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第6話 4 十年目 夏 ーThus, the box appearedー



 飲み会で決まった最終的な結論は、現状、放置。俺の生活はこれまで通りのものに戻った。

夕方、晴れていたら出かける。バーだったり、適当な劇場、ライブハウス。自宅で演奏した時の晴れやかな気持ちが尾を引いていたこともあって、ミカミ達と週に一回は練習用のスタジオに入って、曲を合わせた。ギターを家で弾く時間は少し短くなって、ミイはそれが不満そうだったけれど、その埋め合わせに、雨降りの日は一日中、ミイのためだけに演奏を続けた。「少しずつだけどちゃんと上手くなってるよ」とミイが褒めてくれれば、弦でこすれて痛む指先なんか、ほんの少しも気にならなくなる。

 街は相変わらず、ゆるやかな変化を続けていた。主に店や施設の閉鎖で、それはまるで、俺が普段出入りしている施設を少しずつ包囲していくような形で進行していた。

 閉鎖になった施設や店は例外なく、そのまま放置される。かつての面影をその場に残したまま、誰もいない、無人の建物になる。ある時、クサカと一緒に、いや、クサカに無理矢理引っ張られて何軒かの閉鎖施設跡を周った。ずっとそうであったかのように、これが本来あるべき姿であるかのように、完全に誰もいなかった。何処からともなくやってくる埃達が住み心地良さそうに、のびのびと広がっているだけだった。

「そのうちに街全部がこうなる可能性もあるんだったか。オルヴァーだっけ? あいつの言い草じゃそういうことになってたな」

「らしいな」

「それで、それを防ぐのがお前……駄目だな。緊迫感がまるでない。笑えてくる」

 実際に笑いながらそう言い、クサカは大切そうに抱えていた小瓶の蓋を開き、中の液体を口に運んだ。言うまでも無く酒だ。バーでいつも通りに飲んでいて、急に何を思ったかマスターに無理矢理、空き瓶に水割りを入れさせたかと思ったら、俺の腕を掴んで力任せの施設巡り。それが経緯で、要するにクサカは四六時中酔っぱらいで、俺が街を守るだのなんだのなんて話しは酔っぱらいですら呆れかえるほどの馬鹿げた話だ。

「俺だって笑えてくるぐらいだからな。当事者だって気分がまるでしない」

「でも、お前は当事者だ」

「実際何させられるんだか。当面無視するって決めたんだからあんまり考えないようにはしてる」

「決めごとが多いな、相変わらず」

「決めておいたほうが楽だ」

「今回は同意しておこう」

 クサカと話しこんでいたその場所は、街の中でも結構古い、割と有名な喫茶店だった場所で、クサカが、放置されたままになっていた冷蔵庫から生ぬるい缶ビールを半ダース見つけてきたところからこうなったのだった。

「あたしら、どうなるんかね」

「きっとどうにもならねえ。これまで通りだ。花が咲いて、消える。それでいいじゃねえか……そうだと良いな」

「問題は、あたしやあんたや他の連中、それぞれがいざって時にどう振る舞うかだ。決めるの好きなんだろ?」

「仮になんかおかしな事があったって、何も出来ねえ。オルヴァーが言う、俺が街を守らなきゃいけなくなる事態なんてのは物凄く不自然だ。俺にそのつもりも無いのに」

「まあ、それはそうだが?」

 放置されて埃だらけのカウンターに腰掛けてビールをあおるクサカが何処か寂しそうな表情だったのはどういうわけからなのか。けれど、見間違いなんかじゃない。それは確かに、俺が知っているクサカとは少し違っていた。薄暗い喫茶店跡地でもそれぐらいのことは簡単に分かったのに、さてどうして俺はもう少しその場に相応しい言葉を言えなかったのやら。我ながら愚かだ。

「ひろくん、嘘でもそういう時は、俺が守ってやるー、なんて言うべきだとわたしは思うよ」

 家に帰ったあとでミイに怒られたから反省した。守ってやる、とまでいかなくても、大丈夫だよとかなんとか、言える言葉はちゃんとあった。別にクサカに下心があるわけではないけれど、男として俺がいて、女のクサカがいて、俺は別にやる気も何もありませんよ、なんて態度が正しくないことぐらい俺だって知っているのだ。



 一度だけアオのところに行った。芽が出てからずっと、報告はしなければ、と思っていたのだ。きっと、いかにも落ち込んだ素振りを見せるだろう。それで俺が「その時が来るまではこれまで通りだ」と伝えると、アオは、「そういう問題じゃない」なんて言いたそうな、不満げな顔をしながらそれに従ってくれる。それから「慰めてあげる」なんて言ってくれるのだろう。これは、〝こころや〟の一室でアオが来るのを待っている間の暇つぶしで、俺の勝手な予想。実際は、

「消えるのって嫌?」

 報告やら現在状況の説明が終わったところでアオはそう訊いてきた。俺はとても正直な気持ちで「うん」とだけ返事をした。

「あたしはこういう仕事だから、これまで何人も消えていく人を見送ったよ。皆、嫌だって言ってた。だからそのたびにあたしは、慰めてあげた」

「俺の事も慰めてくれよ」

「不思議よね。どういうわけか、ひろのこと慰めたくないの」

「しばらく来なかっただけでそんなに嫌われたか」

「違うって。うん、これはあたしの経験からしてあれね。ひろがいなくなるの、あたしも嫌だから。一応、おめでたいことなのにね、こんなに嫌なの。自分で自分が嫌いになるくらい、嫌。もう、むしろあたしを慰めてよ」

