*
「咲いた?」
「咲かない、芽も出ない」
「そう、よかった」
よかった、と言いながら少し頼りない笑顔を見せてくれるミイを優しく抱えあげ、痛がらない程度に力をこめて抱きしめる。俺とミイの毎日の日課の一つだ。ミイの目が満足と安心で細まり、俺はその表情に安堵を覚える。新しい一日が正しく始まる、というのは俺たちにとってはそれなりに重大事なのだ。
花が咲く。咲いたら、お別れ。俺達がこの街で抱えている数少ない不自由だ。俺達市民は全員が植木鉢にうずめられた種を与えられていてそれを育てなければいけないことになっている。植木鉢を捨てたり、育成を放棄することは出来ない。物理的には可能かもしれないが誰もそれを試みないし、それが決して行ってはならない禁忌であると理解している。街には幾つかの不可侵の領域があり、花と植木鉢はその最も中枢なのだ。俺たち市民は全員、それを前提として理解しており、それを犯そうという思いすら抱かないように仕組まれている。だから、俺たちも結局のところミイたちと同じ、この街の一部なのだ。街はこうして運営されている。
平均で三年から四年。俺のは九年経っても咲かない。咲く気配も見せない。九年間で随分沢山の友達が入れ替わった。今では市民一番の古株だ。植木鉢から芽が出て、それが育つと赤い花が咲く。咲いたらお別れ。お別れになるとどうなるのかはいまだに咲かない俺には分からない。咲いた連中はそのまま何処かへ居なくなる。街の外に出ることになるのでは、というのが一番の多数説だ。市民である俺たちであっても街として区切られた一定の範囲の中から外へ出ることは出来ない。これも植木鉢、花の問題と同様、この街が俺たちにかけている拘束の一つだ。街は街として定められた空間の中で完結している。街から出る必要はない。だからこそ、咲いたら外へ放り出されてしまうのでは、という想像は的を射ているように思う......あまり考えすぎると、ミイに「顔が怖い」とか「その顔、嫌い」と叱られる。やめておこう。
晴れ。夕刻。外出準備。日課のその二だ。
「いつごろ帰ってくる?」
「なるべく早く」
「もし、遅くなったら?」
「今日はそうだな......何でも言う事聞いてやるとでも誓おうか」
実際のところ、誓いは日常的に破られる。街中で日夜交わされる約束の類と同様、これらは破られることを前提にしているのだ。俺たちが市民で、自由であることをその前提としている以上、仕方がない。俺はそういうことにしている。
友人との待ち合わせが特に無い日は、まず馴染みのバーに行くことにしている。大抵知り合いがいるからそこであれこれ話をする。隙をついてミイの容姿がいかに可愛らしく、そして聡明でもあり愛おしい存在であるのかを自慢する。それか次の場所へ繰り出す相談をする。大体毎日一緒だが俺たちは大体みんな理解しているのだ。変化は、その殆どが俺たちにとっての不幸なのだ。
ついこの間まではそのまま家の中に引き返したくなるぐらい寒気が街全体を覆っていたが今日は随分温かい夕刻。ミイと出会って九回目の冬がもうすぐ終わる。強い風が、どこか遠い空から春を運んでくる。足取りが少し軽くなるのを感じた。
十番通りの中腹にあるバー〝十五番屋〟は俺の一番の馴染み店だ。その名前が示すように、この界隈で十五番目に開業したらしい。レスラーのような体型に丸坊主のマスターが一人でやっている店で、カウンター席が六席と四人掛けのテーブル席がワンセット。つややかなクリア塗装を施された薄暗い色をした分厚い木材板のカウンターには水割り用の上質な水のボトルがずらっと並んでいて、カウンターの奥の棚には原酒の瓶が数種類。棚の横、バックカウンターにはごつごつしていて背の低いグラスがいつも五個か六個重ねられている。年季の入った傷だらけのフローリングが暖色の照明を温かに反射している。実に典型的な小規模のバーで、教科書通りとも言える無個性な作りをしている。バーとはこういうものだ、という誰かの思いでも込められているような店で、その無個性なつくりの集合体が逆に個性的な雰囲気となっている。
