授業は何事もなく続き、無事に終わりに差し掛かったのだが、チャイムが鳴る前に今日やる分が終わってしまったようだ。
「さて、終わりまでの時間なにかお話でもしましょうかね」
あと十分ほどの時間、生徒に退屈させないような話題を考えた。教師歴はそれなりに長い彼女だ、その内容はすぐに思いついたようで、用意しなおした椅子に座った彼等にこう話す。
「皆さん、暗竜様の伝説はご存じですよね? 今回はそれについてお話しましょうか」
その一言で、興味がなさそうな顔をしていた一部生徒も意識をサフィラに向けた。
このクニの神である暗竜の話題だ、気にならない訳がないのだろう。実際、マールもそうだった。
「暗竜様は、太古に広い海の中でこの地を生成されました。このように魔力を形ある個体に変える魔法を大々的に使い、この地を創造なされたのでしょう」
サフィラは手の上にただの球体を作って浮かびあげる。属性に変換されない、そのままの魔力で発動される魔法だ。これは大人たちの推測に過ぎないが、ほとんど正解だと言っても過言ではないモノだ。本来この魔法で土地の生成など無理があるが、やったのは神である暗竜だ。その中の魔力の強大さを考えれば、それも不可能ではないだろう。
浮かび上がった球体を握って魔力に戻すと、サフィラは続きを話す。
「そうして土地を創られた暗竜様は、その次に我等人間と使い魔となる生物を生み出されました。これが始まりの伝説です。ここまではほとんどの方が小さいときに聞いた事があると思われますが、それと関連する事で、興味深い話があるのはご存知でしょうか?」
「このクニの下、要するに深海の底に土地らしき物が沈んでいるという話があるのです」
それは、この場にいた誰もが聞いた事のない話だった。それはなんなんだとざわつく教室の中、サフィラは生徒の疑問に答える。
「土地には倒壊した建物も窺え、広くに文明があった跡が見えます。しかしそこに生物はおらず、残骸と言った方が良いでしょう。そのようなモノがこのクニの真下に沈んでいるのです」
その都市伝説のような話は、少年少女の好奇心をくすぐるのに十分なものだっただろう。深海に沈む文明の残骸、しかし、人間は魔法を使えど水中で息をする事は出来ない。もしそこに文明が栄えていたのであれば、それは水中でも呼吸が出来る……要するに、自分たちの知る生物とは全く違う知的生命体がいた事になる。
「まさかあれか! 魚が実はすっげぇ頭良くて、クニ作ってたとか!?」
様々な考察を口にする生徒たちの中、パデラが一番大きな声で思いついた事を発した。
非現実的な話だが、完全にないとは言えない。例えば、このクニの土地からあふれ出す魔力が一部の魚に影響を与え、短いながらも文明を気付いた瞬間があったとか、そういう事があっても可笑しくはない。あまり考えにくいおとぎ話である事には変わりないが。
パデラの発想に、サフィラは笑みを浮かべて頷く。
「ふふっ、それもあるかもしれませんね。ですが、この深海の物に関しては未だ誰も正体を明かせておらず、そしてそもそもが存在しているかどうか危うい物です」
「それを発見したと言われる魔法使いはその事を公にする前に消息を絶ち、その後同じものを見たと言う者は出ておりません。ですが、発見したとされる魔法使いはかの有名な『エテルノ・マール』とされています。それが本当であれば、真っ赤な嘘だとは考えづらいでしょう」
その話を聞いて、生徒達は猶更話への興味を深めたようだ。
彼女が発したエテルノ・マールという魔法使いは、大昔に遊戯戦闘魔法使いとして活躍していた者であり、その優秀さと聡明さは良く知られている、伝説に残る魔法使いの一人だ。もしそれが本当に彼の発見であるなら、嘘だとは思えない。
そんな話を聞いた時、マールの目は珍しくも生き生きと好奇心を示していた。それは何も彼だけではなく、パデラも分かりやすく表情をキラキラとさせている。
