食糧の買い出し以外は完全に引きこもっての生活はおよそ一カ月続き、街を覆う季節は当然のように初夏になっていた。そして、たったの一カ月であるにも関わらず街は、後戻りなんか出来そうもないぐらいに強烈な変化に押し流され始めていた。
八号館が閉鎖になった。電話でそれを教えてくれたミカミによると、前の日に映画を見て、翌日通りかかったらもう無くなっていたそうだ。建物はそのまま残っているけれど中には誰もいないし、ポスターも看板も出ていない状態で、いつもニイサンがいるカウンターの上に、〝当館は閉鎖となりました。これまで有難うございました〟と書かれたメモ紙が置き捨てられていたらしい。ニイサンは何処へ行った? ミカミに訊いたところで知っているわけがなかった。
「あいつらのことなんか知るわけないじゃないすか、俺が」
読めた解答だったから、ただ礼を言って電話を切った。
俺はニイサンの口調や人懐っこい笑顔を本当に気に入っていたのだ。同じような感想を彼に抱いている奴が多くいることだって俺は知っている。クサカだって、「あのニイサンはいいよね。なんか和む。雑民じゃなかったら飽きるまで一緒に飲み歩いてやるのに」と評価していた。ミカミやダー君、トシオ君。他にも沢山、ニイサンのことを気に入って八号館を贔屓にしていた市民はいた。ニイサンがどんな存在であろうと、ちゃんと街の仲間だった。代わりなんか何処にもいない、俺達の街の仲間だったのだ。あいつらのことなんか。ことなんかって、なんだ? ニイサンはニイサンだ。
俺がそんなことを考えて怒ったり落ち込んだりしている間にも、幾つかの施設が消滅していた。色々な友達が皆して、お気に入りの場所が無くなってしまったことを俺に報告してくれたのだ。俺の事をお悩み相談所か何かと勘違いしていやがる、なんて悪く捉えることだって出来るけれど、多分皆、そこまで考えていない。芽のことは誰にも話していなかったから、外に出れない俺を気遣って、なんてこともない。ただなんとなく、漠然と、誰かと何かを共有したいのだ、皆。がっかりとか、寂しさとか、その手の気持は誰かと共有した途端、軽くて味も色も薄い何らかに変化するのだ。
幸い、バー〝十五番屋〟と〝こころや〟、〝ヘブンキャンウェイト〟はまだ生き残っていたけれど、この様子からして、いつどうなってもおかしくはない。街は急速に変わりつつある。冗談ではなく、このままじゃ来年には街ごと消えうせているかもしれない。俺がそれを危惧しても仕方がないことぐらいは分かっているけれど、そんなの関係なく俺は嫌なのだ、そんなの。
*
昼過ぎに起きて、ギターを適当に弾きながら庭を眺めていたらクサカから電話が入った。色々と話題が溜まったのに一向にバーに来ない俺のために今夜家に行くから待っていろ、だそうだ。これだけ街が変われば、話題が溜まるのも分かる。俺も、クサカの電話を受けてから、自分の今日まで一カ月を思い返してみた。ギターの上達と、次々伝えられる街の変化、あとはミイしかなかった。まずまず、穏やかな時間だったと言えるかもしれない。
約束通りギターは毎日弾いてきた。慣れてくれば面白いもので、ずっと弾けなくて諦めていた幾つかのフレーズもこなせるようになったし、音の飛距離もいくらか伸びた。上達が見えるたびにミイは最高の笑顔で拍手してくれた。
毎晩、ミイと色々な話しをした。