いつでも何故か少し湿っているノブに手をかけてドアを開くと、頭上でベルがカラコロン、と鳴り、マスターが「よう」とだけ挨拶をしてくる。お客にへつらったりするタイプの店では無いのだ。一度、それについて話を振ったことがあった。マスターはとても静かに、スイッチを入れたばかりの機械のうなりのような声で「へつらう必要があるほど偉い奴には会ったことがないからなあ」だと。大体合っていると思ったから、文句は言わずに頷いたのを今でもよく覚えている。
三年ぐらい前からは、必ずカウンター席に一人先客がいるようになった。他ですることもないからと毎日開店から閉店まで飲み続けている女で、名前はクサカユウリ。見た目の年齢は俺と同じぐらいで、二十台後半から三十ぐらい。化粧は手抜きだ。あまり興味がないらしい。白金に染めた髪を短くしていて、それとのバランスなのか、真っ黒い服ばかりを好んで着る。誰だろうと構わずに突っかかっていって、喧嘩の売買が生業のような奴だ。
見かけるようになって暫くはあちらこちらと遊び歩いていたし俺もよく一緒に遊んだけれど、すぐにそういう日々に飽きたらしく、クサカは酒びたりの道を選んだ。酔っ払っていないクサカなんてもう覚えていない。街には結構沢山の様子ががおかしい奴がいるけれど、こいつはその中でも際立って変わり者に属すると思う。
「おい、文句あるみたいなツラぶら下げてんなよ。あたしがいるのが嫌なのか?」
「酒、美味いか?」
「美味くはないね。お前は呼吸の度に空気の味を確かめるのか? あたしにとっての酒は……そう、お前にとってのミイちゃんと同じなのだよ。分かるか? タケシタヒロシ」
「理解は少し。同意はしたくない」
「ふむ……まあ、乾杯しようか」
「何にだよ」
「ミイちゃんの健やかな成長……ああ、育たないか。じゃあ、この酒の美味さに」
マスターが俺の前にグラスを用意してくれて、そこにビールを注いでくれる。最初の一杯はビールだ。俺はそう決めている。この店は、常連客から毎度毎度オーダーをとったりしない。
「乾杯っと。お前はなんだかんだと決めごとが多いんだよ。たまには最初の一杯がきついロックでもいいじゃないか。それで花が咲くわけでもない」
「どんな事でも、先に決めておいたほうが楽だ」
「好きにするがいいさ。ミイちゃんは元気かね?」
「おかげさまで、目は相変わらずつぶらだし、髪はつやつやだ。肌のキメも細かい。抱っこすると幸せ過ぎて頭がおかしくなりそうになる......お前と違ってな」
「酔っ払ってて目にクマ作ってて髪はバサバサ、肌もガサガサ。それでも言いよってくる馬鹿はまだ何人かいる。抱かせてはやらんけどな」
この日はあまり良くないことに、クサカとマスターしか店内にいなかった。マスターはクサカの相手をしない殆どしない。慣れているのだ。
「おかわり」
クサカが俺に向けてグラスを突き出す。なんで俺が、なんて言おうものならこいつ独自の理論説明が三十分ぐらい続く。だから大人しく注ぐ。水、酒、水の順番に入れて、かき混ぜて渡してやる。濃いだの薄いだの文句が多い。どうせ文句を言ってくることは分かっているから、最近はわざと特濃にしたり九割方を水にしたりして遊んでやっている。
「おいタケシタヒロシ。いいか? よく聞け。お前はいつまでミイちゃんに縛られる気だ。あと薄い。薄過ぎる。なめてんのか。すぐ足せ」
どうやら今日は、俺に説教をしたい気分らしい。〝いいか、よく聞け“はそのサインだ。二か月に一度くらいこういう日がある。これに出くわした時の俺の対応は一つ。話を聞いているフリをしながら、早く誰か来い、と願いながらドアに念を飛ばすのだ。今日も、まず一回。強く念じる。求む、救援。祈り半ばでクサカに肩を掴まれて、力任せに振り向かされた。
「他所見してないでちゃんと聞け。どうなんだ? どうせ自覚なんかしていないんだろうが。お前はそういう奴だ」
「こうやって飲みに出てきている。縛られているつもりはない」
