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「えぇ〜と、つまり、交通事故のショックで記憶喪失になった私を、体の方が自分だと認識できなくなっちゃってるってこと?」
膝の上にちゃっかり居座ったシリウスを撫でながら、理莉はストレッチャーの上に寝かされた自分の体に視線を向ける。
一時処置が終わったのか、救急隊員の合図でストレッチャーが移動を始めると、救急車の中から聞こえ始めた心電図モニターの音に、自分はまだ死んでいないのだと、理莉はほっと胸を撫でおろした。
ただ、同時に疑問が沸き上がる。とても重要で大切なことだ。
「あの…ですね?シリウスくん。私、自分の名前もわかるし、記憶喪失ってのとは、ちょっと違うんじゃないかなぁ…なんて、思うんだけど……」
名前どころか年齢も、なんだったら、先週やらかした期末試験の点数だって覚えている。
果たして、これは記憶喪失と呼べるのだろうか?
そもそも、記憶を失った実感がないのに、記憶を取り戻せとは、無理難題にも程がある。
ところが、そんな戸惑いには興味がないとばかりに、シリウスは伸びをして目を細めると、今度はここを撫でてとばかりに、ゴロンとお腹を上に向けた。
「う~ん、記憶喪失っていっても、名前とか、そおいうんじゃないんだよ。えっとね、なんていうかぁ…あ…わぁ~ソコ、気持ちいい~」
「ココ?」
「うん…そう。そこ…つまり、“理莉ちゃんが理莉ちゃんであるための記憶”っていうか…ソコ…なんだよね」
「私が私?名前じゃなくて?」
「ぅん。まあ。その記憶がないと、理莉ちゃんじゃないっていうか……」
「……」
――なんだか、さっぱり、わからない……。
思考に理莉の手が止まる。もっと撫でてと、シリウスが鼻を鳴らすけれど、再開される気配はない。
シリウスは残念そうに首を起こすと、
金色の瞳に、不安そうな自分の顔が映っていた。
雪降るこの街並みのように、白いベールに包まれて滲む、
こうなって初めて、自分の
きっと、もう、この瞳以外に、今の自分を映し出すものは、何もない。
シリウスだけが、理莉の存在を示す、唯一の証明であり、焦点だった。
それだけで、話してくれた事が全て嘘だろうと、シリウスを信じようと思えた。
理莉はゆっくり口角を上げると、ほんの少し目元を細め、金眼の中に笑顔を作る。
「わかった!……まぁ、よくわかんないケド、とっても大事な記憶ってことで!それを思い出せばいいんでしょ?」
「そうそう!」
シリウスは褒めるように数度、理莉に頬ずりをすると、膝の上から、ひらり…飛び降りた。
救急車が動き始めたことに気づくと、理莉のスカートの端を咥え、早く早くと引っ張る。
肉体と魂が離れるのは生命の存続にかかわる。それは、時間だけでなく距離もそうだ。
再び響き始めたサイレンの音に
突然、その場に縫い付けられたように、理莉の足が拘束される。
「ええっ⁉やだぁーー!もおっ!今度は何い⁉」
足元を見ると、理莉から伸びた影に、一本の光る
物質的な支配を超えたプシュケー(霊魂)には、出来るはずのない影。
明らかに異質なソレは、真夏に焼き付けられた影よりも遥かに濃く、黒く、直下の路面に張り付いている。その漆黒を、決して逃すまいと、光の粒子を発しながら刃身が深く、一層深く強引に
影が、苦痛に波打つ。直後、誰ともわからない絶望が、理莉の中に沸き上がった。
恐怖、悲嘆、憎悪。この世の、ありとあらゆる負の感情が
「あぁああああーーーーーっ‼‼」
「このっ!ストーカーめっ!理莉ちゃんを離せっ‼‼」
異変に気付いたシリウスが全身の毛を逆立て飛び掛かる。輝く刀身に噛みつき、引き抜こうと牙を食いしばる。
だが、刃は微動だにしない。それどころか、シリウスの体が何かに引っ張られ始めた。
唸り声を上げ
極限まで引き延ばされたゴムの
支点。それは、救急車の中に横たわる、未だ意識のない理莉の体だ。
「理莉ちゃん!理莉ちゃんっ!理莉っ!」
『あああああああーーーーっ‼』
豪風に雪が乱れ飛ぶ。
ゴウッ……と、音を立てたかと思うと、瞬く間にその白銀の子犬の姿が掻き消された。
複雑に絡み合う感情の渦の中で、それでも理莉は必死に意識を保ち、叫び、追い、
――待ってっ!