初めてミイが家に来た時、部屋の隅で怯えながらじっと様子をうかがっていたことから始まって、俺が声をかけるとびくりと身体を震わせていたことや、三か月ぐらい一緒に過ごした頃、俺の膝の上がくつろぎの場だと知ってくれたこと。お酌や、俺の好きな料理――グレービーソースのかかったハンバーグ――を覚えてくれて、俺の外出癖に慣れてくれたこと。一個ずつ思い出しながら俺が話して、ミイは「うん、うん」と頷きながら、その時その時の気持ちを教えてくれた。慣れない人も慣れない場所も怖かった。初めて乗った膝は温かかった。俺の好きな料理は面倒臭くてなかなか作る気にならない。他沢山。内側へ、内側へと入りこんでくる沢山の話題達は、そのどれもが大切過ぎて忘れられない思い出だ。幸せな気持ちと、絶望と呼ぶのが一番相応しいような暗がりの気持ちが同時に押し寄せてくる。少しでも幸福感が上回るように、どうしようもなく落ち込んだ時は互いにくすぐりあって無理矢理に笑った。
話題が一区切りして眠る時間になると、ミイと一緒に植木鉢に向かって手を合わせた。これも毎晩、欠かさず。
「どうかまだもう少し咲かないでください」
願いは今のところ届いている。最初に確認した芽の状態から、いくらかは大きくなっているものの、まだ当分は咲きそうもない。
どうかまだもう少し、このまま。
夕方過ぎてクサカが家にやってくると、俺の全力の制止を無視する形で、我が家で飲み会が始まった。何処から調達してきたのやら、両手に余る量のボトルと氷、――抱えてきたのはクサカ本人ではなく、無理矢理に引っ張ってこられたらしいトシオ君で、クサカは悠然と手ぶらで来やがった――それに、俺の家にグラスが無いことまで危惧したらしく、バーから三個レンタル――おそらく強奪に等しいものだということは容易に想像がつく――してきていた。
「いくら俺の家が古くたってグラスぐらいはあるんだけど」
「あんたのことだから黴でも飼育してるんじゃないかと思ってな」
「ミイがきちんとやってくれるし、仮に俺がやったとしたって、お前よりはまともに管理する自信がある」
「あたしは管理なんかしないさ。ただそこにある酒を飲む。それがあたしの仕事だ。あ、御苦労さん。お前はもう帰っていいよ。今日はこいつとサシで話しがあるんだ。悪かったな」
基本的に無言のトシオ君にしては珍しく、「あんまりだ……」と一言こぼして帰っていった。精神に深刻なダメージを被ったのだろう。申し訳なくは思うけれど、クサカと遭遇したことがケチのつきはじめだったと諦めてもらうしかない。
「さて、邪魔者もいなくなったし、今日はのんびり此処で酔っぱらうとするかね」
言うが早いか空のグラスを俺に突き出してくるクサカと、それにどう対処しようか若干の迷いを覚える俺。大人しく、クサカがいつも飲んでいるカクテルを作ってやったのは、万が一喧嘩にでもなってしまった時にミイがきっと悲しむであろうことを想定しての、俺なりの配慮というやつだ。若干濃い目。早いところ酔いつぶれてくれれば幸いだ。ちなみにこれまでクサカが酒にやられて眠りこけているところなんか一度も無いから、割と無駄な望みかもしれない。グラスを渡してやったら一息で干された。この望みは捨てることにする。
「それ以上何処にアルコールが浸み込むんだ、お前は」
「そんなことはどうでもいい。それより、お前がここのところ外にまるで出てこなくなったのは、その部屋の隅でタオルかぶってる植木鉢のせいって解釈でいいのか?」
「……まあ、見れば分かるよな」
「酔っぱらいってのは大体勘が鋭いもんだ。もう咲きそうなわけ?」
「まだしばらくはかかると思うけど」
「お前それでずっと、咲くまで引きこもる気か?」
「決めてねえ」
「どんなことでも決めておいた方が楽って言ってたのはお前だった筈だが」
「絡むなよ、面倒くさいから」
「これはあたしからの忠告だ。表にちゃんと出てこい。これはミイちゃんのためでもある」
いかにも酔っぱらいらしい、じっとりとした目つきで俺のことを睨みながらクサカはそう言った。ミイのため? それなら、俺にとって聴く価値のある話だ。
「いいか? 外にだってお前の知り合いは大勢いるだろ? そいつら皆無視して行く気なのかお前は」
「もうちょっと押し迫ったら、そりゃ一回ぐらいは挨拶するさ」