「お前だっていつか消える。あの子を残して」
「......仕方ねえよ。ミイが可愛いのがいけないんだ。ミイは自分の容姿が可愛らしすぎることを呪うしかない」
「間違いなくお前が呪われるだろうな。おかわり。次はちゃんと作れ。濃すぎるのも駄目だ」
そう言って、クサカはいかにもおかしそうにケラケラと笑いながら俺にグラスをつきつけてきた。ひとつも笑えないのに。
*
待望の救援は、少しずつ包囲を狭めて嬲り殺しにしていくようなクサカ流説教の開始から三十分強。やって来たのは、ここ二年ぐらい俺と一緒に音楽をやっている奴らだった。
百八十ぐらいの上背に痩せた身体をしていて、ちょっと強い風が吹けばぽっきりと折れてしまいそうなのに、ドラムセットに座らせるとその細長い身体全体を使ったアグレッシブなプレイを見せてくれるトシオ君、まるまると太った身体と、偏見かもしれないけれどあまりそれには似合わない繊細かつ力強い指を持つ、ベーシストのダー君、中肉中背、外見上目立ったところがあまり無くて、その埋め合わせのように髪をグリーンに染めているギタリスト、ミカミ。唯我独尊という言葉を一身に背負うような性格を普段から隠そうともしない割にステージの上でだけは紳士で、淡々と奏でるアルペジオや高速のカッティング、ミカミのギタープレイにはいつも歓声や黄色い声が飛び交う。そんな三人。カウンター席の俺とクサカを見てそのまま引き返していこうとしたから慌てて捕まえて座らせた。ようやく来た救いをみすみす逃がしてたまるか。
「勘弁してくださいよ、俺達ただ飲みに来ただけなのに」
三人を代表してミカミが異議申し立てをしてきたけれど、俺の答弁を待たずに「マスター、俺ジンね」なんてオーダーを出していたからそれほど嫌がってもいないことは分かる。だから俺も、それほど申し訳ないとは思っていない。一応、形上のものとして、「悪いな、つきあわせて」とだけは言っておいたが。
「タケシタヒロシ、何をそんなに人を増やしたがっている?」
「気のせいだ」と適当にあしらおうと思ったところでミカミが「面倒くせえんだよな、こいつ」などとわざとらしい挑発行為に出たせいで台無しになった。ちなみにこういう時、トシオ君とダー君は大抵何も言わない。トシオ君は黙々と酒を飲む。ダー君は自分だけの世界にでもいるかのように、丁寧に左手の爪を磨き始める。自分勝手な奴らなのだ。勿論、俺やミカミもその中に含まれる。
自分勝手が四人集まって、俺達。その名も、〝グロウリー〟。俺達は四人で、街では割と知られたバンドをしている。
市民は仕事をしなくて良いことになっているけれど、音楽だとか絵なんかの創作を中心に、趣味で仕事をしている市民は結構な数いる。どうせ金は届く。しくじっても食い詰めることはないから、好きなことを仕事だと言い張って動き回る。少しの金にもならない本を書いたり、欠伸が出るような詩をちんたら朗読したりしている奴は街中のあちこちに生息しているし、俺達と同じようにバンドを組んでライブ活動をしたり、自主制作で音源を発表している奴らも同じぐらい沢山。
飽きられたり、そもそも受け入れられなかった奴はすぐに止めて、元の遊ぶだけの暮らしに戻る。それは街の市民の生活の、一つのスタンダードモデルだ。何かしら始める。しくじる。ふりだしに戻る。幸い、俺達は、気に入ってくれている奴らが結構いるおかげで、続けられている。だからといって、俺達のやっていることが他の連中より優れているとは俺自身思っていない。こんなの、ちょっとしたタイミングと運だ。座布団扱いしかされない絵を描いては街頭で売っている絵描き崩れが街一番の聖人として扱われていた可能性だってある。俺達は、街の中では比較的ツイていた。
「大体お前ら、男ばっかりでつるんでてむさくるしいんだよな。そうだ、今度あたしも一緒にお前らのライブに出てやろうか」
「なんか楽器出来るなら歓迎ってことで」