「深海に眠る土地……皆さんはどう思いますか? こういった都市伝説のような話もたまには面白いですよね」
そんな言葉で話は締めくくられ、授業が終わった。
生徒達はほとんどが最後に聞いた深海の話題で盛り上がりながら、自室に戻ったり寄り道に向かったりする。そんな中で好奇心が疼いたとある生徒が海の方に行ってみようと話しているのを、サフィラがやんわりと止めているのが聞こえた。
確かに先程のは興味深いが、深海を確認しにいくなんて無謀でしかない。水中で息する事は出来ないし、恐らくそれを発見したエテルノは、「眺眼(ちょうがん)」と言う魔法を使って深海を見たのだろう。意識と魔力を集中させ、その場にいながら様々な場所を見る事が出来る魔法だ。だがそれは膨大な魔力量を誇る魔法使いだから出来た事であり、そこらの学生がやろうとしても水深十メートルも持たないだろう。仮に学生ではない、立派な大人がやろうとした所で海の底まで行ける訳がない。
しかし、それはそこらの魔法使いがやったらの話だ。
マールとパデラは真っ直ぐと部屋に戻ったが、何も彼等は好奇心を抑制出来た訳ではない。
「なぁマール。眺眼って、使えるか?」
「当たり前だ」
部屋に戻るや否や、二人はそんな会話を交わし、マールは脱いだ紫色のジャケットをベッドに放り投げた。見事自身のベッドに落ちたジャケット、その隣に腰を下ろし、胡坐をかく。
「パデラ。いいな、少し黙ってろ。僕が良いと言うまで喋るな」
そう言いつけ、目を瞑って意識を集中させ始める。パデラは声に出さずに頷き、そんな彼をただじっと見ていた。そして、帰って来て直ぐそんな事をしだした主達を不思議に思った使い魔二匹は顔を合わせ、邪魔をするのは良くないかとその事を問うのは後にしたのだった。
使い魔も空気を読んでくれたお陰で、部屋の中は静かで集中するのに申し分ない状況だ。マールは自身の中の魔力を湧き立たせ、眺眼を発動する。そうすれば、己の肉眼で見ているのと同じように頭の中に外の光景が浮かぶ。最初に見えたのは、学園の校門だ。時間も時間である為出入りする人はいないが、生徒が不要に出かけないように筋肉質な男性教師が見張っているのが確認できる。
しかしこれは魔法で遠隔で見ているだけの為、先生にバレる事なく門を潜り抜け、海の方面に向かう。学園から最も近い海岸は北東の方面、距離はそう遠くない。部屋によっては寮からでも海を眺められるくらいなのだ。
校門の反対側まで行き、北東に真っ直ぐと進めばそこは海。夏になれば泳いでいる人もいるが、まだ水に入る程暑くはないからまだ人は見かけられない。そんな海岸から、眺眼を海に潜らせる。
穏やかに泳いでいる魚達、少し離れた所で丁度漁が行われているようで、魔力に引かれた魚が一所に集まっているのが見えた。しかしマールは、泳ぐ魚を目に綺麗だと思うタイプの人ではない。
(水深は、四千メートルくらいあったか……ギリ、行けるはずだ)
眺眼は真っすぐと深海へ向かっていた。身が沈んでいる訳ではない為息苦しくはならない、しかし、集中力と魔力残量の関係でそれに近しい感覚が出始めてきていた。
魔力を操りながらただひたすらに呼吸だけを繰り返すマールを、パデラと使い魔は心配そうに見守っている。眺眼は傍から見て無事に出来ているかの確認が出来ない魔法だ、だと言うのに魔力だけ目に見えて減っていく為、猶更ハラハラしてしまう。パデラも「大丈夫か?」と声をかけたいのは山々だったが、集中力が必要だという事は知っていた為、言葉を飲み込んでいる。
ひたすらに待ち、五分ほど経った。その頃にはマールの魔力もそこが見えてきて、パデラは止めるかどうかを悩み始めていた。
肩を叩くかどうか、伸ばした手は迷いを見せていたが、その最中でマールがゆっくりと目を開く。
「見えた……」
たったその一言を呟くと、彼はベッドに倒れこむ。