「口が上手いな、お前は」

「本気で言ってるんだから、馬鹿」

「……悪かった。じゃあ、今日はいつもと逆だな。来いよ、慰めてやるから」

 アオはプロだから、俺の気持ちが一番楽になる方法と言葉をちゃんと知っている。そんなことは分かり切っていた。だから、流れは予想と違えども、状況や結果は〝予想通り〟の中に含めて問題無いと思う。それでも、そんな結果なんてまるで関係無く、その夜はひどく気持ちがさびしくて、悲しくて、ちょっと泣きそうだった。俺の腕の中で「いやだよ、行かないで、たまにでいいから会いに来てよ」と呟くアオは最高に可愛らしくて、俺は本気で抱きしめた。抱きしめながら、言った。

「まだしばらくは行かないよ。運が良ければ、ずっと行かないかもしれない」

「……どういう意味?」

「先のことなんて誰にも分からないってことだ」

 オルヴァーからもたらされた馬鹿話については言わなかった。おかしな期待をされても困るし、その可能性は殆ど無いだろうけれど、アオの口から誰かにそれが漏れたたりしたら、きっと、すごく面倒くさいことになる。だから、言わなかった。言う必要もなかった。先のことなんか、誰にも分からないのだ。

「ねえ、自由って、結局何なのかな?」

 アオがそう呟いた。俺が帰る少し前のことだ。俺はミイのことを考えながらも、まだもう少しなら、と横になっていた。アオの肌がそっと俺の肌に触れる。柔らかな掌が俺の頬の上をつうっと滑る。優しくつねられた。俺が、「何だよ」と言うと、呟いたのだ。ずっと考えて、それでも分からないから訊く、なんて様子の声。少し掠れていた。

「好き勝手すること? それとも、働かないでもいいこと?」

「どうだろうな……。これ、と言えるほどの答えは俺も分からないな」

「あたしはね、権利なんだって思ってる」

「好き勝手することが許されてる、とかそういう?」

「ひろたちは、あたしたちが街に存在するから、自由でいられる。なにも、自由でいるために体のつくりが特別なわけじゃない」

「それはそうかもしれない……けど」

 けど、俺にそれを言われても困る。そんな言い草はひどく身勝手かもしれないけれど、それは事実だ。俺はこの権利を買ったわけでもないし、奪ったわけでもない。この街で暮らし始めた時、これはもう俺に付属していた。

「そのうちに、この仕組みが変わるかも……なんてね、この間来たお客さん、しきりにそう言ってた。前に、街の変化がどうこうって言ってたのも同じ人だったから、きっと、よっぽど今の街が気に入らないのね、その人」

「アオのことが好きなんだ、きっと」

「もしさ、本当にそうなったら……出来たらあたし、一回でいいからミイちゃん、見てみたいんだ。話に聞くばっかりだから。遊びに行っていい?」

「来いよ。その時にちゃんとまだ俺がいれば」

 もしかしたらその時の俺は、何処かの誰かと戦っているかもしれない。オルヴァーの余計な話のせいで俺の頭はつまらない考えで一杯だ。そういう話をしているわけではないのに。



 街の中で一番大きい、オールスタンディングなら千五百人ぐらいが入るライブハウスを借りての大規模なライブをやった。久しぶりにやりたい、とミカミが言い、俺もやりたくて、ダー君はもうその時には何箇所かライブハウスをピックアップしていて、トシオ君は無言、無表情で何度も、何度も頷いていた。

 ライブを開く時にはまず、こういうイベント時に宣伝やチケット販売を取り仕切る専門の雑民を雇い、準備させることから始まる。

金を払い、契約を取り交わすと、その場ですぐに、俺達全員が楽器を構えての宣伝用の写真を撮影する。二日後にはチケットが売りに出され、街のあちらこちらのバーやライブハウスに俺達のポスターが貼り出される。チケットはすぐに完売した。

ここ最近の状況からはとてもそうは思えないけれど、俺達は、音楽方面においてはとても〝ツイて〟いるのだ。忘れかけていた。俺達は幸運にも、この街の連中から受け入れられている。俺達の音楽を聴きたいと思ってくれている人たちがいる。何度もリハーサルを繰り返しながら、思った。俺達はツイている。



「お前らがこうして来てくれるから俺達は唄える。本当にありがとう! 今日は俺達が出来る事全部やるから、お前ら皆も、受け取れるだけ受け取って、最後は笑って帰れよ!」

 ライブが始まり、一曲やった後に挨拶。マイクの前でがなると、観客席がうねる。満員だ。人が群れ、熱気を放ち、蠢いている。重く、どっしりとした声と、煌びやかな歓声が渦をまく。ミカミが突き刺すようなギターサウンドでそれに応じると、トシオ君とダー君もそれに合わせ、音を膨らませる。

「もっともっと熱く行こうぜ! 拳あげて、頭振って、明日何も出来なくなるぐらいの本気でぶつかってこいよ!」

 トシオ君がカウントを入れる。四つ数えた後で、テクニカルなリフが刻まれる。

「IN the night!」

 俺が曲名を告げる。観客のうねりが増す。短くて、力強い夜の始まりだ。余計なことを考えている時間なんか何処にもない。やれることはそんなにない。俺は声が枯れて呼吸困難になるまで唄い、叫ぶ。ミカミはギターを壊れるまで弾き、最後には自分で叩き壊す。トシオ君はシンバルよ、割れろと言わんばかりに力強いフィルインで魅せる。ダー君は爪が割れるのも気にせず、フレーズに、リズムに突っ込んでいく。この後のことなんか、考えるだけ無駄なのだ。俺達は此処にいて、ロックで、突き進んでいて、ツイている。何も怖がる必要なんかない。何でも出来る。明日何かしら大きな動きがあったって、笑い飛ばせる。