ミカミが、彼にしては珍しく悪意を感じさせない口調で返答すると、ダー君の爪磨きの手がピタリと止まり、トシオ君が「マスター、おかり」と低い声で呟いた。そんなに嫌かお前ら、と思いながらも俺の気持ちだって同じで、心の底からお断りだ。はっきりと言ってやろう。そうしないと本当に参加しそうだから。
「却下だ、酔っ払い」
「あたしぐらいの天才になれば酒は燃料だ……が、もうそんなことはどうでもいい。その言い方は温厚なクサカさんでもちょっとムカつくぞ?」
「だったら一日数時間でもその酒抜いてみるんだな」
「お前だって酒飲みだろうが。酒が生み出すものは良かれ悪しかれ酔っ払いだ。お前もあたしも同じ。いいじゃないか、それで。そもそものところでお前は自分勝手なんだよ。いいか? ミイちゃんのことだってそうだろう? お前の好きで可愛がっててそれが上手くいってるかもしれないけど、もしいつかお前がいなくなったらって時のことを少しは考えてやるべきなんじゃないのか? いいか、よく聞け。大体お前は……」
思ったよりも面倒くさいことになった。このままだと朝まで続きそうだ。さて、どうするか。そう思った時、助け舟は予想していなかった方角からやってきた。
「そうそう、こんな話聞いたことありますか? なんか、街が少しずつこれから変わっていくんじゃないかって。俺、結構これはシャレにならない噂なんじゃないかって思うんですよ」
言い出したのはダー君だった。愛用の爪やすりをカウンターに置き、放置されていたビールを一口飲んで、おもむろに。ずっと言おうと思ってたんだけど、なんて雰囲気だった。
「八号館が閉鎖になるんじゃないか、とか、街区の設定が変わる、とかいろいろ出てるんすよ、最近。自分でその証拠を見たわけじゃないからはっきりしたことは言えませんよ? 自分でもどうなのかなあそれはって思うし、八号館なくなったら困ると思うんですよね、実際。だから、あんまり信じたくないと思うんですけど」
〝八号館〟は街で一番の大規模劇場で、五つの映画用ホール、四つの演劇用ホールを備えている。入場の混乱を避けるためなのか開演時間をそれぞれずらしているから中途半端な時間に行ってもこれから開演するホールが見つけやすい場所だ。俺も夜の遊び場の一つとして愛用しているし、毎晩暇を持て余した市民で溢れかえっている。
「他にもいくらだって似たような施設はあるしいいんじゃないの、別に。くだらねえ」
寡黙なトシオ君はこういう時だろうとどういう時だろうと押し黙っているのがいつも通りで、その分を埋め合わせるかのように、ミカミがこうやって、何処か喧嘩腰に余計なことを言ってその場に小競り合いの種を落とす。クサカが鋭く反応した。
「緑髪の兄さん、そりゃ良くない。何かが変わるってのはそんな生易しいもんじゃない。例えばお前の仲間の誰かが消えてなくなる、その時にもお前はそうやって、そよ風にでも当たってるみたいな顔してんのか?」
「そういうあんたはちょっとのそよ風でも、嵐だー、避難しろーって大騒ぎするようなタイプか? 面倒くせえ奴だな」
ミカミは基本的にこういう奴だ。クサカもそれを分かっているから、これ以上相手になりたくなかったのだろう。舌打ち一つ残して、黙った。ダー君もきっと状況を判断したのだろう。それ以上その〝噂〟とやらを話すことはなかった。
「ダー坊、あんまつまらねえ話題ふるなよ」
ミカミがそう言い、ダー君は「ごめん……」と頭を下げる。こいつらのパワーバランスはとても分かりやすい。トシオ君は、自分は無関係だと言いたそうな顔つきで「マスター、おかわり」と低い声で呟く。クサカがいかにも機嫌が悪そうにトイレに立ったから、俺は好機到来、とばかりに席を立った。ミカミが「タケさん、ちゃんと持って帰って下さいよ」と文句を言ってきたから「今日は任せた」とだけ言い残して外へ出た。俺がいないところでなら、好きに殴り合いでもなんでもすればいい。
