幾つかある窓の全てに板が嵌めこまれ、部屋の四隅には、小さなランプが灯されている。集まっている十数人は皆一様に口を固く閉じ、その視線を部屋の中央に座る一人に注いでいる。誰ひとりとして目線を外す人間はいない。この部屋、この場にはとにかく多くの約束事がある。部屋の広さ、ランプの明るさ、使う油。始まる時間と終わる時間。何もかもが、厳密に定められている。
中央に座っている男が儀式の対象で、主役。周囲をとりまく十数人は見送り。座る男の手には、赤い花が一輪。やがて男は立ち上がり、花を捧げる姿勢をとる。そのまま七分間の制止。痛みを感じるほどの静けさが通り過ぎていく。七分間を計る役目を与えられている人間が、時間が来たのを確認して、手元でかぁん、かぁん、と鐘を七回鳴らす。七回目の響きが周囲の静寂に吸い込まれると同時に見送りの全員から惜しみのない拍手が溢れだす。中央の男は立ち上がり、一同に深くお辞儀をする。そして、赤い花を、その一同の中で一番仲の良い人間に手渡す。それで儀式は終わりだ。儀式には〝オクリバナ〟と名前がつけられている。オクリバナ。別れの儀式。
*
幾つかある窓の全てに板が嵌めこまれ、部屋の四隅には、小さなランプが灯されている。集まっている十数人は皆一様に口を固く閉じ、その視線を部屋の中央に座る一人に注いでいる。誰ひとりとして目線を外す人間はいない。この部屋、この場にはとにかく多くの約束事がある。部屋の広さ、ランプの明るさ、使う油。始まる時間と終わる時間。何もかもが、厳密に定められている。
中央に座っている男が儀式の対象で、主役。周囲をとりまく十数人は見送り。座る男の手には、赤い花が一輪。やがて男は立ち上がり、花を捧げる姿勢をとる。そのまま七分間の制止。痛みを感じるほどの静けさが通り過ぎていく。七分間を計る役目を与えられている人間が、時間が来たのを確認して、手元でかぁん、かぁん、と鐘を七回鳴らす。七回目の響きが周囲の静寂に吸い込まれると同時に見送りの全員から惜しみのない拍手が溢れだす。中央の男は立ち上がり、一同に深くお辞儀をする。そして、赤い花を、その一同の中で一番仲の良い人間に手渡す。それで儀式は終わりだ。儀式には〝オクリバナ〟と名前がつけられている。オクリバナ。別れの儀式。
街〟で暮らすに至ったその始まりを紹介しておく。
足元一杯に、赤い花が咲き乱れていた。何処だかは分からない。何処かにある、何処かだ。宵闇の迫る路地裏のような薄暗さのある場所だった。そこに、目が痛くなるほどの赤で染め上げられた造りものの花束を持った髪の長い女の子がいた。それが、始まりだ。
周囲にはその女の子しかいなかった。身体がそのまま固まってしまいそうなほどの冷たい風が吹いていた。辺り一面は悲しく、苦しい空気に覆いつくされていた。
「その花は何?」
俺はそう訊いた。その場所についてよりも、周囲の状況についてよりも先に、花について訊いた。まるで、そうしなければいけないことが決まり切っていたかのように。実際に決まっていたのかどうかは知らない。とにかく、訊いた。
「咲いたら、お別れ」
女の子はそう答えた。七歳から十歳ぐらいの女の子で、黒い髪を無造作に長くしていた。大事そうに花束を抱えていた。その目は何処か遠くの何かを見つめ続けていた。
「貴方にもあげるわ。一応、ルールだから。花はね、不自由の象徴なの。貴方にも今のところその鎖は繋がっている。その証拠」
そう言いながらも何もくれないまま女の子は俺に背を向け、薄暗い空間の、その中でもより暗い方へと歩いて行ってしまった。悲しそうな声だった。悲しそうな背中が、薄闇の中へと溶けていった。呼びとめたけれど、無視された。俺は一人、その花だらけの世界に置き去りにされた。それが始まりだ。十年前。
気がつけば俺は街の住民だった。自分の家があって、自分の服、自分の寝床、自分の金、自分の酒。当たり前のように、それらは全部揃って手元にあった。俺は、もう何か月も干されていないのであろう、湿った布団にくるまっていた。
十年前、今でも感触を思い出すと少し汗が出る、叫び出したくなるような感覚。全てが嘘であるような、締め付けられるような恐怖。周囲を見渡して自分の掌を確認。寝床を蹴るようにして立って、駆け足で便所の鏡まで行った。顔を洗った。鏡に映る自分の顔を見た。俺だった。俺は、〝街〟に住んでいて、花が咲くまでの自由を持っている。違和感は次第に消えた。俺は俺だ。十年経っても覚えている。赤い花、女の子、咲いたらお別れ。
*
通りに軒を連ねる劇場から人々がどっさりと吐き出されると、待ちかまえていたタクシー達が嬉しそうに目を覚まし始める。色街に向かう人間もいるし、シックなバーに一杯ひっかけに行く連中も少なくない。一番人気はカジノの一帯だが、この時間帯に勇んで向かうと満員で入れないこともあるから、選択肢は単純なようでいて、実はそうでもない。
無数のタクシーが、そんな行き場に迷う人々を詰め込んでは何処かへと運んでいく。この街の宵の口、日常の光景。それ自体が一つの生命体の蠢きのようですらある。