「行けよ、頭を振れ、ぶっ壊れろ、そんな程度じゃ何も生まれねえ。皆も知ってるんだろ!」

 絡まり合う声、音、空気。夜は深まる。止まらない。そのうちに終わって、朝が来る。そう分かってるから、何処までも突っ込める。何でも出来る。



 俺達のライブのせいではないと思いたいところだが、ライブ終了直後から街の様子に一つの変化が現れたのは事実だ。家に連日届く招待状、なり続ける電話。そのどれもが、花が咲いた報告、オクリバナの儀式への招待だった。

 俺のところへやってきた招待だけでも三十あまり。街全体ではもっと、すさまじい数になっている。オクリバナの儀式を取り仕切る業者が受付を停止せざるを得ない状況になっている、なんて話も聞いた。怖くなって、何度も、何度も自分の花を確認した。また少し大きくなっていた。細く伸びる茎から枝分かれした部分には、小さなふくらみが一つ。つぼみになるのかもしれない。あんまり長いこと見ているとミイが心配するから、少し確認して、すぐにタオルで隠す。そして、夜な夜な、咲いてしまった友人達のオクリバナの儀式に出席する。行った先には大概、ミカミ達やクサカもいる。彼らの花もそれぞれ、急速な成長を始めたらしい。全員、それぞれにしんどそうな顔つきをしている。多分、俺も。鐘が鳴り、咲いてしまった奴が諦めきった顔つきで笑い、俺達は拍手する。いつ頃自分が、拍手される側になるのかを怯えながら想像する。ライブが終わってからこちら、そんな日々が続いている。

 箱、と名乗る集団が街中で噂になり始めたのも、殆ど同じ時期だ。街中に放置され続けていた施設跡全てに白い布がかぶせられて、そこを活動拠点としているのが〝箱〟と呼ばれる集団で、その目的は不明。白い布云々は、俺も実際に見に行った。本当にかぶせられていた。そこが謎の集団の拠点なのかどうかまでは分からなかった。人がいるような気配があったから中に入って声もかけてみたが、「新しい施設の準備中です」と事務的な返答が返ってきただけで、それ以上は何を尋ねても答えてくれなかった。あの返答が誰に対しても返す標準的なものだとしたら、一体その、箱がなにやらという噂の出所は? バーで訊いても分からなかったし、他のところでも同様だった。なのに皆、箱なる集団の噂については知っていた。まるでそれが一般常識か何かであるみたいにして。案外、自分達で率先して噂を広めているのかもしれない。もしそうならば、随分子供っぽい連中だ。

 現在、季節は夏を過ぎ、秋も半ばまで消化した冬の入口少し手前。何もかもを俺が放置し始めてから半年近くが経過していた。

噂は少しの停滞も見せず広がり続けている。何処までがそもそもの噂で、何処からが誰かしらの創作によるものなのかすら曖昧なほどにそれは多岐にわたっている。

 箱は、街の救世主である。

 箱は、街を破壊するためにやってきた。

 箱は、新しくこの街で大型のカジノを運営するグループだ。

 箱は、不自由な街の構造たちを解放しにやってきた。

 箱は、その勢力を拡大しつつある。

 箱は、市民を根絶やしにする。

 そもそも、箱なんて集団は何処にもいない。

 箱を危険視する一団が街の片隅で結成されつつある。

 何処までが本当で何処からが嘘だ? 全部嘘ならば、それはそれで笑える。相反しているものもあるから全てが本当だということは無いにしても、多分どれかは本当なのだろう。そうでなければ、いくらなんでも街中いたるところで人々が話題に出すような事態にまではならないはずだ。

「箱って本当に神様なのかなあ?」

「この街をもっともっと良い場所にしてくれるらしいよ」

「いつごろ?」

「多分……再来週ぐらい」

「この間来た、なんだっけ、オルヴァーさん? が言ってた、ひろくんたちの敵じゃないの?」

「心配したって仕方ないだろ、そんなの」

 ミイには〝箱は神様だ〟という乱暴で大雑把な嘘をつき続けている。ついうっかり噂話の一端を教えてしまった俺がいけないのだ。俺がこれ以上余計なことを言わなければ新しい噂を仕入れる術を持たないミイが余計な不安に駆られたりすることも無い、という俺なりの親心から生まれている嘘達なのだけれど、どうもミイは、今一つ信用していないらしくて、こうして時々訊いてくる。そのたびに俺は嘘を丹念に固め直す。再来週ってあの時は言っていたんだけど、リーダーが風邪ひいて、それをこじらせちゃって延期になっているらしい、とか。俺がそういう事を言うたびにミイは、じとっとした目で俺のことを見る。別にいいのだ。俺だって真相なんか知らないのだから、同じ噂ならばいくらかでも面白いほうが良いに決まっている。

「ひろくんそうやって胡散臭いことばっかり言ってると、今にひどい目にあうんだからね」

「たとえば?」

「え……? う~ん……わたしが、うそつきのひろくんなんか絶交って言う……とか?」

 こんなくだらないことでミイに絶交されたら、本気でさっさと消えたくなりそうだ。「それだけは勘弁してくれ」と拝み倒したら、箱についてもっと教えてくれ、とせがまれたけど、分からないで通した。タイミングからして、ミイの言う通り、〝敵〟なのだろうと思う。けれど、そんなのはっきりと分かるはずもない。俺から出向いて、「敵ですか?」なんて訊くわけにもいかない以上、本当に敵ならば、向こうから喧嘩を売って来るのを待つしかなかったのだ。

 そんな、割とのどかな秋の終わり。俺の希望は相変わらずだ。ずっとこうやってのどかに暮らしていたい。叶わないと分かり切っていても、願うのは自由だ。知っている。多分、随分昔から。願い事だとか希望なんて、大概叶わない。ちゃんとぶち壊された。正確に言うのならば、ぶち壊されつつある。今、俺の目の前でその作業が着々と進行している。

