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3.Terminus(テルミヌス)

••✼••


「えぇ〜と、つまり、交通事故のショックで記憶喪失になった私を、体の方が自分だと認識できなくなっちゃってるってこと?」


 膝の上にちゃっかり居座ったシリウスを撫でながら、理莉はストレッチャーの上に寝かされた自分の体に視線を向ける。

 一時処置が終わったのか、救急隊員の合図でストレッチャーが移動を始めると、救急車の中から聞こえ始めた心電図モニターの音に、自分はまだ死んでいないのだと、理莉はほっと胸を撫でおろした。

 ただ、同時に疑問が沸き上がる。とても重要で大切なことだ。


「あの…ですね?シリウスくん。私、自分の名前もわかるし、記憶喪失ってのとは、ちょっと違うんじゃないかなぁ…なんて、思うんだけど……」


 名前どころか年齢も、なんだったら、先週やらかした期末試験の点数だって覚えている。

 果たして、これは記憶喪失と呼べるのだろうか?

 そもそも、記憶を失った実感がないのに、記憶を取り戻せとは、無理難題にも程がある。

 ところが、そんな戸惑いには興味がないとばかりに、シリウスは伸びをして目を細めると、今度はここを撫でてとばかりに、ゴロンとお腹を上に向けた。


「う~ん、記憶喪失っていっても、名前とか、そおいうんじゃないんだよ。えっとね、なんていうかぁ…あ…わぁ~ソコ、気持ちいい~」

「ココ?」

「うん…そう。そこ…つまり、“理莉ちゃんが理莉ちゃんであるための記憶”っていうか…ソコ…なんだよね」

「私が私?名前じゃなくて?」

「ぅん。まあ。その記憶がないと、理莉ちゃんじゃないっていうか……」

「……」


 ――なんだか、さっぱり、わからない……。


 思考に理莉の手が止まる。もっと撫でてと、シリウスが鼻を鳴らすけれど、再開される気配はない。

 シリウスは残念そうに首を起こすと、うつむく理莉の顔を覗きこんだ。その気配に、理莉もシリウスをじっと、見つめ返す。


 金色の瞳に、不安そうな自分の顔が映っていた。

 雪降るこの街並みのように、白いベールに包まれて滲む、不明瞭ふめいりょうはかない姿。

 こうなって初めて、自分の不確ふたしかさを目視する。


 きっと、もう、この瞳以外に、今の自分を映し出すものは、何もない。


 シリウスだけが、理莉の存在を示す、唯一の証明であり、焦点だった。

 それだけで、話してくれた事が全て嘘だろうと、シリウスを信じようと思えた。


 理莉はゆっくり口角を上げると、ほんの少し目元を細め、金眼の中に笑顔を作る。


「わかった!……まぁ、よくわかんないケド、とっても大事な記憶ってことで!それを思い出せばいいんでしょ?」

「そうそう!」


 シリウスは褒めるように数度、理莉に頬ずりをすると、膝の上から、ひらり…飛び降りた。

 救急車が動き始めたことに気づくと、理莉のスカートの端を咥え、早く早くと引っ張る。

 肉体と魂が離れるのは生命の存続にかかわる。それは、時間だけでなく距離もそうだ。

 再び響き始めたサイレンの音にかされるように、慌てて理莉も立ち上がると、自分の体に置いて行かれまいと、駆けだした、瞬間だった。

 突然、その場に縫い付けられたように、理莉の足が拘束される。


「ええっ⁉やだぁーー!もおっ!今度は何い⁉」


 足元を見ると、理莉から伸びた影に、一本の光るやいばが刺さっていた。

 物質的な支配を超えたプシュケー(霊魂)には、出来るはずのない影。

 明らかに異質なソレは、真夏に焼き付けられた影よりも遥かに濃く、黒く、直下の路面に張り付いている。その漆黒を、決して逃すまいと、光の粒子を発しながら刃身が深く、一層深く強引に捻子込ねじこまれた。瞬間だった。

 影が、苦痛に波打つ。直後、誰ともわからない絶望が、理莉の中に沸き上がった。

 恐怖、悲嘆、憎悪。この世の、ありとあらゆる負の感情があふれ出し、絶叫が頭の中に響き渡る。


「あぁああああーーーーーっ‼‼」

「このっ!ストーカーめっ!理莉ちゃんを離せっ‼‼」


 異変に気付いたシリウスが全身の毛を逆立て飛び掛かる。輝く刀身に噛みつき、引き抜こうと牙を食いしばる。

 だが、刃は微動だにしない。それどころか、シリウスの体が何かに引っ張られ始めた。

 唸り声を上げこらえるも、ついに口から刃が離れ、シリウスの体が大きく宙を舞う。

 極限まで引き延ばされたゴムの端点たんてんが、元の位置に戻ろうとするように、弾性力の支点に強制的に引き戻される。

 支点。それは、救急車の中に横たわる、未だ意識のない理莉の体だ。


「理莉ちゃん!理莉ちゃんっ!理莉っ!」

『あああああああーーーーっ‼』


 豪風に雪が乱れ飛ぶ。

 ゴウッ……と、音を立てたかと思うと、瞬く間にその白銀の子犬の姿が掻き消された。

 複雑に絡み合う感情の渦の中で、それでも理莉は必死に意識を保ち、叫び、追い、すがる。


 ――待ってっ!

