「古竜種クロノス・ワイバーン」
王立生物研究所が、カンガエロが倒したモンスターにそう名付けてから三日が経っていた。生命の解析による詳細な記録は、新種の発見として公式に認定された。特に、その知性の高さと長寿に関する分析は、モンスター研究に新たな視座をもたらしたと評価されている。
ギルドの広間には、いつもより多くの冒険者が集まっていた。彼らの視線は、一様にカンガエロに向けられている。
「賢者様、あの戦いについて、ぜひお話を」
「モンスターの急所を見抜く方法を教えていただけませんか」
「私たちのパーティに助言を」
次々と声がかかる。その様子は、かつてアテナイのアゴラで、カンガエロの周りに弟子たちが集まっていた光景と重なった。しかし、その本質は大きく異なっていた。弟子たちは真理を求めて集まってきた。ここにいる冒険者たちが求めているのは、経験値を効率的に得るための方法論に過ぎない。
カンガエロは人々の要望に応えながら、次第に疲れを覚えていた。この世界の価値観は、表面的な数値に支配されすぎている。何かが、本質的に欠けているのではないか。
彼は人混みから少し距離を取ろうと、広間の端へと歩を進めた。そこで、ふと耳に入ってきた会話に足を止める。
広間の隅で、一つの光景が目に入った。
ギルドの幹部らしき男が、一人の少女を諭すように何かを話している。少女は背筋を伸ばして立っているが、その姿勢には微かな緊張が感じられた。
「これが最後の警告です。ギルドを通さない依頼の受注は、厳重に禁止されています。混血者であるという事情は考慮しましても、規則は規則です」
混血者。その言葉に、カンガエロは目を向けた。この世界では、人とモンスターの血を引く者たちが、そう呼ばれている。彼らは人としての知性を持ちながら、モンスターの血のために「不安定」とされ、最下層の身分に置かれていた。
「ですが、私には他に道がありません」少女の声は静かだが、芯が通っていた。「ギルドは混血者の冒険者登録を認めない。かといって、一般の商人も私たちを雇おうとはしません。モンスターの素材を集めて売るか、危険な採集の仕事を請け負うしか、生きる術がないのです」
「そのような仕事こそが、あなたたちに相応しい」幹部は溜め息をつく。「混血者の大半は、その不安定さゆえに重労働にしか向いていない。竜族の血を引くあなたのように、まともに言葉が通じる者は稀少な例外に過ぎません」
「だからこそ、私にチャンスを」
「混血者に冒険者の資格審査は必要ありません。そもそも、審査の対象にすらなりません」
幹部の声には、わずかな憐れみが混じっていた。それは、制度という名の暴力を遂行する者の、優しさを装った冷酷さだった。
その時、『英知の反響』が発動する。アリストテレスの魂が近づいてくる。『政治学』執筆時の記憶、特に奴隷制を正当化する論理を組み立てていた時の思考が流れ込んでくる。
「自然は、より劣ったものをより優れたものの使用に供するように作られている」
この言葉に、カンガエロの記憶が呼び起こされる。アテナイで、彼自身も長らくその論理を受け入れてきた。しかし、ソクラテスは違った。彼は奴隷との対話を通じて、魂の中に宿る知を引き出そうとした。その姿勢は、当時のアテナイの支配層から危険視された。なぜなら、それは社会の序列を根底から覆しかねない行為だったからだ。
カンガエロ自身、奴隷との対話を通じて気づいたことがある。教養ある奴隷の中には、自由民以上の知性と徳を持つ者がいた。彼らは形式的には「道具」とされながら、実際には主人の相談相手となり、時には教師としての役割さえ果たしていた。
その経験は、アリストテレスの理論との間に、埋めがたい矛盾を生んでいた。今、目の前の状況は、その矛盾をより鮮明な形で示している。
カンガエロは目を開け、生命の解析の結果を淡々と告げ始めた。
「この少女の魔力密度は、立方センチメートルあたり783ユニットを記録しています。これは、ギルドが定める上級冒険者の基準値である500ユニットを大きく上回る数値です」
カンガエロは一呼吸置いて続けた。
「さらに注目すべきは、魔力の質的特性です。通常の魔力が示す規則的な波動パターンに対し、彼女の魔力は螺旋状の二重構造を持っています。これは先日、王立生物研究所が認定したクロノス・ワイバーンの特徴と酷似しています」
広間の空気が変わった。クロノス・ワイバーンの名は、この場にいる誰もが知っている。数百年の寿命を持ち、高度な知性を備えた新種の発見は、モンスター研究の常識を覆したのだ。
「魔力の安定性を示すゆらぎ係数は0.03です」カンガエロは更に続ける。「一般的な冒険者の平均値が0.08であることを考えれば、その安定性は卓越していると言えます。これは血統の不安定さを示す根拠とされる0.15という基準値とは、まったく異なる次元の数値です」
データの提示に、誰も反論できない。それは、感情や偏見を超えた、冷徹な事実だった。
「つまり」カンガエロは冷静に結論を述べる。「現行の混血者分類における不安定性の基準は、少なくともこのケースには適用できないことが、客観的に示されたことになります」
幹部は言葉を失う。周囲の冒険者たちの間にも、動揺が広がった。
「あなたの名は?」
「リュシアと申します」
カンガエロは黙って頷いた。この世界の制度に挑むことは、まだ早い。しかし、真実を積み重ねていくことはできる。それは、アテナイで彼が学んだ、もう一つの知恵だった。