「賢者様、私を弟子にしてください。アテナイで多くの弟子をお持ちだったと聞きました。私もまた、真理を求める者として、賢者様の下で学びたいのです」
リュシアの声が、静かな夕暮れの空気を震わせた。
カンガエロは歩みを止める。二人は街はずれの小径を歩いていた。夕陽に染まる空の下、その言葉は重い意味を帯びて響く。
朝からリュシアは、カンガエロの後を追っていた。ギルドでの出来事以来、彼女は諦めることなくカンガエロに付き従い、様々な質問を投げかけてきた。その瞳には、かつてアテナイで見た若者たちと同じ、真理への渇望が宿っている。
「私は、弟子を取ることはできない」
風が吹き、リュシアの髪が揺れる。
「それは...私が混血者だからですか」
「違う」カンガエロの声は静かだった。「私は、弟子たちに殺された」
夕陽が沈みゆく空の下、カンガエロは語り始めた。アテナイでの最期の夜のこと。真理を追い求めるあまり、盲目的な内省に陥った弟子たち。彼らは己の内なる声を絶対的な真理と取り違え、対話の可能性を失っていった。
「私の至らなさゆえだ」カンガエロは続ける。「私は彼らに『真理』を教えようとした。しかし、それは大きな過ちだった」
『英知の反響』が発動する。カントの魂との対話が始まる。「わが心の内なる道徳律」という言葉が、新たな意味を持って響いてくる。人は確かに、内なる声を持っている。しかし、その声を絶対的な真理と混同してはならない。なぜなら、人間は本質的に不完全な存在だからだ。
「私は弟子たちに、真理は己の内にあると教えた」カンガエロは静かに語る。「しかし、それは真理の一面に過ぎなかった。真理は、対話の中にこそ宿るのだ」
リュシアの目が、わずかに広がる。
「人は皆、己の内に絶対的な確信を持つことがある。『これこそが正しい』『これが真理だ』と。しかし、それは往々にして独善に過ぎない。なぜなら、人間の理性は常に限界を持つからだ」
カンガエロは、かつての弟子たちの姿を思い出していた。彼らは己の内なる声に従ったのだ。しかし、その声は真理ではなく、むしろ真理からの逃避だったのかもしれない。
「真理への道は、三つの対話を必要とする」カンガエロは言葉を続けた。「人と人との対話。これは互いの限界を知り、理解を深める営みだ。人と神との対話。これは自らの小ささを知り、謙虚さを学ぶ過程だ。そして人と世界との対話。これは、存在の神秘に触れる試みだ」
その時、再び『英知の反響』が発動する。フンボルトの魂が近づき、その思索が流れ込んでくる。「世界を可能な限り自分自身のものに変えることは、高次の意味で生きることである」
カンガエロは、その言葉の意味を噛みしめた。世界を自分のものにするとは、世界との深い対話を通じて、自己を変容させていくことなのだ。それは決して、一方的な理解や支配ではない。
「私の弟子たちは、己の内なる声のみに従った。対話を拒絶し、独善に陥った。そして、それは必然的に暴力へと至った。私はその時、教えることの本質的な限界を知ったのだ」
夜の帳が降りてきていた。街の灯りが、一つ、また一つと灯り始める。
「だから、私は弟子は取らない。しかし」カンガエロはリュシアを見た。「話し相手にはなれる。真理を追い求める者同士、対話の相手として」
リュシアの目が輝きを増す。それは教えを請う者の目ではなく、共に真理を探求しようとする者の目だった。
「対話には、常に謙虚さが必要だ」カンガエロは言葉を続ける。「私たちは皆、不完全な存在だ。だからこそ、対話を通じて互いの理解を深め、真理に近づいていくことができる」
街の灯りが、二人の姿を柔らかく照らしていた。新たな対話の始まりを予感させるように。
「では、これから」リュシアの声には、迷いがなかった。「対話を重ねていきましょう」
二人の足は自然とギルドへと向かっていた。夜風が心地よく、街の喧騒も次第に静まりつつある。そんな中、ギルドの明かりだけが、まだ温かな光を投げかけていた。
広間に入ると、予想以上の賑わいが二人を迎えた。ギルドでは、夜遅くまで残った冒険者たちが、その日の討伐や探索の報告を行っている。
最初は誰もリュシアに声をかけることはなかった。けれど、彼女は毎日のように広間の隅で冒険者たちの報告に耳を傾けていた。時には彼らの怪我の手当てを手伝い、時には討伐したモンスターの特徴について、知っていることを少しずつ教えていく。その姿に、次第に心を開く者が現れ始めた。
混血者だからと、最初から決めつけるのではなく。実際に触れ合ってみれば、彼女もまた一人の人間なのだと。そんな当たり前の事実が、少しずつ広間に浸透していったのだ。
「おや、今日も賢者様に弟子入り志願かい?」
ベテランの冒険者が、からかうような声をかける。その周りにいた者たちも、にやにやとした表情を浮かべている。リュシアの熱心な志願は、すでにギルド内での話題となっていたのだ。
リュシアは顔を赤らめながらも、以前のような萎縮した様子は見せない。それどころか、少し困ったような表情を浮かべつつ、冒険者たちと言葉を交わしていく。その仕草には、不思議な愛嬌があった。
冒険者たちは、まるで押し寄せる波のようにリュシアを取り囲んでいく。彼らの態度には、もはや警戒の色は見えない。まるで年若い妹をからかう兄たちのような、不思議な親しみさえ感じられた。
カンガエロは、その様子を静かに見つめていた。小さな対話の積み重ねが、確かな変化をもたらしている。教えることも、諭すことも要らない。人は、ただ真摯に向き合うことで、互いを理解し、受け入れていくのだ。