 ――おいて行かないで!!

 ――ひとりにしないでっ!!


 返事はない。この世界に一人だけ。心を蝕む淋しさに、理莉はひざを折ると、その場に居竦いすくまった。

 影を捕えた聖なる刃は、尽きることなく輝きを増していく。

 すべてを尊き光で塗りつぶしながら、ありとあらゆる全ての境界を曖昧にし、そして世界を閉じていく。


 世界は闇。

 白い、――闇なのだ。


 ✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼


「……で、今に至る。と…」


 優雅に紅茶を一口飲むと、海斗はティーカップを音も立てずソーサーに置いた。

 顔を上げて、真正面に座っている理莉を見つめると、ニコリ…、穏やかな笑みを浮かべる。

 だが、ゴクリ…。理莉は生唾を飲み込んだ。

 だって、海斗のこめかみに、先ほどより見事な青筋が立っている。


 ――超コワい………


 その、あまりの居心地の悪さに、つい愛想笑いを返してしまった。

 それが、とにかく、良くなかった。


 ガタンッッ!!ガタガタッ

 ガシャーーンッッツ!!!!


 大きな音が響いたかと思うと、理莉の目の前のテーブルが真横に吹っ飛んだ。


「だから、今の今まで、“異世界スローライフ”とやらを、楽しんでいたとっ!そう言いたいんだなっ?お前わ!!ふざけんなあっっ!!!!」

「ひぃいいっ!!ごめんなさいっ!!!!」

「うるっせえっ!このバカッ!その花が咲いてる脳みそに、今すぐ除草剤撒いてこい!!」

「ごめんなさいぃいっっ!!」


 理莉が慌てて倒れたテーブルの影に避難すると、お気に入りのティーカップが、割れて足元に転がっているのが目に入った。ジワリ…涙がにじむ。


 ――やだっ!もう、怖いっ!!このヒトってば、怖すぎるっ!!


 思い返せば、海斗は子どもの頃から暴君だった。

 小学校では、理莉のお気に入りの文房具とかヘアゴムとか取り上げるし、給食のおやつなんか、毎回貢がされていた。

 頭の出来は決定的にあちらのほうが上等なので、中学校は絶対に近所の公立なんかに通わないと思っていたのに、なぜか3年間も同級生だったうえに、今は同じ高校で毎日一緒に登校までしている。しかも、海斗のカバン持ちというオプション付きだ!


 心底、お関わり合いになんてなりたくないのに、なぜかこの年になっても、まだ幼なじみなんかをやっている。


 なぜ?

 どおして!?

 腐れ縁なんてあんまりだっ!!


 理莉の目から、ついに涙がポロポロと零れ落ちる。

 確かに、いろいろ忘れていたのは良くなかったと思う。でも、今の今まで、異世界にいることを、疑問にすら思わないなんて、そんなこと、ありえるのだろうか。

 絶対に何かがおかしい。普通じゃないのだ。


 そんな理不尽をわかってくれない。わかろうともしない。

 責めて怒鳴るばかりの幼なじみに、理莉はだんだん腹が立ってきた。


「早く思い出せっ!このバカッ!」

「……ぅうう~、うわぁあああ~~~~~んっっ!!!!」


 床の上に突っ伏して、理莉が泣き叫ぶ。ギクリと海斗が一瞬怯んだ。


「な…っ、泣くなバカっ!!泣いたって何ともなんねぇんだよっ!!!!」

「バカばか言わないでよっ!バカっ!!…かっ、海斗くんのっ…バカあっ!!!!」

「俺わバカじゃねえ~っっ!!」

「そ、そんなコト、言われたってねえ!…わたっ…私っが…私である記憶なんて、…わ、わかんないよ…だって、わ、私だって…もぉ、何がなんだか…う…、うわぁあああああ~~~~っっ!!!!」

「……ああ゛~~っ!めんどくせえなあッ!」


 海斗にとっても理莉は幼なじみだ。こうなったら理莉が泣き止むまでどうにもならないことを、海斗も経験上よく知っている。

 その時だった。

 背後から、場の空気など意に介す素振りすらない、妙に朗らかな声が室内に響く。


「リリねえ、コイツ誰?リリ姉の彼氏?」


 シルバーグレイの髪をした10歳くらいの男の子が、玄関の扉の前に立っている。


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