「しないね、お前は。押し迫ったらますますミイちゃんの傍を離れられなくなる。せいぜい電話だな。緑髪の兄ちゃんやその仲間とか、そのぐらい距離が近い奴らにこっそり電話で教えて、残りの、どうでもいい連中にはいきなり儀式の連絡だ。お前はそういう奴だ。ミイちゃんだって、少しずつでもお前がいない暮らしに馴らしていくべきだろうが。こんなの考えるまでも無い。二日か三日、何処かで外泊するとかな。いざ、ばあっとお前がいなくなって、そん時はもう泣いたって喚いたってミイちゃんは一人になるんだぞ?」
クサカがまくしたてるその言葉はしっかりと俺の心に突き刺さった。寝室に行ってなさい、と追い払ったミイの心にも、多分。何せ、狭い家なのだ。しかもクサカ、わざわざ声を張ってミイにも聞こえるように言いやがった。ミイが向こうで声を潜めて泣いていたらどうしてくれる。
「こんなんで泣くようじゃ、お別れなんて出来ないさ」
「お前は……もうちょっとこう、思いやりとか、優しさとか憐憫とか、そういうのは無いのか?」
「無い。なんて断言するのもあたしらしいかもしれんけど、これはあたしなりにお前やミイちゃんのことを考えて言っているんだぞ? あたしにしちゃ珍しい、かなり真面目な優しさだと自負しているがね」
「もういいからどんどん飲め。そして酔いつぶれて寝れ」
「どれ、乾杯しよう」
「何にだ」
「ようやく咲きはじめやがったお前のクソッタレでのろまな種に」
「断る」
「じゃ......ミイちゃんの未来に」
「乾杯」
グラスのぶつかる音が部屋に響き、それをきっかけにしてひととき静かになった。庭で虫が鳴いていた。風が東から西へと駆け抜けていった。クサカが、ふう、と甘い吐息を漏らした。それに合わせて、俺はため息。胸の中が窮屈で、吐き出したくて仕方が無かったのだ。
*
「……咲くのは嫌か?」
「喜ぶ奴なんかいねえだろ」
「どうだかね。あたしみたいに遊び飽きてるのも街にはいるしな。それに、あと一年もすればどいつもこいつもがさっさと咲け、咲け、と願ってるかもしれん」
「街が変わりすぎて?」
「確実に街は変わり始めている。一年後どうなってるのかなんて、今のところ誰にも分からん。願わくば、街があたしの知ってる街のうちにあたしのも咲いてほしいね」
「だけど、街は変わる。それは避けられない。そして多分、君もそれを見ることになる」
言ったのは俺じゃない。クサカが「はぁ?」なんて顔をした。
「戦いの時が迫っている。これは規定事項だ。街はそれを容認している。そして、ひとつの変化の後、より正しい方向を街は模索する。君達はそれぞれの取り分を互いに主張する。どちらの望みが叶うのか、それは誰にも分からない」
いつの間に入りこんできたのやら、玄関側から声がして、そのまままっすぐ、俺とクサカが挟んでいるテーブルの上に腰掛けやがった。どけ、そこは座る場所じゃない。あまりにも当たり前のような顔をして座っているからついそう言ってみた。失礼、と軽やかに立ちあがり、改めて床に座り直したオルヴァーは、勝手にグラスを手に取り、冗談のつもりなのか、それを俺の方へ突き出してきた。
「一杯もらえるかな?」
「ふざけるな。却下だ。いつの間に入りこみやがった」
「冗談だよ。調和について話しをしよう。そちらの美しいお嬢さんもぜひ一緒に」
「おいタケシタヒロシ。この、美的センスの非常に優れたお方は誰かな?」
まだ最初の一杯も飲みほしていないのに頭痛を感じた。美しいお嬢さん? 頭がしめつけられる。さすがにこれは声には出さなかったけれど、どうやら顔に出ていたらしい。美しいお嬢さんの美しい御手から投げつけられた氷が俺の額に当たって部屋の何処かへ飛んで行った。
「この部屋はとても清らかな調和に満ち溢れているね。更に良い調和を目指すために、出来れば、隣室にいる可憐な少女も座に加えたいんだけどいいかな?」