 十一月二十日、晴れ。夕方四時半オルヴァー来訪。その三十分後、オルヴァーの関係者らしい、知らない女が来訪。現在、二人が喧嘩中。ミイは隣室に避難させた。俺も逃げようかと思ったぐらいだ。実際、逃げかけた。いつぞやの車の時と同じだ。我が家の玄関のドアノブは、いつの間にやら、掴むことさえ出来ない何かに変わっていた。



「時間の無駄だ。こんな凡庸な男に我が言葉など伝わるわけもあるまい」

 突然やってきた知らない女、「アリシア・ブルムダールだ」と来るなりに名乗ったこいつは、聞くところによるとオルヴァーの妹らしい。来てから暫くは和やかな談笑が続いた。ミイが全員にお茶を出してくれて、三人でそれをすすりながら、他愛も無い話題のやり取り。米とパンのどちらが好きかだとか、そういう類の話しだ。きっかけは、アリシアがまるで世間話の延長であるかのように言った、鋭く研ぎ澄まされた刃物のような一言だった。

「お話はまあこのへんで。それよりも兄様、このいかにも弱そうで色気の無いのがそちらの手札で本当に宜しいので?」

「アリシア。そういう事は言うな。他人のことを推し量る権利など本来誰にも無い。それは調和を破壊する言動だ」

「ご存じの通りかと思うが、私は破壊する側に所属している。いや、それ以前に、この手の名もなき登場人物その他の1に存在価値を認めるつもりはありません。なにこれ、全然駄目。最低」

「時と場合を考えて発言しろ」

「その配慮は無駄ですわね。どのみち壊すのならば、手間は出来る限り省く。拙速に見えがちな行為とて、時にそれは戦略上、重要な位置を占める。それぐらいは兄様とて理解できましょう?」

「……お前を連れてきたのは失敗だったようだ」

「私も、時間を割いて此処に来たことを大変後悔していますわ」

「しかし、彼に理解してもらうべきことが幾つかある。それはお前も承知している事項のはずだ」

「兄様もいつの間にか随分と耄碌されたものだ」

「感情でただ言葉を並べるだけのお前にそのような事を言われる筋合いは無い。街の使いとしての使命を果たせ」

 そして、最初に挙げた一言に繋がったわけだ。

 別に俺は普通にしていた。クサカと話す時やミカミ達と遊んでいる時、ミイとくつろいでいる時の俺と同じ、普段のままの俺だ。特別に着飾ってしくじったわけでもなければ、わざとらしく阿呆を演じたつもりだってない。凡庸とか、大きなお世話だ。

「もう結構。私は帰るとしよう。兄様があくまでも必要と仰るのなら、せいぜいこの男に私の方向性でも説明なされば宜しいでしょう。私達の側は既に中枢を五割がた掌握している。では、失礼する」

 そう言ってアリシアは文字通り、座を蹴って帰っていった。変な嵐だ。気配の変化に気付いたらしいミイが障子をそっと開いて俺の膝上に戻ってきた。

「変な人、帰ったんだよね?」

「帰った。変な人……それ以上の表現は無いな、確かに。なあ、オルヴァー?」

「すまない。我が妹の非礼を詫びておくよ。あと、幾つか説明もしないといけないと思う。あれは、僕と逆の方向に動いているんだ。つまり、街を変える側の先導者ってところかな」

「そんなのがどうして俺のところに来た?」

「争いあう相手同士、一応は互いの方向性を明確に理解しておかないといけない。争いあうことは街の規定事項だとして、双方、最終防衛ラインってのがあるからね」

「もう少し分かりやすく」

「旗の位置を教えるってことさ、お互いに。何処を潰せば勝敗が決するのか、僕達は僕達の、向こうは向こうの潰されては困る箇所を教えておくんだよ。争いが出来る限り短くなるようにね。街がそれを望んでいる。僕も先日、アリシアが率いている側の連中のところに行って説明してきたんだよ」

 どれだけ偉そうに説明されたところで、俺が納得出来るわけもない。戦いとか争いがそんな慣れ合いじみた話しあいの後に発生するなんて初耳だし、自分から弱点を晒すなんて馬鹿げている。

「アリシアも同じようなことを言っていたよ。街の方針として仕方なく今日は来たようだが。まあ、僕も奴も、最低限の目的は果たせたからいいんだけど」

「連中の旗の位置、とやらをお前は知っていると?」

「勿論。会ってきたからね。こちら側の君と違って、とてもやる気に満ちている。街の、今の形を変えなければいけない、と熱く語っていたよ」

「……熱い奴ってあんまり好きじゃねえんだよな」

「次に今後の僕達の方針だ。前にも言った通り、君は特別に育てられた、街の中心となるべき自由市民だ。君が連中の手に落ちれば、僕らは抗戦する術の大半を失い、降伏せざるをえなくなるだろう。そして僕はこうも考えている。僕らが仮に中枢にアクセスする手段を手にするとして、そのキィになるのは、おそらく君だ」

「まだその中枢云々っていう話しは続いてるのか。それに、そんなアクセスがどうたら、なんて話はこれまで聞いたこともない」

「勿論、これまでしたことがないからね。後で試してみようじゃないか。それよりも、連中が中枢に強い影響力を持っているってことは、君の花が急成長して明日にも君が消える可能性もあるという事に他ならない。現在の街のつくりからして、花が咲いてしまったらどうすることも出来ない。君は消える。僕達は敗北し、街は完全に造り変えられる。おそらくは君の友達にも酷い影響が出るだろう。勿論、ミイ君にも」