――おいて行かないで!!
――ひとりにしないでっ!!
返事はない。この世界に一人だけ。心を蝕む淋しさに、理莉はひざを折ると、その場に
影を捕えた聖なる刃は、尽きることなく輝きを増していく。
すべてを尊き光で塗りつぶしながら、ありとあらゆる全ての境界を曖昧にし、そして世界を閉じていく。
世界は闇。
白い、――闇なのだ。
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「……で、今に至る。と…」
優雅に紅茶を一口飲むと、海斗はティーカップを音も立てずソーサーに置いた。
顔を上げて、真正面に座っている理莉を見つめると、ニコリ…、穏やかな笑みを浮かべる。
だが、ゴクリ…。理莉は生唾を飲み込んだ。
だって、海斗のこめかみに、先ほどより見事な青筋が立っている。
――超コワい………
その、あまりの居心地の悪さに、つい愛想笑いを返してしまった。
それが、とにかく、良くなかった。
ガタンッッ!!ガタガタッ
ガシャーーンッッツ!!!!
大きな音が響いたかと思うと、理莉の目の前のテーブルが真横に吹っ飛んだ。
「だから、今の今まで、“異世界スローライフ”とやらを、楽しんでいたとっ!そう言いたいんだなっ?お前わ!!ふざけんなあっっ!!!!」
「ひぃいいっ!!ごめんなさいっ!!!!」
「うるっせえっ!このバカッ!その花が咲いてる脳みそに、今すぐ除草剤撒いてこい!!」
「ごめんなさいぃいっっ!!」
理莉が慌てて倒れたテーブルの影に避難すると、お気に入りのティーカップが、割れて足元に転がっているのが目に入った。ジワリ…涙がにじむ。
――やだっ!もう、怖いっ!!このヒトってば、怖すぎるっ!!
思い返せば、海斗は子どもの頃から暴君だった。
小学校では、理莉のお気に入りの文房具とかヘアゴムとか取り上げるし、給食のおやつなんか、毎回貢がされていた。
頭の出来は決定的にあちらのほうが上等なので、中学校は絶対に近所の公立なんかに通わないと思っていたのに、なぜか3年間も同級生だったうえに、今は同じ高校で毎日一緒に登校までしている。しかも、海斗のカバン持ちというオプション付きだ!
心底、お関わり合いになんてなりたくないのに、なぜかこの年になっても、まだ幼なじみなんかをやっている。
なぜ?
どおして!?
腐れ縁なんてあんまりだっ!!
理莉の目から、ついに涙がポロポロと零れ落ちる。
確かに、いろいろ忘れていたのは良くなかったと思う。でも、今の今まで、異世界にいることを、疑問にすら思わないなんて、そんなこと、ありえるのだろうか。
絶対に何かがおかしい。普通じゃないのだ。
そんな理不尽をわかってくれない。わかろうともしない。
責めて怒鳴るばかりの幼なじみに、理莉はだんだん腹が立ってきた。
「早く思い出せっ!このバカッ!」
「……ぅうう~、うわぁあああ~~~~~んっっ!!!!」
床の上に突っ伏して、理莉が泣き叫ぶ。ギクリと海斗が一瞬怯んだ。
「な…っ、泣くなバカっ!!泣いたって何ともなんねぇんだよっ!!!!」
「バカばか言わないでよっ!バカっ!!…かっ、海斗くんのっ…バカあっ!!!!」
「俺わバカじゃねえ~っっ!!」
「そ、そんなコト、言われたってねえ!…わたっ…私っが…私である記憶なんて、…わ、わかんないよ…だって、わ、私だって…もぉ、何がなんだか…う…、うわぁあああああ~~~~っっ!!!!」
「……ああ゛~~っ!めんどくせえなあッ!」
海斗にとっても理莉は幼なじみだ。こうなったら理莉が泣き止むまでどうにもならないことを、海斗も経験上よく知っている。
その時だった。
背後から、場の空気など意に介す素振りすらない、妙に朗らかな声が室内に響く。
「リリ
シルバーグレイの髪をした10歳くらいの男の子が、玄関の扉の前に立っている。