「ユグドラシルがあなたを呼んでいます」
銀髪のエルフの少女、アウローラの言葉に、カンガエロは深い意味を感じていた。王立魔術研究所での実験の後、彼女は突如として姿を現し、世界樹への導きを告げたのだ。
「私も同行させていただけないでしょうか」
リュシアが声を上げる。彼女は、カンガエロの研究に深い関心を示し、常に新しい発見を求めて質問を投げかけてきた好奇心旺盛な少女だった。アテナイでの弟子たちとは異なり、彼女の問いには純粋な探究心が宿っている。
「賢者様の同行者として」と、リュシアは付け加えた。
アウローラは一瞬、厳しい表情を浮かべる。エルフの聖域に他者を導くことは、厳格に制限されている。しかし、この少女の眼差しに宿る純粋な探究心、そしてカンガエロの同行者としての立場を見極めた上で、アウローラは判断を下した。
「カンガエロ様に同行する者として、あなたを受け入れましょう」
その声には、古の知恵を受け継ぐエルフの巫女としての威厳が込められていた。
エルフの森は、カンガエロの知るいかなる場所とも異なっていた。巨木の幹に沿って螺旋を描くように伸びる街路。木々の枝に溶け込むように作られた建物。そこに暮らすエルフたちは、魔力を支配するのではなく、対話するかのように扱っている。
村の奥へと進むにつれ、空気が変わり始めた。魔力が濃密になり、まるで水流のように渦を巻いている。そして、ついに彼らは目的地に辿り着いた。
巨大な世界樹、ユグドラシル。その幹は天空へと無限に伸び、頂は雲の彼方にまで達しているかのようだ。幹の表面には無数の文様が刻まれ、それは魔力の流れに呼応するように微かに光を放っている。まるで世界の歴史そのものが、樹皮に刻み込まれているかのようだった。
根元からは巨大な根が大地を這い、その一本一本が大河のような太さを持つ。根と根の間には深い渓谷が形成され、そこには淡い光の霧が漂っている。魂の欠片だろうか、その霧の中を光の粒子が静かに舞っていた。
幹から伸びる枝々は、まるで空間そのものを編み上げるように広がっている。葉の一枚一枚が星のように輝き、風に揺れるたびに神秘的な音色を奏でる。それは単なる木の葉擦れではない。まるで無数の魂が囁きあうような、深遠な響きだった。
カンガエロは、不思議な懐かしさを覚える。この感覚は...。
「そうです」アウローラが静かに告げる。「これこそが『英知の反響』の源。賢者たちに与えられた、ユグドラシルとの対話の力なのです」
「カンガエロよ」
厳かな声が響く。その瞬間、カンガエロの意識がユグドラシルの深みへと導かれる。そこで彼は見た。アテナイの法廷に立つソクラテスの姿を。
陪審員たちの前で、ソクラテスは毅然と語っている。若者たちを惑わすという告発に対し、むしろ彼らの魂を目覚めさせようとしたのだと。既存の価値観を疑い、真理を追究することこそが、人間の務めであると。
そして、死刑の判決。逃亡の機会があったにもかかわらず、ソクラテスは毒杯を仰ぐ。最期まで真理を探究する姿勢を崩すことなく。
記憶が、カンガエロの内に深く刻まれていく。
「吟味のない生活は、人間にとって生きるに値しない」
ソクラテスの最後の言葉が、法廷に響き渡る。それは単なる死への覚悟ではない。人間として真に生きることの意味を問う、厳かな宣言だった。
カンガエロの心に、アテナイでの最期の場面が蘇る。弟子たちに殺された瞬間、彼の魂はユグドラシルに取り込まれた。通常であれば、それは完全な分解と再生の過程を辿るはずだった。
しかし、魂は分解されることなく保たれた。プラトン、アリストテレス、そして多くの探究者たちの意志により、特別な形で編み直されたのだ。それは、真理の探究という使命を、この世界で継承するために。
カンガエロは、世界樹を見上げる。アテナイでの教えは、確かに限界を持っていた。しかし、この世界には新たな可能性がある。エルフたちが実践するような、世界との対話としての知。『英知の反響』という、魂と魂が響き合う理解の形。
「私には、まだ多くの無知があります」カンガエロは静かに語った。「しかし、それを認識し、乗り越えていくことこそが、真理への道なのだと理解しました」
リュシアの瞳が、知への純粋な憧れを宿したまま、輝いている。
ユグドラシルの枝が、風に揺れる。その音は、新たな探究の始まりを告げるかのように、静かに響いていた。
カンガエロとリュシアは、エルフの森を後にする。アウローラは最後まで二人を見送り、その姿は次第に木々の間に溶けていった。
しかし、翌日の夕暮れ時。ギルドの前で、思いがけない再会が待っていた。
「お二人とも、お待ちしていました」
そこにはアウローラが立っていた。エルフの儀式的な衣装ではなく、旅人のような装いに身を包んで。
「森の中で過ごしてきた私には、世界との関わり方が分からない」アウローラは率直に語る。「でも、ユグドラシルを通じて、カンガエロ様の実践の中にある真実を感じました。理論と実践の間で揺れ動き、それでも前に進もうとする、その姿に」
彼女の声には、長年の迷いを破る決意が込められていた。
「エルフの巫女として、私は森に引きこもり、ただ観想にふけることを選んできました。しかし、それは真理の一面でしかなかったのかもしれません。カンガエロ様の傍らで、世界との新しい対話の形を見つけたいのです」
木々を離れ、街の喧騒の中へ。アウローラの新たな探究が、今始まろうとしていた。