「……どうなるんだ?」

「さあ、そこまでは分からん。僕にとってはそれは担当外ってことだね。でも何かしらの影響は避けられないよ。何せ、君達は皆、街に暮らしている。その街が変化するんだからね……とは言っても、結局においてそれもまた一つの調和、完成された街の形だ。決着さえついてしまえば、それがどんな形だとしたって、僕が口を差し挟む余地は無い」

 どうやら俺は、随分不幸な役回りに当選しているらしい。平和に、自然に見送られて消えていったかつての友人達のことを羨ましいと思う日が来るとは思わなかった。アクセス? キィだって。そんなの、俺の感覚からすれば遠い世界の、俺とは何の関係も無い誰かのために用意されている言葉だ。

「それじゃあ行こう」

 そう言ってオルヴァーは立ち上がった。いかにもそれが俺達の間で既に合意の形成された行動であるみたいに。

「行く?」

「試しにさ。街の中枢、その入口へ案内しよう。期待するといい。普通に生活している人にはまず縁のない場だからね」

「俺は普通に生活している人なんだけど?」

「これまではそうだったとしてもこれからは違うさ。君は来るべき街の変化から、最低限、ミイ君だけでも守りたいんじゃないかな? 勿論、君が変化を前にして消えてしまうのなら別だが……仮に中に入れれば、意思決定を保留している思考に訴えかけることだって出来る。陳情することさえ出来れば、おそらく君は消えずにその時を迎えることが出来る。ミイ君を守ることだってきっと出来る。君の友達も、街も、気に入っている施設も、それに……」

「行くよ、行く。そんなに並べ立てなくたっていい」

「君に最低限の行動力があって良かったよ。安心していい。君は、少しも凡庸なんかじゃない」

「別にそれを気にしているつもりは無い」

「行こう。時間はいつだって足りないんだ」

「ミイ、そういうわけだ」

「別に、言われなくても分かるもん、それぐらい。それに、そろそろひろくん、いつも遊びに行く時間じゃない。ミイはお留守番慣れてますよーだ」

「なるべく早く帰ってくるよ」

「そのまま遊びに行きたくなるくせに。もし帰って来なかったら?」

「何でも言うこと聞いてやる」

 いつも通りの誓いを立ててやり、頭を三回撫で、外へ出た。



 〝中枢〟とやらは文字通り、街の中心地点にあった。全部で十一ある大通りの、五番と六番の間、居住区と商店区の隙間。オルヴァーに連れて行かれたその場所にあったのは、巨大な箱を地面に置いただけのように見える、ひどく飾り気のない建物で、それは街のあちらこちらに設置されている倉庫の様式だった。

「倉庫?」

「ここだけじゃない。街で商業用に使っている倉庫の全てが中枢への入口を兼ねている」

「中枢、なんて大層な呼び名のくせに乱暴な隠し方だ」

「入れない人には入れない場所だ。無理して完璧に隠す必要は何処にも無い。それに倉庫ってのは君が考えている以上に安全なんだ。此処にはこの街の運営システム上、君たちは入らないだろう?」

 オルヴァーが鍵を外して扉を開くと、埃と黴の臭いが解放されたことを喜んでいるかのように外に踊り出してきた。オルヴァーはためらわずに中に入っていく。正直なところ、俺は遠慮したい気持ちでいっぱいだった。中に十分もいれば埃まみれになりそうだ。明かりが灯された。倉庫にしては置かれている物がそんなに無い。何が入っているのか定かではない段ボール箱が十数箱に、四人ぐらいで使うのにちょうどよさそうな円卓。あとは木製の床がむき出しになっていた。

「君がその資格を有していれば、中枢と繋がる。意思を飛ばしてごらん。中に入れろ、と」

 言われた通りにする。意思を、何処かにいるのかすら分からない誰かに向けて飛ばす。入れろ。中に入れろ。俺自身はそんなこと望んでもいないんだが。

〝アクセス成功。認証を待機しています。認証成功。新しい構成情報を取り込みます。この処理には数分かかる場合があります……〟

 オルヴァーがふざけて言っているのではない、何処かの誰かの声が聞こえた。辺りを見回しても誰もいないのは分かり切ったことで、目に入ったのは満足げに頷くオルヴァーだけだった。そして、周囲の風景が一変した。

 そこはもう、古びた倉庫ではなくなっていた。強い風が吹いている。目の前に何かが浮いている。輪郭以外が目には見えない何らかのオブジェクト。空気の流れがその場で変化し、蠢いているのが分かる。輪郭は、大小さまざまな円を描いていた。円たちはどれもかすかに揺れ動いている。時折、隣り合っている同士がぶつかり、それぞれの大きさが目で見て分かる程度にかわる。吹きつける風がそこにある何かの変化に合わせて向きを変える。じっと見ていると気持ち悪くなりそうだ。

壁や床の概念がよく分からなくなる場所だった。俺は確かに何かを踏みしめて立っているけれど、それがどんなものなのかは分からない。鏡でも張られているかのように、足元には今俺が目の前にしている光景を上から眺めおろしている様子が見える。上も同様だ。うろたえている俺の無様な足が見える。前後左右も同様で、つまりは完全な行き止まりの部屋だ。何処にも出口は無い。全てが完結している。調和? 正面から吹き付けてくる風は俺を敵対視しているとしか思えない強さだった。俺はきっと、この中では随分酷いノイズなのだろう。