「駄目だ」
「まあそう言わずに。障子の隙間からこっちを見ているそこの可愛いお嬢ちゃん。こっちへいらっしゃい」
オルヴァーがそう言うと、待ってました、と言わんばかりにするすると障子が開き、ミイは俺の膝まで来てその上に腰掛けた。オルヴァーと違って腰かける場所は間違っていないから、それは構わないんだけど。
「駄目だって言ったのに……」
「どっちみち聞こえるんだからいいじゃない、ひろくんのケチ」
「そんな汚い言葉を使ってはいけません」
俺の注意なんかまるで聞こえていないらしく、ミイは俺の膝の上で興味深そうにオルヴァーを見て、クサカを見て、それから俺の顔をじいっと見た。ねえ、いいでしょう? なんてわざわざ言わなくたって分かるぐらいの表情をしているくせにわざわざ言ってきたから、俺は頷くしかなかった。
「で、何を話すって?」
「調和について。街について。あとはそうだな……ミイ君のこれからについても少し」
「いいさ、聴こうじゃないか。酒のつまみ程度にはなる」
すっかりオルヴァーを気に入ったらしいクサカの一声で、オルヴァーの意味不明話が再び始まることになった。ミイには言わないと決めてそれっきりになっていたおかげでようやく忘れかけていたのに。もしおかしな事言い出したら無理矢理叩きだしてやる。特に、ミイについての問題発言は絶対に許さない。そう心に決めてミイの頭を一つ撫でた。それを合図にしたかのように、話は始まった。
*
「いいかい? まず大切なことは、街の思考は決して一つではない。そのことを頭に入れておくべきだよ」
「おい兄さんよ、あたしは気が長くない。話は簡潔に頼むよ」
「タケシタ君を開花によって街から出そうとしている思考もあれば、そうではない思考もある。街をこれからも今まで通り運営していこうとする思考と一度リセットしまうことを目指す思考が相反しているように」
「それで?」
「相反する思考はそれぞれにアクションを起こし、影響力を強めようとする。向こう側がどういう動きをとるのかはよく分からないが、とにかく施設が消えつつある。これは事実だ。少なくとも君にとっては〝敵〟と言って問題なかろう。それに対する、街を残そうとする思考はこうして僕を用意したわけだ。その一団の行為を防ぐために」
「そんな分かりやすい対立構図の割には、随分街は変わったんじゃないの?」
「どちらの思考がより強いか、という話しだ。今、勢いは街の変革とリセットを目論む思考にある。どっちつかずの、日和見を決め込んでいる思考もあって、それが今回は、極端な街の変革を目指す思考とセットになっているからね。その勢いは、街全てをゼロにしてしまうほどだ。実際、その可能性だって、皆無ってわけじゃない」
クサカがどんどん話を進めるものだから俺はまるでついていけない。俺としては、街がどうこうの話と並列で俺が消えるかどうかについてが扱われている点しか気にならないのだ。まるで、俺は消えるべきではないとでも言いたい口ぶりには激しい違和感を覚える。
「勢いにはそう簡単に逆らえない。街はある程度変わるだろう。施設が消え、多くの雑民も消えることになる。だから僕はひとまずの動きとして、こうしてタケシタ君の家にお邪魔しているわけだね」
「どうにもあんたの話しはつながりが分からんね。街がどうこうと、こいつとどんな関係がある?」
「あるさ。タケシタ君の花を咲かせようとする思考と、街のリセットを目指す思考は同一なんだ。つまり、分かりやすく言うなら、街をどうこうとするためにはタケシタ君が邪魔なわけだ」
「ちょっと待て。俺が何をした」
「何もしてないさ。そもそも、タケシタくんは特別なんだ。街をこれからも維持していきたいと考える思考は、君をこれまで十年間、大切にしてきたんだからね。街を一つにまとめる存在として」