魔力切れだ。今の眺眼で体に力を入れるための分も使ってしまったのだろう。マールはベッドに力なく横たわっているが、あまり動かない表情から達成感と満足感が伝わってきた。
「パデラ。あったぞ……深海に、文明の跡があったんだ」
「詳しい話は後で聞くぜ! 今は休め、魔力を回復すんのが先だ」
パデラの言葉には心配と共に少しの怒りに似たものがあった。マールもそれを感じ取れたようで、むっとして半身を起こそうとする。
「魔力を切らしたくらいで大袈裟だ。戦闘中じゃあるまいし、」
しかし、身を起こそうとする途中でパデラに押さえつけられ、再び横にさせられた。力の入らない体は簡単に押し倒されてしまい、直ぐ近くにあるパデラの顔が見える。
「魔力切れを甘く見んな。それで死ぬ奴もいんだぞ、マジで」
パデラの顏は珍しくも真剣だった。マールの手を取り、強めの力で握る。そこに魔力はつかわれていないが、十分に痛みを与えていた。
「いっ……」
「魔力が使えない状態の人間は、赤ちゃんと同じだぜ。夕飯作ってるから、その間は大人しく横になっとけ。な?」
最後に小さな子どもに言い聞かせるように優しい口調で付けたし、パデラは台所で食事の準備を始める。
マールにとっては、非常に不服だった。しかし、逆らうと面倒だ。上手く力が入らないのは事実だし、ここは彼の言う通りにしようか。本当に、不服だが。
『主よ。なんだか魔力覚醒したての幼子のような事を言われておったな』
『ははっ、あるあるだよなぁ。ちびっこが調子に乗って魔力切らして母さんにクソおこられるヤツ!』
「うっせぇ……」
使い魔二匹に揶揄されたが、言葉以外での反撃は出来なかった。しかし、回復にはそう時間はかからないだろう。
少し横になっていると、夕飯の香りが漂ってくる。起き上がれないから見る事は出来ないが、これは肉系だろうか。音からして、ステーキが焼かれているような気がする。
『お、ステーキ! やったぁ!』
マールの考えが正解であることを、ピピルの歓声が教えてくれた。
「あぁ、知ってっか? ステーキって魔力回復にいっちゃん良いんだぜ? 母さんが言ってたんだ。この前買った肉があってな、夕飯はステーキ作ろうって思ってたから丁度良かったぜ」
『そうなの? オレそれはじめて聞いた!』
マールも初耳だ。肉がスタミナにいいと言ったことと同じだろうか、多分それだ。
「パデラ」
「んー?」
「肉は、柔らかくしろよ」
マールは、筋の多い肉を噛み切る事が出来ない。何故なら、顎の力がそんなにないから。しかしパデラはそんな事もあろうかとすり下ろした玉ねぎに漬け込んでいた、これも母の知恵だ。
「安心しろ! やわくなってるはずだぜ」
「それならいい」
たった一言だけ返す平坦な声に、パデラは小さく笑う。なんだか、怒られた後の不貞腐れた子どものように思えたのだ。こんな事を言ったら後で魔法が飛んできそうだから、口にはしなかったが。
肉が両面焼けた頃には、動けるくらいには回復したようで、マールは椅子に座りご飯を出されるのを待っている。
「お腹すいた」
「はいはい、今出来たからなー。ほい、ステーキだぜ。お前も食いきれそうなくらいの量にしてっから、残すなよ?」
「あぁ。いただきます」
マールは既に切ってある肉を一切れフォークに差し、口に入れる。玉ねぎの効果もありしかりと柔らかくなった肉は難なく噛んで飲み込めたようだ。
「どうだ?」
「おいし……いや。悪くない」
顔を逸らして言葉を変えてしまった。しかし、絶対今のは美味しいと言いかけていた。
「そこまで言ったら素直においしいって言ってくれよぉ」
「何のことやら」
あくまでも無かったことにしたいようで、マールは表情を変えずに肉を食む。パデラは、まぁ美味しかったのなら良いかと微笑み、自身も「いただきます」と手を合わせた。
そうして食事をしている時、パデラは先程の事を尋ねた。例の深海に沈んだ土地についてだ。