劇場近くでは、毎晩、路上ライブが開かれる。ヴォーカリストがシャウトをあげ、そのすぐ後を、ギターがジャリジャリのディストーションサウンドで追いかけ、周囲のざわめきが乱暴に切り拓かれていく。群がる酔っぱらい達が「おおおおおおおおお!」と大声の束で応戦する。その群れを蹴散らそうと、タクシーがいかにも忌々しそうにクラクションをばぁん、ばぁんとぶつけ、繰り返しパッシングする。それを受けて、人々は仕方なさそうに道を譲る。酔っぱらっていても、自動車と肉弾戦をやったら負けるぐらいのことは分かっているのだ。タクシーも、酔っぱらい達も、路上バンドも皆、この程度の騒ぎは慣れっこなのだ。
見た目だけで言ってしまえば、〝街〟は別に何のおかしなところもない、普通の街だった。家々があって、道があって、電線や電柱がある。カジノやらバーやらの遊興施設が固まっているエリアや、各種商店、警察、消防、病院。必要なものが一通り揃っている普通の街だ。
巨大な方形をしていて、東西に延びる数字の振られた大通りによってエリアが分けられている。一番から三番が居住区、四番から七番が商業区、八番は消防、警察、その他の公共施設で、九番が遊女を置く店のエリア、十番がカジノとバー、十一番と十二番が劇場やライブハウス、映画館。端から端まで歩いたら丸一日では足りない。
移動の足は各地を巡回するタクシーと、通りをゆっくりと往復するバスだ。タクシーなら街の端から端まで大体六時間、バスは各通りの東西の外れからその通りの中心までそれぞれ約四時間半。街全体の取り決めで、自分の車を持つことは禁止されていて、金を使い過ぎてタクシー代を勿体ないと感じる奴だけはバスを使うけれど、そんな奴、少数派だ。大体皆、タクシーに毎日乗る。だから、夜遊びのピークタイムにはそこら中の道がタクシーでびっしりと埋め尽くされて、歩くのにも不便するような有様になる。たまに、タクシー数十台の隙間に押し込められたバスが断末魔のようなクラクションを鳴らし、諦めのため息のようなエアブレーキの音をこぼしていたりもする。少し騒々しいだけで、何処にでもある普通の街だ。すぐに馴れる。馴れた頃には自分自身も喧騒の一部だ。この街で生活をするとは、つまりそういうことなのだ。
この街の住民には、二種類ある。
俺が所属しているのは〝市民〟と呼ばれる群れで、仕事も何もしないで遊んで暮らしていればそれでいいことになっている。金は月に一回、毎日遊び歩くのに十分な額が何処からともなく運ばれてくる。税金をとられることもない。街に飼われていると言えなくもないかもしれないが、際限なく自由だ。何をしても怒られないし、何もしなくても良い。
もう一方がそれ以外だ。構造とか仕組みとか、雑な呼ばれ方をしている。年中休まず仕事をして、俺達を養ってくれている集団。街に住む人の七割方はこちらの群れだ。連中も一応は幾らかの賃金を得るらしいが、どれだけ金を貯め込んでもいつの間にか何処かへ消え失せる仕組みになっているらしい。タクシーもバスも、その他商店も全部、働くのは彼らで使うのは俺たちだ。彼らには自由に遊びに出る権利もなければ、好きな物を好きなように食べる権利もない。必要最低限の衣食住が街から用意され、それ以外を使用することは出来ない。自分の勤めるエリアから外へ出ることすら出来ない。何かの弾みで市民になれたりすることも無い。
連中は市民のために街中の不自由を被る存在で、何かしら事が起これば、どんな状況だろうと悪いのは彼らだということになる。あらゆる仕事が押しつけられているから当然、警察も彼らで、彼らはいつでも自分たちに不利な裁定を当然の業務として行う。市民側の過失は認定されず、市民の故意、悪意は薄暗い宵闇の奥深くに投棄される。この在り方が正しいのかどうか俺には分からないし似たような考え方の奴も少なくはない。市民の思想や考え方を強制するルールはこの街にはない。街に疑問を抱くのも自由だ。無論、街はそのような疑問になんら影響されることなく日々、とても機能的に運営されていく。
そういう街で十年、俺は街の仕組み、構造の一部である女の子と一緒に暮らしている。街では、こうして市民が街の用意した子供を〝飼う〟のがスタンダードらしい事はその女の子と生活をするようになった後で知った。ミイ、という名前の女の子。俺にとって、他の何よりも大切な存在なのだ。飼う? 馬鹿げた言葉だと思う。
十年前、違和感の夜もミイは隣にいた。俺が慌てて便所に駆け込んで鏡を覗き込んでいたら起きてきて「ひろくん、怖い夢?」なんて声をかけてきた。多分混乱していたのだ。「誰だ?」と俺は言った。「ひろくん、酷い」なんて言われて、それから「泣くよ?」と言われた。
雰囲気が赤い花の女の子と少し似ていた。物悲しそうな目をしていて、黒髪を長く、無造作に伸ばしている。見た目の年齢は大体八歳から十歳ぐらい。小さな体で、いかにも子供っぽい言葉づかい。すぐに思い出せて、慌てて抱きしめた。
「ごめん、ミイ、ごめん。どうかしてた」
「大声で泣く準備、してたのに」
「悪かったって」
今でもミイは十年前と変わらずに傍にいてくれている。仕組みは分からないけれど、彼らは年をとらない。老化もしない。成長もしない。病気も怪我もしない。街の構造物の時間の流れなんか関係無く、ミイはずっと、十年前に抱きしめたミイのままだ。俺は十年で白髪も増えたし、肌も乾いた。ミイに、事あるごとに「仕方がないおっさんだもんねー」なんて言われるようになった。
小さなミイ。ずっと、これからも小さなミイ。俺がいようといなかろうと関係無く、ミイはミイであり続けるのだ。それはおそらくこの街があり続ける限り。