ジョン・スミスは憂鬱であった。
守月青平の電撃的な訪問後、すぐさま本国には報告せず、まずは日本の政府高官と意見交換の席を持った。
色々と情報は手に入ったが、どうやらあちらも汲々としているらしく、肝心な部分は判断保留とのことだった。
話にならない。
結局は本国へと報告した。
ダンジョン外でのスキル使用の可能性について。
しつこいくらいに繰り返し、敵対するべきではないという、本文よりも長い私見を添えて。
その結果として、こうして自分は彼の住む部屋へと向かっている。
──活動拠点を我が国に移すよう交渉せよ。それが叶わぬならせめて情報だけも得て来い。
それが本国からの指示であった。
ジョンは守月青平の帰還以前から日本に住むエージェントである。
今も部屋にいる、今回チームを組んだメンバーとは仕事で組んだり組まなかったり──まあ顔見知りという程度の関係で、普段はひとり気ままな日本生活を楽しんでいた。
この優秀だが、決して優秀すぎるとは思わせないようにして来た男は、適度に働いて、大いに遊んでいた。
表の顔として、子どもの頃からの趣味であった絵を描くことを活かし、同人作家などをやっている。
むしろそちらを本業と言いたいくらいには本腰を入れている。
年に2回の祭を乗り越え、一息ついたところで青平の登場である。
それからは趣味絵のひとつも描けない状況が続いている。
今回は早割を使えるほど余裕があり、各同人ショップへの納入も済んでいたのが不幸中の幸いか。
「あ、ども」
部屋のチャイムを押し、僅かな間を挟み守月青平がドアを開けた。
この一見無害で呑気そうな顔の青年に思うところがないではないが、彼もまた自分ではどうしようもない事態に巻き込まれただけの被害者である。
ホラー染みたファーストコンタクトの恐怖はすでに払拭している。
招き入れられた室内には、ふたりの女性がいた。
ひとりは守月奈緒。
対象の実妹。
元Aランク探索者として大きな貢献があり、日本のダンジョン対策省庁において、ひとつのエリアを任されている。
もうひとりは尾ノ崎玲那。
対象の弟子、らしい。
現Aランク探索者として活躍。
実力は確かで、10年足らずでAランクまで昇格した。
自身はソーシャルメディアのアカウントすらまともに運用していないが、その実力と容姿から各種メディアへの露出も多く、認知度・人気度ともに高い。
「今日は何かお話があるとのことで」
そんなふたりの情報を脳内で諳んじていると、守月青平から声がかかった。
勧められたソファに腰掛け、息を整える。
「ええ、本国から青平さんにお願いがありまして」
「伺いましょう」
「その前に、このおふたりは……?」
「ええ、知っています」
件の、ダンジョン外でのスキル使用について言外に尋ねてみるも、何でもないことかのごとく返される。
まあ、この場にいるということは、そういうことであろうとは予測できていたことだ。
「では本題なのですが、アメリカで活動しませんか?」
「お断りします」
色々と用意はしてきたが、あえて単刀直入に言ってみたものの、すげなく断られる。
──ですよねー。
「報酬もかなりの額を用意しておりますし、色々と便宜を図ることもできますが」
「間に合ってます」
それはそうだ。
あれだけ簡単に到達階層を更新できる上、彼のバックには日本国政府がついているのだから。
もちろん本国であれば、そのどちらもアップグレードできることは言うまでもないが、彼がそれらを殊更に求めているわけではないことくらいは理解している。
伊達に彼のフォロワー染みた真似はしていない。
分析によれば、彼は1日にして数億かそれ以上稼ぐことすら可能である。
欲望は尽きぬものとはいえ、個人単位であれば十分であろう。
「逆に僕から良いですか?」
「もちろんです」
さて、どう交渉したものかと考えていたところ、そんな風に声をかけられる。
一体なにが飛び出すのか戦々恐々としながらも、表面上は平静を保つ。
ポーカーフェイスはエージェントとしての基本技能とも言える。
いかに同人活動に血道を上げる不良エージェントといえどもこの程度は──
「実は、ダンジョン外でスキルを使えるようになるメソッドを考えているんですけど。うちの弟子で試したところ、とりあえずはできるようになったんですよ」
「はあ?」
どうやら自分はエージェント失格だったようだ。
しかし、これは仕方がないだろう。
そんな世界の命運を左右するようなこと、一介のエージェントでしかない自分にどうしろというのか。
そういうのはハリウッドでやってくれ、というのが正直な感想である。
「尾ノ崎さん、ちょっとやってみて」
「はい」
軽いやり取りの後、尾ノ崎玲那は指先に小さな炎を灯した。
それが手品のトリックなどではないことは、彼のエージェントとしての観察眼が認めている。
酷い頭痛がするような心持ちで、ジョンが尋ねる。
「……それで、我が国に何を求めるのですか?」
「求めるというか、このメソッドを確立するために、検証も兼ねてそちらの人員にレクチャーしようかなと思いまして」
その提案を聞いて、内心首をひねる。
──いったい何が狙いだ……?
