでも続くものじゃないと分かってのことだ。だからこそ。

 ミイと遊んで、腹が空けば家の中にあるもので何かしらを作って食べる。都合良く、家には食糧も酒も、備蓄が溢れるほどにあった。

夜が来たら障子を明け放って、暗い庭を見ながらミイと話す。湿気を含んだ風が家の中をぐるりと回って、何処かへ消える。ミイは、「いい匂いだね」と言って嬉しそうな顔をする。俺は、そんなミイの頭を撫でながら、うん、と言う。そんなミイの声が聞こえていたかのように、また新しい夜風がやってきて、それに合わせて虫がなく。ミイは目を閉じ、伸びをする。くう、と可愛らしい音が喉から漏れる。ひとつひとつの仕草が、俺の心にそっと触れていく。つい、強く抱きしめる。ミイの体温、鼓動が伝わり、ますます俺は永遠を願う。

「わたし、ギター聴きたい。歌も」

 ミイがそう言ってきたのは、俺とミイが再び一緒に暮らし始めて三日目のことだった。つまり、この特別な時間の、終わりの始まりの一言。

「珍しいな。いつも、俺が何かしくじらないと言い出さないのに」

「もうすぐ時間だから、今のうちに……ひろ君、言わなきゃ弾いてくれなさそうなんだもん……分かってるんだよ? 仕方ないんだって。みんな、わたしも、ひろくんも、他の人もみんなこの街に住んでいて、それぞれにやることが決まってるから仕方ないんだって、分かってるから……仕方、ないんだって……しかた……」

 ミイは泣いた。大声を出して、涙をぼろぼろと落としながら泣いていた。これまで殆ど見たことが無かったのは多分、ミイはとても頭が良いから。生の感情を抑えられる子だったから。抱き寄せて、膝の上に乗せて、俺はミイの頭を撫で続けた。言葉で何かを言う必要はない。互いの体温を感じながら、気持ちを交換すればそれでいい。

 ミイが落ち着くのを待って、部屋の隅に立てかけてあるギターを調弦。ミイが俺の前に座って、じっとこちらを見ている。泣きやんではいたけれど、真っ赤な目をして、俺ではない、何処か遠くを見ていた。全部知っていて、もうすぐ自分が消えるって分かってる? 泣かないほうがおかしいじゃないか、そんなの。

適当なコードを何個か鳴らして、調弦が問題無く済んだことを確認。記憶の中から、今の気持ちに相応しい曲を探す。思い出したのは、ミカミが作って、それを気に入った俺がギター一本で歌えるようにアレンジしてもらった曲だった。



 守りたいものがあって その割に無力な僕は

 時々、ただ願うんだ 「誰か、何とかしてくれ」と

 知っているさ そんな願いが叶うわけもない

 それらしきものが来たとしても、価値もない 

 すぐに意味を無くす 

 だから僕は両手を広げて 力をこめて 君を抱きしめる

 何が来ようと恐れはしない 

 これは少し嘘かもしれないけど

 守りたいものがあって その割に無力な僕は

 願うことを止めて ほんの少し 強くなれた気がする

 広げた両手の中で 怯えて震える君の身体

 優しい体温を感じる僕は 少しの嘘もなく 恐れを忘れる

 だから僕は両手を広げて 力をこめて 君を抱きしめる

 何が来ようと恐れはしない 何も怖くない 笑顔で言える

「僕が何とかする」


 唄い、アウトロを最後の一音まで、丁寧に。ミカミが作る曲はどれもコード進行が複雑で俺の手に余ることが多かった。この曲も、唄いながら弾けるように、と頼んでアレンジしてもらったけれど、押さえるのが難しい箇所が幾つもある。アウトロの最後、D♭add9は、「仕方ねえ人だなあ、本当に」なんてミカミに苦笑されながら押さえ方を習ったぐらいだ。

 唄いながら、演奏しながら、自分の気持ちがクリアになっていくことを感じた。俺の目の前、じっと俺の方を見ているミイと目が合った。外を取り囲む夏からは、俺の知っている街、俺の一番好きだった頃の街の匂いがした。アウトロのアルペジオ、最後の一音。張りつめた音が部屋の中を舞い、いづこかへ、溶ける。

 小さな拍手。小さな顔が優しい笑顔に変わる。ミイが何かを言っている。口は確かに動いている。音としては聞こえない。けれど、何を言っているかは、分かる。口の動きで。それに、俺とミイの間に確かにある、しっかりとした繋がりが、俺にその言葉を伝える。俺達のこれまでを、俺とミイのこれまでを終わらせる、悲しくて、優しい言葉。分かっていたことだ。だけど、きっと理解していなかったのだ。こんなの、嫌だ。心から思った。

「さようなら、ありがとう。ひろくん、大好きだよ」

 今にも壊れそうな笑顔を残したまま涙を落とすミイと、笑っていることなんか出来なくて、「ミイ、ミイ」と名前を呼ぶことしか出来ない俺。こんなんじゃ、駄目だ。ミイが、笑っているのだ。俺も、笑わないといけない。

「……ありがとう、俺もミイのこと……大好きだ、ありがとうな……」

「ひろくんが本当に正しいと思うことだけ、それだけすれば大丈夫だから、わたしのことはもう大丈夫……だから、お願い」

「誓う、絶対……正しいと思う事だけ、な」

「もし……破ったら?」

「何でも言う事……聞くから……!」

ミイの頭に手を伸ばし、撫でる。抱き上げ、頬を寄せ合い体温を伝え合う。数十秒、最後の温もり。降ろして、二人で笑顔を交わすと、その瞬間、世界は猛烈な勢いで後方へと吹き飛んだ。もうそこは俺とミイの暮らした家ではなかった。

足元に広がる、赤い花。この場所を俺は知っている。最初の場所。俺が最初に通りすぎた場所。全ての始まりとなったその場所に俺はいた。何処までも広がる花。何処からか吹いてくる風。赤い花を持った女の子。俺の目の前に立つ、黒い髪を無造作に長くした、何処か雰囲気がミイに似た女の子。じいっと俺の方を見ていた。目線をあわせると、女の子は湿り気のある、悲しそうな声で俺に問いかけてきた。

「貴方がやるべきことは、何?」

「……沢山ある」

 俺の頭の中、右往左往する気持ちが言葉の形をとるよりも早く、口が勝手に答えを返す。考える必要なんか無かった。透き通っていく思考。筋道が一本である必要なんか何処にもない。俺はそのことに気づき、目を閉じる。

「出来るの?」

「やらなきゃいけない」

 俺の中にあった、〝答えらしきもの〟はとてもあやふやな形をしている。それが正しいことの保証なんか誰もしてくれないし、俺は、正しくないんじゃないか、と不安に思っている。けれど、不安に思いながら同時に、俺が選ぶべきものは他にない、と強く感じてもいる。筋道が一本である必要は何処にもない。正解が一つである必要だってない。俺は幾つもある正解の中から、一つを選ぶ。ただ、それだけのことだ。

「この街は夢のような場所よ。長い、長すぎる夢。もし醒めたら、どうなるのかしらね」

「夢なら、いつかは必ず醒める」

「そうかもしれない……行ってらっしゃい。貴方が、貴方の出来る全てをやり遂げられることを祈っています」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?