目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第4話 十年目 春-Heaven Can Wait-後

 午前一時過ぎに〝こころや〟を出た。それ以上長居してしまうと俺は俺で帰りたくなくなるし、ミイは怒りのあとの不貞寝を通り過ぎて、俺のことを完全に無視し始める。家事のボイコットに加えて、笑顔なし、会話なし。はっきり言って悪夢だ。だから俺は何処に出かけていようとも、午前一時半までには必ず帰路につくことにしている。

家に着いたら、音を立てないように静かに寝室まで行きミイの頭を撫でてやる。寝ているときはかすかに声を漏らす。起きているときはわざとらしく無反応を装ってくるから、そういう時はしばらく続ける。そうすると、我慢できなくなるのか知らないけれど起き上がって、俺の膝の上に乗ってくれる。俺が正しく帰宅さえすれば、花が咲かない限り俺達の平穏は守られるのだ。俺が正しく帰宅さえすれば。

 一応の言い訳をする。俺は正しく〝こころや〟を出たし、すぐ近くにいたタクシーに乗り込み、自宅の地番――三番通りの四十一番――を伝えた。車に揺られているうちに少しまどろんだ。気がつくと、知らない場所にいた。つまり、要するに俺は悪くない。

 誰のものとも分からない、古びた一軒家の前に車は止まっていた。運転席には誰もいない。その代わりなのか、俺の隣に見慣れない男が一人。整った顔立ちと、まるでそれに併せているかのような無造作な長髪の俺よりも少し年上の男で、俺が目を覚ましたのに気がつくなりこう言った。

「調和について話しをしよう」

「本当に今日は何なんだ……いきなり意味が分からない。どうしてそうなる? あんた誰だ」

「僕は君をよく知っているよ。タケシタヒロシ君。僕はオルヴァー・ブルムダール。僕は君の味方だ。だから気軽に、オルさん、とでも呼んでくれたまえ」

「帰らないといけない時間なんだけど」

「真善美、という考え方を知っているか?」

「家で小さな女の子が待ってるんだけど。おい」

「ありのままの姿で在り、尽己の念で他者と接し、他者を敬い感謝する。人として大切にしなければならない、在り方のことだ。在り方が調和すれば全ては上手くいく。しかし逆に、調和の崩壊はあらゆる〝これまで〟の崩壊に他ならない。分かるかな?」

 長髪男、オルヴァーはどうやら俺の声なんかまるで聞こえないらしい。無視して車の扉を開こうとした。びくともしなかった。ロックを解除しようとしてみたけれど、何処を見ても、ドアロック用のノブが見当たらなかった。

「この車は今、とても純度の高い調和を維持している。外から入りこむ余地は無いし、逆に、何かがこぼれ出ることもない。極めて完璧に近い、閉じた世界なんだ」

 つまり、どうすることも出来ないから諦めろ、ということか。

「君はこの街の現状を快く思わない連中がいることを知っているか?」

「知り合いにはいねえな」

「この街はおかしなところだ。君達市民には無秩序と言えるほどに乱暴な自由が与えられ、余った不自由達が行き場を求めているかのように部品達に圧し掛かっている。しかし、僕はこれもまた、世界の一つの在り方だと考えているんだ。一見してバランスが悪く感じられるがしかし、自由と不自由の総量は守られている。君はどう思う?」

「どうとも。そもそもそんなこと考えたこともねえ」

「多くの市民はそうだろうね。だが、今はまだ極めて少ないが、この在り方を疑問視している者どもがいる。僕が話したいのはそのことだ」

「勝手に話せばいいじゃないか。どうせ、それが終わるまで此処から出さないつもりなんだろ? どういう仕組みで出られないかも分からねえけど、なんでもいいんだ。早く終わらせろ」

「奪い合うんだ。街の根幹を。何にしても世界が維持されていくためには調和が必要だ。円は常に閉じられていなければならない。しかし、その形は決して一つではない。もうすぐ、戦いが始まる。つまり、街が誰のものかを決める争いだ」

「勝手にしやがれ。実際そうなったらその時に考えればいいじゃねえか。以上、俺の見解。これで話しは終りか?」

 俺がそう言うと、オルヴァーはいかにも可笑しそうに笑いながら「君がすごく急いでることはよく分かったよ。君の家まで送ろう」と言い、その次の瞬間、俺はもう自分の家の前に立っていた。何が起きたのかなんて、考えるだけ無駄なのだろう。俺の理解の上をいく出来事がとても乱暴にやってきた。それだけのことだ。だから、保留。いつの間にか、昨日までのそれとは雰囲気の違う、暴力的な雨が降り出していた。それに、ミイの怒りの度合いが気になる。玄関先で考え込んでいる余裕なんか、ない。