夜の帳が完全に降り切ったこの時間帯、街は暇を持て余した市民で溢れ返っている。一番人が多いのが十一番通り、劇場周辺で、一番タチが悪いのが此処、十番通りだ。数メートル歩けば見知った酔っ払いに出くわす。六割ぐらいは俺に好意的な酔っ払いで、残りは俺に敵意を抱いている酔っ払いだ。俺自身は殆ど何もしていない。俺は酒を飲んだり遊びまわったり、歌を唄ったりミイを可愛がって暮らしているだけだ。なのに、何処かで俺は勝手にリーダーにされていて、また何処かでは打倒すべき街の癌扱いされている。強く、繰り返し主張しておく。俺は何もしていない。何も生み出していないし誰かを扇動したわけでもない。繰り返す。俺は、何も、していない。
「タケさんこんばんはっす!」
何処かで見た覚えのある酔っ払いがわざわざ道の脇まで避けて俺に一礼してきた。仕方がないから「よう、元気か?」と声をかけると、「おかげさまで、元気に遊ばせてもらってます」だと。手を振ってさっさと通り過ぎるしかないのもいつもの事だ。もう馴れたけれど、その馴れによってこの手の連中に鬱陶しさを感じなくなることはない。慕われて嫌な気持ちはしないが、慕われるようなことをした覚えも特にないのだ。
*
十番通り、バー〝十五番〟から歩いて三十分弱。十一番通りの中央にある〝八号館〟に避難した。劇場に入ってしまえば面倒くさい連中に絡まれづらいし、まだ家に帰るには早い。行く場所の候補は他にもいろいろあったけれど、ダー君が言っていた噂が気になった。
入場と退場でそれぞれ四列ぐらい並ばせることが出来る巨大な入口をくぐり、エントランスホールの中央、受付カウンターにいつもいる雑民――通称、入口のニイサン――に共通の入場料を支払う。そうすると、ニイサンが人懐っこい笑顔にちょっと癖のある口調で今から入れるホールを教えてくれる。
「ああ、うん、今なら三番劇場か五番シネマホールなら入れるんでないかと思うのですよ」
「これからだとどうだ?」
「三番が『街に住まう民として』で五番が『きっとまた会える』……これは新作です……あ、五番シネマホール入場終わったそうですので、選択肢なくなりましたのですよ」
「あんま気が乗らねえな。入場料……」
「返せませんですよ! それは規則ですので。タイムスケジュールは左奥のボードに全部書いてあるわけですから、最初に確認しないのが駄目だと思うのですよ。ああ、一時間ぐらい待ってもらえれば一番ホールが入れ替えになりますのですよ」
「そんなに待つ気はねえや。それより、そう、ニイサンに訊きたいことがあったんだ」
「ここが潰れるかもしれないとか何とかはお答え出来ませんですよ! 上から強く言われてるんですよ。絶対に言えませんです!」
どうやら、割と深刻な噂らしい。それだけ分かれば十分だった。ミカミが言っていたように、この街にはまだ幾つも似たような施設があるから無くなればそこに回ればいいだけだ。どうして無くなるのかについて気にはなったけれど、これ以上ニイサンを困らせるのも悪かったから、「それならいいんだ」とだけ言って中へ入った。
*
赤い、どっしりとした絨毯の敷かれた通路をしばらく進む。一番ホール、二番ホールの入口を通り過ぎて三分ぐらい進むと『街に住まう民として』のポスターが貼られた劇場入り口の防音扉が見える。
俺の知る限り、街中でもっとも不人気なコンテンツだ。百人ぐらいしか入らない小さなホールですら半分以上空席のまま開演する。なのに、どういうわけか時折こうして上演される。こんな筋だ。
主人公は若い男だが、市民ではない。彼は街に迫る危機にいち早く気付く。彼は周囲の反対を押し切りそれを世間に公表する。彼は多くの市民から批判を浴び、彼が組み込まれている職場――これは劇場によって違う。バーだったり理髪店だったり雑貨屋だったりする。この劇場ではカジノのディーラーだ――に対する猛烈な不買運動が起こる。商店の主は彼を監禁し、その旨を世間に公表する。彼は暗い地下倉庫に押し込められ、自分とは何か、街とは何かを考え続ける。