「陳情するんだ。戦いたい、と」

「それを望んだ覚えは無い」

 いつの間にか横にいたオルヴァーについ言い返した。間違い無く、それは俺の望みじゃない。言い返すようなシーンではないことは分かっていたけれど、つい。

「仕方ないな、君は。なら、ミイ君を守りたい、でもいい」

 それなら問題無い。

「陳情なんてやったことがない。どうすればいい?」

「繋がりを強く意識するんだ。左から三番目にある、全体で二番目に大きな意思、あれに気持ちを向けるんだよ」

 俺はミイを守りたい。街がおかしなことになるなら、それに巻き込まれないようにしてやりたい。俺が消えるのは、出来ればその後、これまで通りの街として向こうしばらく大丈夫になってからにしてもらいたい。そのために俺は、全力で戦う。そんな気持ちを順番に頭の中に並べた。全力とか、戦うとか守るとか、気持ちとして思い浮かべたことがこれまで一度も無いわけではないけれど、改めて明確に意識すると、なんだか居心地が悪い。それでも、ミイのためなら仕方がないのだ。手段も外聞も気にしてなんかいられない。俺はミイを守らないといけない。とにかく、俺が消えてなくなるその日までは、絶対。

 蠢く輪郭がその動きを強める。オルヴァーが指定した円が揺れ、その閉じた環をひととき、開く。そしてそれは、右隣にあるもう一回り小さな円へとぶつかっていく。ぶつかられた円が少し小さくなる。それが何度か繰り返され、再び、全ての円が元通りのかすかな揺れの状態に戻ると、ぶつかられた側は、ぶつかっていった側とほぼ同じ大きさになっていた。

「OK。あとは君次第だ」

「素直に戦わないといけないってことか?」

「街は君の意思を理解するに至った。その事実はアリシア側にも伝わるだろう。早晩、向こうにも動きがあるはずだ」

「いきなり襲ってきたりとか、そういうことか?」

「あの一番大きな意思が、アリシアの側が掌握している分だ。単純に勢力が強ければ勝負が決まる、というものでもないが、街の思考の大半はアリシア側の思惑に賛同している。今回の陳情が無ければ、本当に明日や明後日にいきなり君の花が咲いてもおかしくなかった。その可能性が随分低くなったことを向こうが知れば、急襲は十分考えられるだろう」

「気をつけるよ、としか言えないな。それより、帰りたい。酷く疲れた」

 どういう理由からかは分からないけれど、いるだけでも体力を消耗する部屋だった。目を開いていたくなくなる。思考が、目には見えない何かによって阻害される。だるさが体中に行き渡って、家の布団とミイの声が恋しくてたまらなくなる。

 それからほどなくして、俺達は外へ出た。オルヴァーが言うには、権限を持っていようとも自由に出入り出来る場所では無いから、それが求められていない時に俺一人で此処に再び入ろうとしても無駄、らしい。別に入りたいとも思わないから生返事だ。車を降りて、家の前。いつの間にか、日は完全に暮れていた。遊びに行きたいと少しも思わないのだから、どうやら俺は本当に疲れきっているらしい。中へ入った。いつもの家の、いつもの匂い。本当に早く帰ってきた俺を見て、ミイが目を丸くしていた。

「本当に早く帰ってきた。なんだかひろくんらしくないなあ」

「じゃあどうしろって言うんだよ」

「どうもしなくていい、お帰りなさい」

「ただいま」

 俺は笑顔でそう言い、ミイからも、俺のそれよりも数十倍は出来の良い笑顔が戻って来る。ミイのためなら、どんな事だって俺は〝仕方ない〟で済ます。絶対に守り切ってみせる。そう思った。



「全ての自由は再分配されなければならない」

 街全体がそう声高に叫ぶ〝箱〟によって覆われた。俺が中枢に行った日から数えてちょうど二週間、駆け足で近付いてきているらしい冬の先頭がちょうど街に辿りついたのか、カラリと晴れていて、その陽光からは想像出来ないような、寒い朝のことだった。

 大騒ぎをしている〝箱〟一味には俺たちと同じ市民が三割ほど混ざっていて、あとはそれ以外、つまりは街の構造たちであった人々。連中が騒ぎながら自分達でそれを喧伝していた。新しい秩序を街にもたらす、だとか、これは戦いの始まりに過ぎない、だとか。我々は〝箱〟。街の救世主である、だと。ふざけた奴らだ。

「警察、駄目っすね。逆に賛同しちゃってるみたいで、騒ぎを止めないのかって訊いたら、その必要性は今のところありません、だって。馬鹿だ、あいつら」

 事態が起こってすぐに、クサカがミカミ達三人を引き連れて俺の家に来ていた。中心に集まるのは当然、らしい。バーから大量に酒を奪ってきていたからそれを指摘すると、ちゃんと金は払った、と怒られた。誰もそんな話はしていない。

「どうするかを決める……なんてこの状況じゃ無理だろう?」

 騒動は街のいたるところで発生しているらしく、喧騒や怒号は俺の家までしっかりと届いている。ミイを入れて五人、揃って、困ったなあ、なんて顔をしているぐらいしか出来ることはない。クサカは飲んでいる。自分が持ってきた酒をひたすら、黙って干し続けている。

「それにしてもだ、様子がおかしいと思わんかね、タケシタヒロシ」

「全部おかしい。改めて言うことじゃない」

「そうじゃない。十分前を思い出せ。そして、もう一度よく辺りの音を聞け」

 酔っぱらいクサカ氏はそう言い、空いているグラスに酒を注ぎ俺の前へ置いた。膝の上のミイが腕を伸ばし、それを俺に渡してくれる。ミイの腕一本経由するだけで、何があっても飲まなければいけないような気がしてくるから不思議だ。

「駄目だ、分からん。何が言いたい?」

「お前は抜けているな。緑髪の兄ちゃん、次、あんたの番だ」

 同じように酒が注がれ、ミカミの前に置かれる。

「どうでもいいね。特に分かりたいとも思わねえ」

「くそガキが……ひょろい兄ちゃん、あんたは?」

 クサカの手の届く範囲にグラスが無かった。それが気に入らなかったらしい。トシオ君の前には未開封の原酒の瓶がどすん、と置かれた。

「…………」

「……最後、丸っこい兄さん」

 置くものがいよいよ無くなったのだろう。自分用の酒を常に片手に持っていたクサカ自らが立ちあがり、ダー君の前にずどん、と座った。睨みつける目線がダー君の身体の輪郭をなぞっていくのが分かる。見るからに凶暴そうな目つきだ。取って食う、なんて言い出しても、多分、違和感はやってこないだろう。本気で止めに入りそうだ。

