一度目は異世界側のダンジョンを踏破した際、ダンジョンの中枢にして命脈であるダンジョンコアと、異界に通じると言われる扉がある一室に入った時であった。
入った途端に目に入ったのは、土下座する男の頭頂部であった。
普人族のように見えるが、人間ではないと直感的にわかった。
かといって擬態しているわけでもない、奇妙な──その体勢は別にして──生き物だった。
『何でも差し上げますので、どうかコアの破壊だけはご勘弁ください』
土下座の格好のままそう言った男に、事情を訊いた。
その男が言うには自分はダンジョンマスターで、このダンジョンを運営しているという。
ダンジョンマスターは、ダンジョン内でダンジョン由来ではない生物が活動する際に得られる何某かのエネルギーを使って生存している。
妻と子どもがいる。
まだローンも払い終わってない。
このコアを壊されてしまうと自分たちは路頭に迷う。
そんなことを切々と語る──後半はわけがわからなかったが──ダンジョンマスターの背中に、世のお父さんの悲哀のようなものを感じてしまった。
お前も他人の命を奪って生きているのだろうと言ったが、自分たちはそういう風にしか生きられない、そういう風にできている、好きでやっているわけではないと返された。
結局、何も言えなくなった青平は、そもそも自分の目的はダンジョンコアの破壊ではなく、異界の扉であることを告げ、さっさと扉を潜ることにした。
その際になにやら色々と持たされたが、早くこの話を打ち切って地球に帰りたかったのでおざなりな礼を返して済ませた。
そして、地球側──つまりは京極ダンジョンの最奥部に出た途端、今度はそちらのダンジョンマスターが大慌てで登場した。
まあ、自身の家ともいえるダンジョンの最奥部に、いきなり見ず知らずの他人──しかも明らかに大英雄クラスの魔力を持つ者が現れたのであれば、それもむべなるかなというところであった。
青平は先ほどと同じ説明をし、通り過ぎるだけだからお構いなくと言ってさっさと地上に向かった。
────
そんなわけで、青平はダンジョンに知性があることを理解している。
だからこそ3時間もこうして待っていたのだ。
侵蝕領域の中心部で暴れれば、危険を感じたダンジョンマスターがこちらに勢力を傾けるであろうと考えて。
そうして差し向けられた魔物をまとめて斃せば、相手のリソースを削れる。
魔物氾濫を起こせないくらいに削ってやれば、少なくともしばらくは安全だろう。
──それか、最奥部までいってダンジョンマスターをおどかしてみるか?
もしダンジョンマスターが聞いていたら震え上がるようなことを内心で呟きつつ、その足はダンジョンゲートに向かい、その手は機械的なまでの動きで魔物を斬り裂き続ける。
第一波と接触後、すぐに駆けつけるからどうのと叫んでいた無線機はしばらく前に沈黙した。
頭上を飛んでいたドローンも、新しく登場した飛行型の魔物に墜落させられた。
別に護ることもできたが、考えごとをしている内に墜ちていた。
──すまん、沙塔さん。
心の中で軽く謝罪しながらも、足を止めることはない。
自身が刻んだ大きな亀裂を進んでいる。
向かう先はダンジョンゲート。
青平は知らないが、その位置は忠別川沿いのとある神社があった場所だ。
先ほど湧き出した強力な魔物は、既に深層級と呼ばれるそれになっている。
しかし結果は変わらない。
近づいたそばから斬り裂かれていく。
────
ダンジョンゲートに到着した。
さて、どうしたものかと考える。
ここに来るまでに、何体もコアモンスターを斃している。
明らかにモンスターの湧きが緩くなった。
何らかの制限でもあるのか、途中からはゲートから直接出てくる魔物もいなくなった。
そちらも警戒しつつ、ダンジョンゲートを背にしてしばらく戦っていた。
四方八方から向かってくる魔物もいなくなった。
『守月青平さんですかな』
何の気配もなく、ダンジョンゲートからひとりの紳士が現れた。
洗いたての白いシャツ、袖はカフスで、襟はクラバットで飾られている。
タイトなトラウザーに、足下はヘッセンブーツ。
白のシンプルなウエストコートに豊かな黒のコート。
手袋に包まれた手には杖、頭にはトップ・ハット。
まるでタイムスリップして来たかのような、典型的な英国紳士の立ち姿に、流石の青平も驚いた様子である。
しかしすぐに気を取り戻し、無言のまま自分の胸元についたボディカメラを指差す。
『ご安心を。無粋な覗き見などさせませんよ』
「そうか。それで?」
『こうして御前に姿を晒していることでお察しいただけるでしょうが、我々の中であなたの名は知れ渡っております』
「そうなんだ。良い意味で?」
『もちろんです。ダンジョンマスターの存在を知りながら殺めることもなく、コアも破壊せず去っていった人物がいると話題になっておりますよ』
「急いでたからさ」
『ええ、事情は存じております』
「へえ」
『私、こう見えて情報通でして』
そう言った紳士の手元には、いつの間にかスマートフォンが握られている。
スマートフォンを購入したのに、結局は未だにガラケーをメインで使用する青平よりもよほど現代人染みていた。
「そうなんだ。それで?」
青平が再び尋ねる。
すると紳士はスマートフォンを消し去り、今度は四角い紙とペンを取り出して言った。
『サインをいただけますか?』
「何の契約だ?」
『ホホホ』
妙に調子の外れた笑い声を上げる紳士。
『我々は悪魔の類ではございません』
「人の命を啜って生きているだろう」
『しっかりと対価をお支払いしておりますでしょう?』
「対価というか、鼻先の人参というか」
『ともあれご安心を。これは正真正銘単なるサイン。孫娘があなたのファンでしてな』
「…………なんでお前らってどいつもこいつも人間くさいんだよ」
『はて。人間の定義にもよりますが、我々とて普通に生活しておりますので』
「はあ……それで、なんて書けば良いんだ?」
『宛名はなしで、お名前だけで結構ですよ』
「…………売る気か?」
『ホホホ、ホホホ。まさか。単にこちらの言語に、我々の名前を表すものが存在しないだけです』
そうして、なんだかよくわからない紳士に、よくわからないままサインを書いて渡す。
当然、芸能人やスポーツ選手がするようなものではなく、ただ単に名前を書いただけのものである。
受け取った紳士はまたどこぞに消し去り、深々と頭を下げる。
『感謝いたします。孫娘も喜ぶことでしょう。これを感謝のしるしとするのは僭越ながら、この北海道の侵蝕領域は撤退いたしましょう』
「良いのか、お前らにとっては何か生活のために必要な仕事のようなものなんだろう?」
『私めはここ以外にもいくつかの事業をしておりまして。貴殿とお近づきになれるのであれば、ひとつくらい手放したところでなんということもございません』
「なら最初っからそう言ってくれよ」
『ホホホ』
そうして話す内に、彼の感知範囲に複数の人間が入ってくる。
少し詳しく探ってみると、四分谷と美鷹、それと弟子ふたりを含む集団のようだ。
『お迎えが来られたようですので、私めはこれにて。またいずれお会いできる日を楽しみにしております』
「そうか。今度はゆっくり話せると良いな」
『まことに。では』
こうして、よくわからないまま北海道奪還は成った。