「そういや、深海はどんなんだったんだ? 先生が言ってたやつあったんだろ!」
「あぁ。あった。あれは間違いなく、文明あるクニだ」
見えた瞬間に魔力が切れてしまったため、細かい所は見れていない。だが、高い塔のようなものがあり、そこらを中心には四角い高層の建物が集まっていた。それらは既に倒壊し苔が蒸していたが、確かに文明の名残があった。それだけではなく、山脈や木々の自然の跡も存在してたのだ。あれは、過去に文明があった土地と言えよう。
「すっげぇ! 本当にあるんだなぁそんなの!」
「あぁ。魔力が尽きなければ、もっと色々見たかったが……僕が見れたのは、こんな所だった」
マールは少し悔しそうだった。そこまで見れて詳細を確認できなかったのだ、無理もない。
だが、それでも十分な収穫だった。マールの魔力は底まで使えばそこまで出来る、今の段階でそれなら、将来はどうなるのだろうか。もしかしたら、あのエテルノと張る魔法使いになるかもしれない。
「お前、マジですげぇよな! なんかこう、うん。すっげぇよ!」
パデラは無邪気に笑い、相棒への語彙のない称賛を送る。その言葉にマールの表情が動くことは無かったが、心なしか満更でもなさそうに見えた。
「パデラ」
「ん? 今度はなんだぁ?」
「海の向こう側、興味ないか?」
何でもないように告げられた事。それが何を意味するか分かったパデラは、口にしていた肉を飲み、目を輝かせた。
また魔力切れをするんじゃないかとか無茶すんなとか、色々言うべき事はあった。しかし、初動で勝ったのは年相応の好奇心だったのだ。
「ま、それはまた今度な。今日はもうダメだ!」
「分かってるよ」
なんとなく、マールの顔が顰められたように見えた。彼は魔力切れを起こした直ぐ後にまた膨大な魔力を消耗しようとするようなバカではない、そんな事はパデラも分かっていたが。なんとなくその反応が面白くてケラケラと笑った。ついでに言えば、ピピルも同じような表情で笑っていた。
そうしている内に夕食を終え、二人と二匹でごちそうさまをする。今日の授業は昼から開始の代わり収量が少し遅めのスケジュールであった事もあり、その頃には既に八時だった。
普段マールが寝るのはこの時間だが、今日は眺眼で魔力の消耗が激しかったせいか尚の事眠そうで、食器を片すと直ぐにそのつもりになっている。
「僕は寝る」
「おいおい、お風呂まだ入ってねぇだろ?」
「歯磨きはする」
「それも大事だが、お風呂も大事だぜ!」
しかし、この感じだとお風呂で寝てしまいそうだ、そうなったら風邪を引いてしまう。パデラは考え、思い付いた。
「んじゃ、一緒に入るか! 寝そうになったら起こしてやるぜ」
その表情は、名案だと言わんばかりに自信ありげだ。確かに、それであればマールが湯舟で寝てしまうと言う事態は起こらないだろう。
「……そこまでしなくていい。明日の朝に入る」
しかし、マールは拒否をした。汗をかいた訳でも特段汚れた訳ではない、朝風呂で済ませて大丈夫だろうと。だがパデラがそれを良しとする訳がなかった。
「ダーメ! いいか? 風呂は魔力の回復に良いんだ。それでなくとも体をあっためる事で健康的な効果も、」
「分かった分かった。入ればいいんだろ、分かったよ」
面倒なスイッチを押してしまった。長話は御免だと、今にも効能を説明し始めたパデラを押し返す。
「それならよろしい」
笑ったパデラはどこか満足気で、面倒くさがるマールの手を引いていった。
使い魔二匹は、主達が脱衣所に入ったのを見送ると直ぐに顔を見合わせて話し出す。
『ははっ、さっきもそうだったけど、パデラがマールの母ちゃんにみえるぜ』
『世話焼きなのだろうな。だが我から言わせれば、主にはあぁいう相手が必要だろう』
『確かに、一人だと必要最低限の生活で生きててそー』