「こいつが? オルヴァーさんだっけ? あんた、さすがに無理がないか? こいつはミイちゃんのことにしか興味が無いぞ」
クサカの言い分は間違っていない。それが正しかろうと間違っていようと、俺はミイのことにしか興味は無いのだ。市民はそういうものだと十年間で学んだ。みんな、自分の好きなようにやる。それで、花を咲かせて消える。此処はそういう街なのだ。少なくともこれまではそうだった。俺が見てきたものは、そうだった。
「現状維持したいと考えている思考は、街に中心となる点が必要だと考えたわけだ。そして、タケシタ君がそれに選ばれた。以来、その思考のもとタケシタ君の花は長い眠りについていた。ここにきて芽が出たのはその思考の勢いが弱まりつつあるからだね。おそらく、今現状維持派は焦っている。再度勢いを取り返せば、速やかに事を起こすだろう。つまりは、タケシタ君が皆の中心となって街を守らざるを得ない何かが起こる。いつこうなるかは決まっていなかった。しかし、いつかはこうなることが予定されていた。そして、この度めでたく〝いつか〟がやってきたわけだ。我ながら分かりやすい説明だと自画自賛するよ、僕は」
「俺に拒否権は?」
「街の思考には誰も逆らえんさ。ここが街である限り。そして、我々が街に住まう限り。思考と思考はぶつかり合い、そして、どちらかの勝利が決まったその時、その形はさておき、落ち着きを取り戻すことになる」
「つまり俺にどうしろってあんたは言ってるんだ?」
「さあ、今のところは特にするべきことは無いさ。自由だ。花がまだ咲かないように祈っているぐらいかな」
「乾杯しよう」
いつの間にか三人分の酒を注いでいたクサカがそう言った。
「何にだ?」
「お前の......中心とやら就任に」
「なるつもりはねえよ」
「拒否権はないらしいぞ。諦めておけ」
しぶっていると、膝の上で座っていたミイが俺の前に置かれていたグラスを手にとって、勝手にクサカとオルヴァーそれぞれのグラスにあわせた。
「ミイ、子供はそんなの触っちゃいけない」
「だって、ひろくんが中心になれば花は咲かないんでしょう? わたし、代理」
「ミイちゃんのほうがよっぽど現実的で優秀だな」
クサカが笑うとオルヴァーまでそれに合わせて声高く笑いやがった。
「おい、そう言えばさっき、ミイの未来がどうこうと言ってたな。それはどうなった?」
「ああ……別に何も話しはないさ。気を悪くしないでほしいんだけど、僕にも一人ひとりの先行きまでは分からない。ただ、ミイ君のことを言えば君も少しは身を入れて話しを聴くんじゃないかと思ってね」
「ふざけていやがる。喧嘩売ってんのかお前」
「そんなつもりはないよ。現状を知っておいてほしかっただけさ」
「こんなにあっさり街が嫌いになるとは思わなかった」
「それでも君は街を捨てられない。君はこの街を守るために戦うことになる。それが今、目の前にある現実だ」
「まあまあまあ、もういいだろ? 何がどうとか、あたしにも分からん。だけど、もしお前が中心とやらになれば、花は咲かない。そういう話しの流れだし、それはあたしやミイちゃんにとってはめでたい話しだ。だから、乾杯。文句は言わせん」
そこからはただの飲み会になった。招かれざる客だった筈のオルヴァーはすっかりクサカと意気投合、互いに注ぎ合って飲み続け、クサカ持ち込みの酒が無くなると我が家の在庫分、それも無くなったら俺の家の電話でミカミにダー君、トシオ君を呼びつけ、それから三十分もしないうちに三人は、三日間ぐらい飲み続けられそうな量の酒を運んできた。
「お前ら、少しは逆らうとか何とかしたらどうだ」
「この酔っぱらい女が、突然花が成長してタケさん消えそうだから盛大に飲むぞ、って泣き真似までして電話してきやがったんですよ。来てみたらまるでそんな気配無いとか、詐欺ですよ」
