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第6話『嘘の物語』

「老人たちの話し相手ですか」


カンガエロは手にした依頼書を声に出して読む。リュシアが持ってきた羊皮紙には、いたって簡素な内容が記されていた。


『トバリの家』所属のアイリス・シズクより

内容:老人たちの話し相手

報酬:銀貨3枚

危険度:なし


「私、あそこでよく話を聞かせてもらうんです」リュシアは嬉しそうに言う。「皆さん、本当に面白いお話をしてくれるんですよ」


トバリの家は、街の東外れにあった。青い蔦の絡まる古い館を前に、カンガエロは足を止める。アテナイでは、老人たちは知恵の体現者として敬われていた。ソクラテスもまた、年長者との対話を通じて真理に近づこうとした。しかし、この世界では違う。老人たちは「戯言を語る者」として蔑ろにされているという。


「大丈夫ですよ」リュシアが柔らかく微笑む。「皆さん、きっとカンガエロさんのような方を待っていたはずです」


二人が館に足を踏み入れると、かすかな薬草の香りが漂ってくる。廊下の先では、誰かが静かに話す声が響いている。カンガエロの胸に、期待と不安が入り混じった感情が湧き上がる。この世界の老人たちは、どのような知恵を持っているのだろうか。


「本当に来てくださったんですね」


玄関で二人を出迎えたのは、30代半ばの女性だった。深い青のローブに身を包み、少女のような笑顔を浮かべている。


「アイリス・シズクです。お待ちしていました」


応接室でアイリスは目を輝かせながら語り始めた。


「皆さん、素晴らしい物語を持っているんです。巨大な竜との戦い、仲間との固い絆、そして伝説の武具との出会い。私、毎日新しい発見があって、本当に楽しくて」


広間には、十数名の老人たちが思い思いの場所で過ごしていた。暖炉の傍には、深く椅子に沈み込むように座る老人の姿。


「ガレイさんです」アイリスが優しく声をかける。「今日は良い日ですよ。新しいお客様がいらっしゃいました」


ガレイは虚ろな目で暖炉を見つめたまま。その手は、かつて剣を握っていたとは思えないほど震えている。


カンガエロは老人の前に跪き、ゆっくりと声をかけた。


「ガレイさん。あなたの冒険のお話を、聞かせていただけますか」


一瞬、老人の目が輝きを取り戻す。


「冒険か。そうじゃ、あの時の話をしよう」


かすれた声が、少しずつ力強さを増していく。背筋が伸び、手の震えも止まる。


「五十年前のことじゃ。絶望の谷と呼ばれる場所で、仲間たちと共に巨竜と対峙した」


アイリスが嬉しそうに椅子を引き寄せる。「ガレイさんの一番の思い出の冒険です」


「そうじゃ、あの戦いは壮絶じゃった」ガレイの声が確かな響きを帯びる。「仲間のマルコが盾で正面から受け止め、サラが魔法で足を止める。その隙に、この私が背後から切り込んだ。皆が一致団結したからこそ、勝てた戦いじゃ」


「次は私の話を聞いておくれ」


別の老人が車椅子を寄せてくる。「水晶の迷宮で出会った氷の巨人との戦いじゃ」


「その前に私の話を」杖をついた老婦人が割って入る。「空飛ぶ船で巡った、七つの浮遊島の冒険じゃよ」


昼下がりの陽射しの中、物語は次々と紡がれていく。老人たちの目は輝きを増し、声は若々しさを取り戻していく。アイリスは時折相づちを打ちながら、すべての物語を心から楽しんでいる。


しかし、カンガエロは眉をひそめる。

老人たちの語りには、多くの嘘が紛れていることが明らかだったからだ。


アテナイでは、物語は真理を伝えるための手段でしかなかった。プラトンは詩人たちを理想国から追放しようとした。なぜなら、彼らは真実ではなく、感情に訴える虚構を語るからだ。


「カンガエロさん」夕暮れ時、リュシアが不意に問いかけた。「今日の話は、嘘だと思いましたか?」


その言葉に、カンガエロは考え込む。空には茜色の光が広がり、街並みを柔らかく染めていく。確かに彼は、物語を聞きながらずっとその判断を試みていた。真実と虚偽を見分けようとする、アテナイの哲学者としての習性だろうか。


その時、ニーチェの魂が触れてきた。


「真実とは何か? 移ろいやすい比喩、メタファー、擬人観の群れに他ならない」


「以前の私なら、すぐに答えられただろう」カンガエロは夕陽を見つめながら言葉を紡ぐ。「これは真実で、これは嘘だと。しかし、今は違う。真実とは、そう単純なものではないのかもしれない」


「どういう意味でしょう?」


「例えば、老人たちの語る巨大な竜との戦い。確かに、そのままの形では起こっていないだろう。しかし、その物語の中に込められた意味―仲間との絆、死との対峙、勝利の喜び。それらは、彼らが実際に体験した真実なのだ」


カンガエロは一瞬言葉を切り、老人たちの生き生きとした表情を思い出す。


「時として人は、直接的な言葉では表現できない真実を、物語という形を借りて語ることがある。それは嘘なのだろうか? 否、むしろ真実により近づくための手段なのかもしれない」


「でも、そうすると」リュシアが困惑したように眉を寄せる。「どうやって真実を見分ければいいのでしょう?」


「それには、二つの目が必要なのだと思う」カンガエロは静かに答えた。「一つは、物語に込められた真意を理解しようとする温かな眼差し。アイリスのように、相手の言葉に真摯に耳を傾ける姿勢だ。そしてもう一つは、その意味を批判的に検討する冷静な目。この二つの目を持って、初めて真実の姿が見えてくるのではないか」


夕闇が深まりゆく街並みを、二人は歩き続ける。


「明日も、もっと話を聞かせてもらおう」


その言葉には、単なる物語への興味以上のものが込められていた。それは、新たな真実の探求への誓いでもあった。老人たちの物語に耳を傾けながら、その中に隠された真実を、二つの目で見極めていこうという決意。それは、アテナイの哲学者として、そしてこの世界の賢者として、彼が見出した新たな道なのかもしれない。

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