「何が目的ですか?」
思ったことをそのまま口にしているジョン。
明らかに冷静さを欠いている。
相手のペースに巻き込まれていると、頭のどこかでアラートが鳴り響いている。
「あえて言うのなら、世界平和かなあ?」
「どこがよ」
それまで無言を貫いていた守月奈緒が口を挟む。
「ちょっと聞いてくださいよ。兄はこの方法論を世界に公開するつもりなんですよ」
「今の、『ちょっと聞いてくださいよ』って、かなりおばさんくさかったぞ」
「うるさい若作り」
「若いんです~」
突如として始まったコントも気にならないくらい、頭の中は混乱している。
そこに思い浮かべるのは、侵蝕領域を押し返せず、無政府状態に陥った某国。
まるでダンジョン内と同じようにスキルを使える、法も秩序も倫理観も失い、弱肉強食の獣のように、ただ暴力だけが支配する世界。
つかえながらも尋ねる。
「そんなことをしたら、世界の秩序が乱れる、でしょう?」
「だからこそですよ」
昔からあまり信仰心の強くない子どもだった。
日曜日のミサなど、数えるほどしか行ったことがない。
神は仕事もくれなきゃ金もくれない。
そんなことに時間を使うくらいなら、少しでも勉強をした方が良い。
ガリ
そうやって勉強ばかりしていたからこそ、ちょっとした息抜きのつもりで絵を描き始め、マンガの沼に落ち、こうして日本で同人作家をやっているのだ。
──あれ?
閑話休題。
そんな自分だからこそ、罰が下ったのだろうか。
このとんでもないことを言っているくせに、まるでまったくなんでもないことのようにとぼけた様子で話す眼の前の青年が悪魔に見える。
「彼女はたったの数週間でスキル発動まで至りました。僕というイレギュラーが指導をしたとはいえ、です。これを、誰かがたまたま発見するのは、そう遠くない未来なのではないですか?」
言われてハッとする。
もしそれが悪人の手に渡ったら?
その方法を秘匿しつつ、超常的な力でいくらでも悪事を働くのでは?
それならいっそのこと……。
「そういうことですか」
「わかっていただきました?」
「ええ。これは公開しなければならないでしょう」
「もちろん、今すぐにという話ではないですよ」
悪人だけが──いや善人であろうと、一部の人間だけが特別な力を持つから歪むのだ。
それよりも多くの人が一定の力を持つことで、逆に抑止力として働く。
とはいえ、スキルを使った犯罪が起きれば、従来の警察機構などでは対応が難しいだろう。
だからこそ、公開に先駆けて各国にダンジョン外スキルの使用法を広げようというのだ。
「これは私の一存でお返事はできかねます」
「そうでしょうね」
「しかし、必ずや本国も肯くことになるでしょう。いや、肯かざるを得ない」
たとえどれほどの見返りを要求されようと、これを受け入れなければ国という体裁が保てるかすら危うい。
自分がわざわざ進言するまでもなく、本国の頭の良い連中はすぐに気づくだろうが、それでも万が一のことを考えれば、言葉を尽くして伝えるほかない。
「本日はお時間をいただきありがとうございました。忙しなくて申し訳ないですが、これにて失礼いたします」
そう言って立ち上がり、足早に部屋を出る。
拠点の部屋を目指しつつ、報告書の文面を脳裏に組み上げる。
──はあ、こりゃしばらくは忙しくなるな。
脳内で嘆息しつつ思う。
原稿に向かえない時ほど、絵を描きたくなるのはなんなのか。
──ただし修羅場はのぞく。