「がたがた煩い。全員グラスに酒を注げ。飲むぞ」
「……で、タケさん、誰です? そいつ」
ミカミがそう訊くと、「新しく街に来たばかりのオルヴァーと言います」だと。もう勝手にしやがれ。
*
部屋の隅のギターをミカミが持ってきて、調弦して弾き始めた。俺が出す音なんか比べ物にならない、何処までも飛んでいきそうな澄んだ音が部屋に広がっていくと、それに合わせてトシオ君が自分の太ももと掌を使ってビートを刻み、ダー君は口でベースラインを紡ぎ始めた。
「お前らいいぞ、なかなかやるじゃないか。おいタケシタヒロシ、歌え。お前の担当だろ?」
「僕も是非聴きたい。この部屋の調和は、きっとそれをもって完成する」
ミイが小さい手で精いっぱいの拍手をしている。歌ってやるさ。オルヴァーのつまらない話しなんか忘れられるぐらいの大声で。
「じゃあ、俺達のオリジナル曲から、タケさんが好きな、アレ」
「ああ、それじゃあ聴いて下さい。『朝』」
俺が曲名を告げると、ミカミが優しい音色のアルペジオを奏ではじめる。トシオ君は、音が大きくならないように配慮した、かすかな八分の刻み。ダー君は、「自分、サビでハモりいれます」と役割の宣言。
何処かに明日があると誰かが呟いた
探しにいかないのか、と尋ねる声がした
検討もつかないんだ。僕はそう答える
そんなの言い訳じゃないか。君は言う
空赤い夕暮れ、今日の終わり
足元に長い影がゆらり揺れる
遠く、西の空の奥で明日が生まれる
夜を通り過ぎたらやってくる
昨日は何処にやった? 誰かが訊いてくる
必要ないんじゃないか? 僕は答える
要らないものなんか無いと君が言うから
なら明日にでも探そうと、僕は決める
暗く青い空、もうすぐ夜が過ぎる
新しい光が新しい影を産む
もうすぐに歩きだせることを僕らは知る
探すべきは昨日の意味、明日の在り処
長く何処までも続くこの道の上で
大切なものは足元の影に仕舞う
歩いていけるのなら、そう、何処まででも
探すべきは今日の価値、そして自由の意味
君の言葉と、僕の思いと、全てが重なる今日
何処かで何かが、ほら、産まれる
「上出来じゃないか。酒のつまみとしては随分上等だ」
クサカの拍手と称賛がミカミの奏でる繊細なアウトロを吹き飛ばし、ミイの「ギター、まるで違う楽器みたい」という素直で子供らしい感想が俺の心に小さな棘を刺したのは別にして、雰囲気としては悪くない。ダー君、トシオ君からしてみれば、俺達の音楽はこんなもんじゃない、ってところだろうけれど、ちゃんと家の中に音は満ちたし、俺は気持ちよく歌えた。ダー君のハモりは正確で温もりに溢れていたし、トシオ君の刻みは優しい音楽のところどころに空く隙間をぴっちりと埋めて、曲にハリを持たせてくれた。皆の声にめげずにアウトロを最後の一音まで弾ききったミカミが満足そうに「ご静聴、感謝します」と頭を下げた。演奏家としてのミカミは、とても紳士なのだ。
「素晴らしい調和だよ。ブラボウ。なるべく早く、ちゃんと設備が整ったところで君達の音楽を聴きたい気分だ」
オルヴァーもそう言って、力強い拍手を送ってくれた。ついほんの少し前まで胡散臭くて腹の立つ奴でしかなかったオルヴァーなのに、拍手と称賛が俺の気持ちを簡単に塗り替えた。我ながら単純だ。
「さあ、飲もうぜ。まだ酒はあるんだろ?」
既に酔っぱらいのクサカが「遅いな、お前は」と笑う。「追い付けばいいんだろ」と答えながら俺はオルヴァーのグラスにも酒を注ぐ。一曲歌っただけであっさりと気分が変わるのだから、我ながら本当に単純だと思うけれど、それすら、もうどうでもいい。酒と、自由と、仲間達に乾杯。
幸い、この場には俺のそんな気持ちに文句をつける奴は誰もいない。多分、今現在だけで考えれば俺はかなり幸せだ。この幸せのためにもう一度、全力で乾杯。気持ちが熱く、強く、高ぶっていた。