「近づいています。音。少しずつだけど、多分此処に……?」

「やるじゃないかお前。見直したぞ」

 殺気を満ちた目が細められた。褒美だ、とトシオ君の前に置かれていた瓶がダー君前に移された。そんなもの、そのまま飲んだら普通の奴はぶっ倒れると思うんだけど。

「これが罰に見えるってんならお前らボンクラどもが飲むべきだな。確実に騒ぎは近づいてきている」

「どうして此処を目がけているなんて言える? ただ街全体に広がっているんじゃないのか?」

「お前の話しを聴いた限りじゃその可能性は薄い」

 中枢がどうこう、俺達サイドの陣営の旗が俺。その辺りの話しはクサカ達が揃ってやってきてすぐに話しておいた。本当は話すつもりも無かったのだ。ミイが、クサカが来るなり、「こないだ変な人が来たんだよー」なんて言うからいけない。話さざるを得なくなった。話しを聞いて、クサカは大笑いだ。「いよいよお前逃げられないな、おめでとう」なんて言って。ミカミは神妙な顔をして「お気持ちお察しします」、ダー君は、多分彼なりの冗談なのだろう、「一応、いつ解決しても良いように練習はしといてくださいね」。トシオ君は何処か悲しそうな顔をしながら、いつも通りの首肯をひとつ。

「あんたは連中にとって倒すべき旗。向こうは勢いがついてる。こっちはまだ状況についていけてない。早々に旗を倒せば勝負は終わり……来ない理由は無い」

 クサカがつまらなさそうに言って、水割りの入った瓶をひとあおり。忌々しげに瓶を降り、それをダー君に渡した。その原酒を割って作れ、という指示のつもりらしい。

「それよりも今は対策を立てる必要があると思うんです。つまり、逃げるのか、抵抗するのか。飲んでる場合でもないです」

 ダー君の毅然とした反論が狭い俺の家にどっしりとした存在感を伴って広がった。ミカミが思わず、おおお、と声を挙げた。トシオ君も無言のまま、驚きの顔だ。俺も驚いた。まだこの街に、クサカに逆らえる奴がいるとは思ってもみなかったのだ。

「なんだ、面白くもない奴だな。よこせ、自分でやる」

「先に投票してほしいです。逃げるか、戦う。どちらかに」

「ああああ、面倒だな。丸い兄さん、そんなの考えるまでも無いだろ? 逃げ場なんかどこにも無いだろうが。そんなの考えるまでもない。戦うんだよ。その瓶に水と原酒で六分目まで入れとけ。空き瓶で殴るよりは効くから」

「恐ろしい奴だな、お前は……」

「徒手空拳でやれるほど頑丈じゃないんだよ、あたしは。お前も支度しろ。ミイちゃんどっか、押入れにでも入れておけ。邪魔だ」

 膝の上、ミイがびくりとみじろぎをした。怖いはずだ。毎日普通に暮らしていただけなのに、突然わけのわからない騒動が始まって、戦うだのなんだの。俺だって怖い。怖くて、逃げたい。けれど、俺が取るべき行動はそれじゃない。

「ミイ。一時間ぐらい……そうだな……心の中で、俺が家でいつもやってる曲、順番に歌っていなさい。そうすれば、すぐだから」

「…………」

 何も言わずに自分で押入れの扉を開いて入ってくれるミイは、本当に頭が良いと思う。怖くても、嫌でも、ちゃんと自分がすべき事を分かっている。俺だって、負けていられない。守らないといけない。

「あとどんぐらいで来ると思う?」

「音の感じからして、十五分以内ぐらいです」

 ダー君がクサカの指示通りに酒瓶凶器を作りながら答えた。その声に動揺は見受けられなかった。

「スティック持ってない」

 トシオ君もやる気らしい。座を立って我が家の台所へ行ったかと思うと、その手に菜箸を持って帰ってきた。

「これじゃ細い……」

「火鉢のやつのほうがいくらか太いかもしれねえな」

「そっちで」

「無口兄さんなかなか面白いじゃないか。そういうわけで、あたしらはこれからリーダーとミイちゃんを守る。馬鹿馬鹿しい話になってきたが、たまには運動も必要だ」

「あんまり気が進まねえんだけどな。大体よ、アンタ、本気で喧嘩なんかしたことあるわけ?」

「ないね。けど、やるしかないだろう?」

「まあいいけど? 俺は喧嘩、大好きだからな」

 ミカミはそう言って酒を一口。酒瓶凶器は使わないらしい。立ちあがって、素振りを二、三回。

「酔っぱらいやタケさんは別として、小さな女の子を守るってのは、まあ格好いい部類に入るんじゃないの? これ」

「皆、悪い。俺とつるんでるせいで面倒なことになって」

 謝っておいた。正直、悪いことをしたつもりはない。状況からすれば、言いがかりをつけられて喧嘩を売られているだけの話しだ。それを買う。こっちからすればそれだけ。悪いのは言いがかりをつけてきている奴らだとこういう場合は決まっている。だけど、それとは別問題だ。助力には、素直な感謝が必要だ。