 慌てて家に入ると、幸いなことにまだミイは不貞寝の段階だったけれど、わざとらしく明かりが灯されたままだった部屋の中央、テーブルの上。いつもはもっと隅に追いやってある俺の植木鉢がどんと置かれていて、何かが起こり始めていることを強く主張していた。

 黒い土から飛び出ていたそれは、間違いなく芽だった。俺の知らないところで、何かが起こり始めている。それは分かった。それしか分からなかったとも言える。今日は最初から最後まで、どうもおかしい。



 ミイは、俺の花がいよいよ活動を開始したことに分かりやすくショックを受けていた。話しかければ言葉に詰まる。歩きながらそこらにぶつかる。思考も停止しているらしく、お粥に砂糖を投入したり、ご飯のおかずが賞味期限の切れたチョコレートだったり。

 気持ちを切り替えよう、と玄関の扉も間仕切りの障子も全部開いて、家の中の空気を目いっぱい入れ替えた。穏やかな陽気の春の午後が街中に広がっていた。風はとてもやわらかかった。まるで、俺達の悲劇的境遇を馬鹿にしているかのような晴天だった。

「ひろくんも寂しい?」

「……当たり前だろ」

「嘘じゃないよね」

「嘘じゃない。植木鉢になんか、目隠ししちまうか」

「大丈夫なの?」

「酔っぱらって投げつけたこともあるけど無傷だったしな。多分、俺が何かしたところで無意味なんだろ」

植木鉢に、手近にあった大きめのタオルをすっぽりとかぶせてやった。真っ白なタオル。かえって視界をちらちらして鬱陶しかったけれど、土から顔を出した小さな芽よりは、まだいくらか心に優しい。

「今日は何処にも行かないの?」

「しばらく何処にも行かない」

「わたしのせい?」

「そんな気にならないだけだよ。それに、俺もミイの傍にいたい」

「いなくなる前にギターが聴きたい」

「別にまだ芽が出ただけで、今日明日いなくなるってわけじゃないんだけど」

「ひろくんの気が変わる前に。そのうちにひろくん、我慢できなくなって遊びに行っちゃう気がする」

 自分でもその可能性を強くは否定出来なかったから、素直に従っておくことにした。今日明日消えることにならなくても、来週消えるかもしれない。勿論それが再来週だったり、ひょっとしたら来月かもしれないけれど。

 俺の知る限りでは、芽が出た、という報告を誰かからされて、そいつがいなくなるまでにかかる時間は平均して三週間。短い奴は三日だったし、長い奴は報告から一年ぐらい粘った奴もいた。つまり、いつになるかは誰にも分からない。


 もしも誰かが僕の願いをかなえてくれるなら 僕は多分こう願うんだ

 何もかも、もう少しだけ、このままで

 雨あがりの道を歩く 気持ちがほんの少し上向く

 また遠く、何処かの空に雨が生まれる 気にしないことにしているんだ

 多分、今日は良い日になるから

 多分、今日は良い気分で終われるから

 少しでもそれを大切にするために 僕は誰かに向けて願うんだ

 何もかも、もう少しだけ、このままで

 朝焼けに向かって歩く 何も怖くないような気がしてくる

 またすぐ後ろ、夜が駆け寄ってきている 忘れることにしているんだ

 多分これから良い事があるから

 きっと僕は今、そこそこ幸せだから

 それだけは忘れたくない だから僕は誰かに向けて願うんだ

 何もかも、もう少しだけ、このままで

 僕よ、君よ、どうかもう少しだけ、このままで


 ミイの小さな手からこぼれる拍手が部屋の中に広がった。俺は立ち上がり、温かな音色を奏でるその手に向けて深くお辞儀する。それから、オープンコードのGを一度鳴らす。俺とミイが一番好きな和音。羽根が生えて何処までも飛んで行けそうな気になる、力強い音色。心配事も何もかも、和音で顔を綻ばせるミイがいれば俺は無視出来る。何も怖くなくなる。最後のその時、ミイに精いっぱいのお別れが言えれば、もうそれで十分なような、そんな気さえしてくる。

「ひろくん、ずっと家にいるならさ、ギターの練習したら?」

「下手で悪かったな」

「そうじゃなくて、きっと、もっともっと気持ち良くなれるから。それで、本当に花が咲きそうになったら、ひろくんが弾ける曲全部、通しで弾くの。それでね、わたしも一緒に歌う。そうしたらきっと……」

「寂しくなくなるな、きっと。それも良いかもな」

「絶対やらないね、ひろくん」

「やるって、だから、気が向いたら」

「誓って」

「誓うよ。ギターを練習して、通しでミイのために演奏する」

「きっとだよ?」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?