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第9話『パラネイオン』

夕暮れ時の温泉宿。カンガエロは湯桶に手を伸ばし、丁寧に体を洗い始めた。石鹸の泡が肌を滑り、温かな湯が心地よく垢を流していく。


「賢者様もお風呂がお好きなんですね」


隣で体を洗っていた中年の男が、親しげに声をかけてきた。冒険者のような風貌をしている。


「ええ」カンガエロは静かに頷く。「疲れた体を癒やしてくれますから」


「へえ、アテナイにも温泉ってあったんですか?」男はカンガエロの出自を知っているようだった。


「バラネイオンという公共浴場があります。市民たちが日々の垢を落とし、時に言葉を交わす場所です」


「へえ、それは面白い」男は自分の肩を流しながら相づちを打つ。「まあ、どこの世界でも、人は湯に浸かって心を休めるってことですね」


軽い会話を交わしながら、カンガエロは湯船に向かう。温かな湯に身を沈めると、アテナイでの記憶が蘇ってくる。石造りの浴場に響く会話。商人たちの取引の話、若者たちの冗談めいた言葉、時には政治論まで。人々は湯に身を委ねながら、心を開いて語り合った。


「アテナイの浴場について、お聞かせいただけますか?」


視線を上げると、いつの間にかリュシアとアウローラが隣に座っていた。カンガエロは一瞬目を見開き、思わず身を引こうとする。しかし、二人の何気ない様子と、周囲の入浴客たちの自然な態度に、むしろ自分の反応が場違いなのだと気づく。彼は戸惑いを覚えながらも、あえて問いを差し控えることにした。


「アテナイでは、温泉は都市生活の中心でした」カンガエロは静かに語り始める。「単なる沐浴の場ではない。人々は垢を落とすように、心の垣根も取り払う。そこに、対話が生まれる」


湯煙の向こうで、二人が耳を傾けている。アウローラの表情には、以前の儀式的な厳かさはなく、素直な関心が浮かんでいた。


星々が夜空に瞬き始め、どこからともなく虫の音が聞こえてくる。穏やかな空気が、三人を包み込んでいた。


湯煙の中で、カンガエロは思索に耽っていた。アテナイの記憶と、この世界での発見が、彼の中で新たな仮説を紡ぎ出していく。


「魔力の本質について、興味深い仮説が浮かびました」カンガエロは静かに語り始める。「私たちの研究では、魔力は魂の最小単位とも言える存在です。そして、その魔力は特定の法則に従って編み直すことができる」


リュシアが身を乗り出すように聞き入る。カンガエロの言葉は、いつも新しい発見をもたらしてくれる。


「ユグドラシルの力を介することで、魂は分解され、再び編み直される。私自身がその過程を経験した。だとすれば」カンガエロは言葉を選ぶように一瞬置いて、「理論的には、人為的な異世界転生も可能なのではないでしょうか」


湯面が小さく揺れる。リュシアの体が微かに震えたのが分かった。


「編み直された魂は、望む世界へと導かれる可能性がある。つまり、アテナイへの帰還も可能であると」


「え?」リュシアの声が予想以上に高く響く。彼女は自分の声に驚いたように、慌てて口元を押さえた。


カンガエロが語り続ける間、リュシアの心の中で不安が渦を巻いていた。アテナイへの帰還。その言葉は、彼女の内に予期せぬ動揺を呼び起こす。今まで当たり前のように共有していた日々が、突然失われるかもしれないという恐れ。知的な探究者としての自分を保とうとしても、感情が抑えきれない。


リュシアは湯面を見つめたまま、自分の中に湧き上がる感情の正体を理解しようとしていた。理性と感情の間で揺れる心を、どうすることもできない。


「確かに、理論的には可能かもしれませんね」アウローラは、リュシアの横顔を一瞬流し見る。

「ですが賢者様、真理の探究に耽るのも良いですが、目の前にある真実から、目を逸らしてはいませんか?」


カンガエロは一瞬、言葉を失う。アウローラの問いは、彼の心の深いところに触れていた。アテナイでも同じ過ちを犯したのではないか。真理を追い求めるあまり、目の前の人々の心に目を向けることを忘れていた。その結果、最愛の弟子たちにさえ、真意が伝わらなかった。


しかし、それは過去の話ではない。今まさに、同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。


湯煙の向こうで、リュシアの不安げな横顔が揺らめいている。


「ええ。しかし」カンガエロは湯面に映る星空を見上げながら言った。「私には、この世界で果たすべき使命があります」


言葉を選ぶように一瞬の間を置き、彼は続ける。「ソクラテス先生から託された探究の道は、この湯のように、人々の心に溶け込んでこそ意味を持つのかもしれません」


湯煙の向こうで星々が瞬く。その光は、アテナイの夜空に見たものと同じように、しかし確かに異なる輝きを放っていた。


その言葉に、リュシアの体から緊張が解けていく。「よかった...」思わず漏れた言葉に、彼女は慌てて湯船に顔を半分浸す。湯の揺らめきに紛れるように視線を落としながら、自分の素直すぎる反応に恥じらいを覚える。


アウローラが小さく微笑む。普段は大人びた物腰で知的な探究者を演じているリュシアの、等身大の一面を見た気がした。彼女の感情の揺れは、むしろ人としての真摯さを表しているのかもしれない。


カンガエロはそんな二人の様子を見つめながら、この世界での真理の探究に、また新しい意味が加わったように感じていた。純粋な知的探究を超えて、人としての温かみのある対話の中にこそ、真理は宿るのかもしれない。

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