「あとで好きなだけ飲み食い、奢ってやるから」

「その言葉、明日にでも後悔させてやるさ」

 そう言ってクサカが笑う。騒ぎの声が近づいてくる。雰囲気からして、十五人とか、二十人ぐらい。

「打って出よう。家の中じゃ、狭くてどうにもならねえだろ」

 全員で、思い思いの大声を出して、立ちあがる。喧嘩数分前。ふざけやがって、ぶん殴ってやる。心の中が、未だ見ぬ〝箱〟への怒りで埋まっていった。



「一応確認だ。あんたら、あたしらに喧嘩を売りに来たってことで間違いないね?」

 俺の家の前にやってきた〝箱〟の連中は全部で十三人。全員、何処にでもいそうな、いかにも普通そうな奴だった。そんなに喧嘩が強そうにも見えないし、俺達をどうこうしよう、なんてやる気に燃えているようにも見えない。クサカの問いかけに答えたのは、連中の中央にいた若い男だった。真黒のスーツ姿で、頭に、おなじく真黒のハットをかぶっている。手にはステッキ。小さめの眼鏡をかけていて、そのレンズの奥にある目線は周囲を油断なく見渡している。計算高くも見えるが、小心者のようにも見える。クサカが一応は確認しよう、と思ったのも仕方がない。

「喧嘩……いえいえ、私どもは、こちらにいるはずの、我々の側にあるべき者を一人、回収に参りました。まあ……別にわざわざ来る必要は無かったのですが、一度ご挨拶を、と思いまして」

「ほう」

「街の意思です。逆らうことは誰にも出来ない……申し遅れました、私は箱の主宰、街をより良くするために動く者、ドウザワと申します」

「自己紹介どうも。悪いけどな、そうですかってわけにはいかないんだ、あたしらも。なあ、タケシタヒロシ? あんたも何か言えよ」

「ミイに何かしようってんなら、俺はお前ら殺しても後悔しねえよ。やり合うのか帰るのか、選びやがれ」

 ミカミが、ひょう、と口笛を吹いた。自分で分かっているのだ。俺が発するような言葉じゃないのだ、こんなの。けれど、嘘やはったりを言ったつもりは無い。

「……結構。無事に終わりました。あとは、街によって自由が再分配されるのをお待ち下さい」

「終わった?」

 俺が訊く声とほぼ同時に、俺の少しだけ後ろにいたクサカ達四人それぞれの声。振り返ると、全員漏れなく地面に組み伏せられていた。目の前に連中がやってきて以来、おかしな動きをした奴は誰もいなかった。そうであるにも関わらず、クサカ達を抑え込む、いかにも屈強そうな男達。四人ともスーツを着ているけれど、その上からでも凶暴そうな筋肉が蠢いているのが分かる。振りほどこうとしてもがいたクサカが「痛いだろバカ」なんて言い、クサカらしくもない、まるでそこいらの女の子のような短い悲鳴をあげた。

「回収、確かに完了しました。私達には今回、ほんの一時期に限ってではありますが街の構造物を自由にする権限が与えられている。だから、こういうことも出来るんです。ついでにもう一つ、こういう事も……」

 男がそう言うなり、俺の家は轟音を立てて崩れ落ちた。何かが爆発したわけでもない。想像を絶するような風が吹いたわけでもない。ただ、崩れ落ちた。内側に、折り重なるように。両隣の家への影響は皆無だ。ただ、俺の家だけ。中に、ミイがいるはずの俺の家。

「ミイ!」

「大丈夫ですよ。言ったでしょう。もう回収済みです」

「そんなこと出来るわけがねえだろ! 適当な事言うんじゃねえ!」

「なら、ご自身で確認してみるといい。何処にも居やしませんよ。それでは、またいずれ……自由と不自由がきちんと再分配された頃にお会いしましょう……まあ実際は再分配ではなく、貴方がた自由市民から自由を没収する、そう表現した方が適切かもしれませんが。この街はこれから我々のものになる。その事をよく覚えておくといい」

「ふざけんなお前ら……ただで帰れると思ってんのか?」

「お友達、皆さん痛そうですよ。残念ですけど、貴方がたは私どもの権限では消したり壊したりは出来ないんです。まあ、こうやって押さえつけるぐらいは出来ますけど」

 不意に背中を突き飛ばされ、そのまま地面に引き倒された。腕を固められた。きわどい角度まで締めあげられていく。引き裂かれるような痛みに少し声がこぼれた。

「一つお教えしましょう。自由が一か所に固まっているとね、そこには何も生まれないんです。それは出来る限り流動的でなければならない。私どもは自由の在り方を是正するために、ひいては、街の形を是正するために動いています……ではまたいづれ、機会があればお会いしましょう」

 悠々と去っていく連中を見送ることしか出来なかった。連中の背中が見えなくなったあたりで、固められていた腕が急に解かれた。振り返った。そこには同じように振り返っているクサカ達しかいなかった。トシオ君の手に握られた箸、クサカの足元に転がる酒瓶凶器。俺達は、何も出来なかった。こんなの、反則だ。そんな苦情を何処かの誰かに向けて呟くしかなかった。こんなの反則でしかない。卑怯だ。やり直しを要求する。それに、こういう大事な時に、何故オルヴァーは来ない? さんざん巻き込んでおいて、肝心な時にいないのだから、この結果の責任を八割方押しつけても良いぐらいだ。

「タケさん……家の跡、探しましょう。ミイちゃん……奴らの口ぶりからして、ちょっと、アレだけど……それでも」

 ミカミに言われて振り返ると、もうダー君、トシオ君が残骸を少しずつどけはじめていてくれた。クサカは家の元台所だったあたりの残骸に腰掛けて、凶器としての役割を解除された瓶の中身を飲み始めている。酷く寂しそうな顔つきをしていた。その目線の先には、家の崩壊にも負けずに無傷で鎮座している俺の植木鉢。少しずつ成長していた筈の花は、枯れていた。



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