迷宮樹海の中、カンガエロは冒険者たちの狩りの様子を観察していた。彼らはモンスターを倒すと、まるで儀式のように小さな板状の結晶──「ギルドカード」と呼ばれるもの──を取り出す。それは不思議な輝きを放ち、討伐の証として数値を刻み込んでいく。
「この世界では、命もまた数値として扱われるのか」
アテナイにおいて、動物は明確な目的を持って扱われる。家畜は食用として、または毛皮を得るため。野生の獣は、時に狩猟の対象として、時に神々への供物として。それらは全て、生活や信仰に結びついた意味を持っていた。
しかし、目の前で繰り広げられる光景は異なる。冒険者たちは、モンスターの死体を放置したまま去っていく。その命は、ギルドカードに刻まれた数値以外の意味を持たないかのようだ。
賢者の職に就いて以来、カンガエロは新たな能力を得ていた。生命の解析──それは生き物の構造や特性を理解するための技術だ。
倒されたモンスターの亡骸の前で、カンガエロは生命解析を行使する。
「外皮の鱗には完璧な幾何学的配列が見られる。まるで永遠の形相を映し出すかのような規則性だ。この世界の魔力という概念も、物質世界を超えた何らかの原理に従っているのかもしれない」
カンガエロは羊皮紙に観察結果を書き留めながら、ソクラテスとの対話を思い出していた。確かな形相とは何か。真なる存在とは何か。それらの問いは、この異世界においても新たな意味を持って響いてくる。
「脳の構造にも驚くべき特徴がある。大脳基底核に相当する部位が独特の発達を見せており、この世界に特有の行動様式を司っているのだろう。しかし、これは単なる物質的な仕組みなのか、それとも魂の働きの現れなのか」
生命の解析という客観的な観察を続けながら、カンガエロは次第にある違和感を覚え始めていた。観察すればするほど、この世界の生命の在り方は、アテナイでの理解を超えていく。数値化された経験値もまた、形相界と現象界の二元論では説明できない何かを示唆しているのではないか。
モンスターの死体は、やがて光の粒子となって消えていく。その様は、この世界の物質が、より高次の何かへと還っていく過程のようにも見える。
「ソクラテス先生」とカンガエロは心の中で呟く。「この世界で私が目にしているものは、真なる実在の影なのでしょうか」
その時、地面が大きく揺れ始めた。
樹海の奥へと進むにつれ、モンスターたちの行動に微妙な変化が現れ始めた。体毛を逆立てて殺気立つもの、逃げるように走り去っていくもの。反応はそれぞれだったが、それらは何か大きな存在の気配を伝えているようだった。
「この気配は...」
風が止み、鳥の声が消えた。
「何か、来る」
冒険者の一人が呟く。その直後、地面が揺れ始めた。
樹海の向こうから姿を現したモンスターは、これまでに見たものとは比べものにならなかった。その巨体は古代の巨木のように堂々として、鱗には無数の傷跡が刻まれている。生命の解析が告げる結果に、カンガエロは息を呑む。この個体は、少なくとも数百年は生きているという。
冒険者たちの目が輝きを増す。「前代未聞の経験値だ」
しかし、その戦いは一方的だった。巨大なモンスターの尾が空を切る。一撃で三人の冒険者が吹き飛ばされる。剣が鱗を傷つけることもない。
「撤退だ!」
叫び声とともに、冒険者たちは散り散りに逃げ出していく。地面には、彼らが投げ出した剣が散らばっていた。
カンガエロの前で、巨大なモンスターがゆっくりと身を屈める。その動きには、生命の威厳が感じられた。生きるために。ただ、生きるために。それだけが、如何に難しいことか。
『英知の反響』が発動する。
無数の光の粒子の中から、宮本武蔵の魂が近づいてくる。六十歳を過ぎてなお剣の本質を追い求めていた武蔵の記憶が、カンガエロの意識に流れ込む。
武蔵にとって剣は、森羅万象の理を体現する手段だった。
カンガエロは地面に落ちた二本の剣を拾い上げる。
「観よ、されど見ることを忘れるな」
武蔵の魂が語りかける。二本の剣は、理論と実践という二つの道を象徴しているのかもしれない。
モンスターが動く。その巨体からは想像もできない素早さで、尾が風を切る。空間そのものが歪むような圧迫感がカンガエロを襲う。
しかし、彼の意識は澄み切っていた。
剣を構える手に力みはない。まるで呼吸をするように自然な動きで、モンスターの存在そのものを感じ取る。その姿の中に、生きてきた年月の重みを見る。
一撃が交わされる。
二本の剣が描く軌跡は、円を形作るよう。理論と実践、観ることと見ることが、完全な調和を成す。それは武術である以前に、存在との対話だった。
巨体が静かに崩れ落ちる。カンガエロのギルドカードが、大きな数値を刻み始める。
モンスターは死して経験値を残す。では私は、死の時を迎えた時、何を残すのだろうか。名誉か、知識か。この数値の向こうにある本質とは何なのか。
瀕死のモンスターの瞳を見つめながら、カンガエロは誓う。この命を無駄にはしない。経験値という数値に秘められた意味を理解し、この世界の真理に近づく糧としよう。
生命の解析が告げる最後の結果に、カンガエロは目を閉じる。このモンスターの脳に宿る知性は、彼の想像を超えていた。それは人間にも似て、しかし人間とも異なる思考の痕跡。この発見は、彼の世界観を根底から覆すことになるだろう。
数百年という歳月。その中で、このモンスターは何を見、何を考え、何を悟ったのか。
樹海の闇の中、カンガエロは新たな探求への決意を固めていた。