此処までが第一場で、この演目が自由市民の人気を獲得出来ない理由だ。構造物の思い上がりだとか、不敬だとか、様々な言葉で批判される。俺も同意見だ。そもそも、実際に街に危機が迫ってくるとしたらそれを市民より先に彼らが知ることなんかあり得ない。街は市民のためにあり、彼らは街の一部として市民のためにある。それは、揺るぎない事実だ。街がそういう形態をとっている。俺達はそういう街に住んでいる。つまり、こんな筋はありえない。だから、これを書いた製作者である構造物氏はシナリオ同様に地下に閉じ込められ今でも街とは何かを考えている、などと囁かれる。
第二場以降は、実際に危機がやってきて―これも劇場次第―男は解放、市民も構造物も関係なく、皆が手を取り合って危機に立ち向かう。大抵の観客は、第一場、男が一人で苦悩する辺りまでを見て、そのまま居眠りを始める。天候が悪い日の雨風しのぎや飲みに出る前の仮眠目的で入る奴が大半なのだ。おそらく今日も同じだろう。
〝八号館〟一階、三番劇場と名付けられた二百人ぐらいを収容出来るホール。俺が席につくとすぐにベルが鳴って入場が停止になった。その段階で七割が空席だった。面倒くさがらずにちゃんとエントランスホールの案内を見れば良かった。そんな反省を胸にしつつ椅子に深く座って腕を組み、居眠りの姿勢をとった。ほどなくして時間になったらしく、幕が開いた。
あまり上手くない俳優だった。台詞がよく聞こえないし、目を閉じていると場面の状況もよく分からない。少しずつ眠気が優勢になっていって結局、第一場の中ほどで眠った。清掃員に揺すられて起きると、もう幕が降りていた。やっぱり入らなければよかった。
*
俺の家は俺がこの街で暮らし始めるよりもずっと以前から残っている木造の小屋だ。電気は一応通っていて、照明だけは電灯を使っているし、必要だから、と電話は用意したけれど、空調も冷蔵庫も無い。その代わりに畳があって、襖があって、障子があって、縁側がある。雑草の伸びきった小さな庭がある。部屋は二つで、ひとつは俺とミイの寝室、もう一つは居間。冬は居間にだけ長火鉢を出す。もっと綺麗なところはいくらでもあるが特別そうしなければいけない理由も見つからなくてずっと住み続けている。これぐらい何も無いほうが落ち着くのだ。
〝八号館〟前からなら、タクシーで一時間と少しで着く。夕方に強かった風はもうおさまっていたけれど、いくらか雲が出てきていた。空気に湿り気が感じられる。明日は雨になるのかもしれない。
それほど遅くもならなかったから、「おかえりなさい」と言うミイの顔にはかすかな笑顔が見て取れた。もう一軒何処かに寄ったりするとこれが怒りの表情になり、明方に帰宅なんかしたら、顔に涙の痕を幾筋も作って不貞寝してたりする。最初に泣きながら眠るミイを見た時はもう二度と外出なんかしない、なんて誓ったことも、そういえばあった。二日ともたない脆い誓いだった。
居間に入るとすぐに、ミイが火鉢を熾してくれた。部屋にゆらりと熱が生まれる。開け放った障子の向こう側、あらゆる雑草の放置されたみじめな庭の風景がその熱で揺らめく。閉めようかどうか少し迷ったけれど、部屋に吹き込んでくる風にはどっしりとした湿り気と季節の変わり目の匂いがあって、ミイはそういうのが好きだったからそのままにしておいた。火鉢があれば開けていてもふるえないくらいには春になっていた。
「もうすぐ雨になるかもしれねえな」
「そうしたらひろくん明日出かけないね。さあ降れ雨、さっさと降れ」
「雨でも出かけちゃうかな、たまには」
「嘘ばっかり」
俺が雨の中を出掛けることはまず、ない。だから、雨が降るとミイが喜ぶ。俺はその喜び様を見て、たまにならいいかと諦める。それからすぐに暗闇がしっかりと覆い尽くしている庭の草木を雨が打つ音が聞こえはじめた。
「明日何して遊ぶ?」
「仕方無いな……なんでも、ミイが好きなことでいいよ」
「わたしもなんでも。ひろくん考えておいて」
「もし夕方になって晴れたら出かけるかもしれないぞ?」
「そんな事したらうるさく泣くから」
*
ミイがお粥を作ってくれたのを二人で食べて、そのあとは特に何をするでもなく庭を眺めて過ごした。手元には酒があって、かたわらにミイがいる。心の中がゆっくりと解きほぐされていく。こういう時間だって、別に嫌いなわけじゃない。
二人で並んで縁側の向こう、雨に包まれている庭があるはずの位置の暗闇を見ながら色々な話をした。どれも、取るに足らないような話題だ。雨が止んだあとの草花のきらめきが好き、とか、そういう話。それら話題からは何も始まらないし、何も終わらない。ただ、安心感の濃度が増す。温かな絆を感じる。俺は、ミイが自分の横――時々膝の上――にいることに安心し、その体温に幸福感を覚える。ミイは、俺の顔に触れる位置にいることを喜び、安心し、俺の不精ひげや少しだけ白髪の混ざっている髪に触れて幸せそうに目を細める。これでいいんだ、と俺は思う。これだけで十分なのに、どうして俺は夕方になると街へ繰り出したくなるのやら、そこらへんは自分でもよく分からない。こんな俺でごめん、ミイ。口には出さないけれど、いつも思っているのだ。嘘ではない。
「大丈夫だよ、わたしひろくんのことちゃんと分かってるから」
「何を分かってるってんだよ」
「遊びに行きたくなっちゃう性格だってことも、それをわたしに、悪いなあって思ってることも全部」
「ミイ……そういうことは分かってても言わないの。性格悪いって思われるぞ?」
「だってひろくん、腐った魚食べたみたいな顔してわたしの頭撫でるんだもん。わたしまで腐っちゃう」
「悪かったっての。本当に、誰に似たんだか知らねえけど意地悪だなお前は」
「多分、ひろくんの内面が伝染してるんだよ。わたし、ひろくん以外の人のことなんかもう覚えてないし」
さて、俺は意地悪なのかどうか。考えても分からないし、俺の交友範囲内の友達はみんな口を揃えて「気づいてなかったの?」とでも言いそうな奴らばかりだからこのテーマは即打ち切りだ。
俺がそうして考えていると、顔一杯に喜色を浮かべながらミイが「嘘だって、ひろくん優しいから好き。そうやって悩んじゃうお人よしなところとか、大好き」と言ってくれた。表現が少し引っかかるけれど、ミイが「好き」と言ってくれるなら、もうそれで十分だ。
「わたし、ひろ君のことほんとうに好きなんだよ。短い髪も、少し高めの鼻も、小さな目も、ちょっとくぐもってる声も、全部」
「俺だって、ミイのことが好きだよ、全部」
「なら唄って。ギターも聴きたい」
「……特別だぞ?」
時々、俺はミイのためだけに歌を唄う。部屋の片隅にある古いアコースティックギター――随分昔にバーでその時の友達に貰った――を手に取り、適当な和音に合わせて、適当な歌を唄う。悲しい歌の時もあるし、明るい、馬鹿げた響きの歌の時もある。気持ち次第だ。ギターが苦手な俺はしょっちゅう音を外す。上手く弦を抑えられずに、ペチ、ペチ、と飛距離の短い音を出す。そうするとミイが喜ぶ。こんな下手くそなギターで客を喜ばせているのなんて、街の中でも俺だけかもしれない。
西から風が吹いてくればみんなが幸せになるなんて言うけれど
さてここで問題だ
西風はどうやって幸せになればいい?
俺は時々悲しむけれど、その分誰かに慰められる
俺は時々喜ぶけれど、たぶんそれも誰かのおかげだ
西風が強く吹く
誰かがどこかで幸せになる
西風が次第に弱まる
意味もなく、なんとかなりそうな気持になっている
西から風が吹いてくればみんなが幸せになるなんて言う
西風は幸せになれないんじゃないか。
そう思った。けれどそうじゃない
多分、誰かを幸せにしている時、西風も幸せだ
そんな綺麗事
そんな自分勝手
全部無視して西から風が強く吹く
唄うのは好きだし、自分で言うのもなんだが歌唱力には自信がある。けれどギターはどうしても苦手だ。手が大きいわけでもないし、何度も同じフレーズをちまちま練習したりするのが性格に合わない。それを俺は楽しいとは思えない。だからまるで上達しない。なのにミイはどういうわけか俺の下手くそなギターが聴きたいらしく、いつも「うたって」の後には「ギターも……」が続く。何度か拒否したら、その要求が通り易いタイミングを的確に見計らってくるようになった。ミイはとても意地悪で、とても頭が良いのだ。