と、若干不名誉な謂れをしているマールだが、その時丁度、脱いだ服を投げ捨てて案の定パデラに「かごに入れろよー?」と苦笑いをされていた。
「ッチ。そうだ、今、魔法使えないんだった……」
「お前、いつも投げて魔法で操作してかごに入れてたん? それ逆にめんどうじゃね?」
「うっせぇ、とっとと入るぞ」
この反応、言われて気付いたのかもしれない、魔力を使えば何でも楽になるというのはよくある勘違いだが。
マールはまたもや魔法を使ってお湯を張ろうとして、魔法は使えない事を思い出したようだ。
「パデラ」
「はいはい、今やるから待ってろー」
服をかごに入れ、中に入る。魔力を水に変え湯舟を満たし、炎の応用でお湯にする。四十度丁度で止めれば、お風呂の完成だ。
「ほら、出来たぜ」
「あぁ……」
二人が湯船に入る。そこで彼等は気が付いた。
「少し狭い」
「まーそりゃそっかぁ。広めとは言え、一人用だろうしなぁ」
このお風呂は身長が高い人でも足を伸ばせるように大き目の設計にされているが、それなりに大きくなった少年を二人緩やかに浸からせるのは難しい。しかし、それでもある程度は猶予があるのだからいい方だろう。
パデラは「あぁー」と気持ちよさそうな声を漏らし、しっかりと肩まで浸かる。そして淵に頬杖を突き、眠気と湯の気持ちよさで柔らかい表情をしているマールに言う。
「しっかしマール、お前なんでもかんでもまず魔力使おうとするのは良くないぜ?」
「だけどお前、マジで地力はねぇんだなぁ……」
マールの手を拾って、興味深そうに言う。小さくて女子らしさがあるように感じるが、実際の女子と比べたらしっかりと男の子の手だろう。だがそれでも、魔力がない状態の彼は見るからに……言葉を選ばずに言えば、非力だ。
マールはそんなパデラの考えが表情で分かったようで、ムッと彼の手を握る。しかし、魔力の籠められていない彼の握力は弱かった。これは、マッサージに丁度いいくらいだろうか。お風呂の中で体がポカポカしているから猶更そう思える。
「え、お前それ、本気でやってるんだよな?」
「……黙れバカ」
「もー、直ぐそういう言葉使うー」
手を放してやると、そのまま戯れで彼の胸を押してみた。するとどうだ、パデラ自身そこまで力を込めていないと言うのに、マールの体は大きくグラついた。
「体幹っくそよわじゃねぇか。やっぱもう少し地力もあった方が良いぜ。なんなら今度、体力づくりでもするか? ランニングとか」
「断る」
迷う事もしないようだ。だが、パデラもそこで引くことはしなかった。
「だけどよ」
「いいんだよ、地力がなくても。僕には魔力がある、今の状況が例外なだけだ」
反論を聞くまでもなく、面倒くさそうに突っぱねる。パデラはそんな彼にそういう問題じゃないと言いたげな表情を向けたが、このまま話しても変わらないと思ったのか、その言葉を口にはしなかった。
「ま、とりあえずそれでいっか。んだけど、また次にはめ外して魔力切れ起こしたらマジでやるからな!」
「はいはい……」
マールは眠気交じりの適当な返事をし、目を閉じる。話していて忘れてしまったが、そう言えば今の彼は眠いのだと思い出し、パデラは「ここまでにしとっかぁ」と呟き、彼を正面から抱えて立ち上がる。
そんな突然の事に驚き、眠気など簡単に吹っ飛んだ。しかしそんなマールに対し、パデラは別の事でビックリして声を上げた。
「軽っ!? え、お前軽っ! 三十五キロってお前、いくらなんでも軽すぎだぜ!」
「何で持っただけで分かるんだよ僕の重さを!」
「魔法だぜ!」
マールに限って魔力を感じられなかったとは、余程持ち上げられた事に動揺したようだ。風呂の中でお互い勿論裸な訳で、それでほぼお姫様抱っこの状態だ、猶更いたたまれないのだろう。彼の顔が赤く見えたのは、お湯で暖められたからではなさそうだ。
「いいから降ろせよ、バカ……」
そう訴えてくるマールの声から感じたちょっとしたいじらしさを意外に思いながらも、パデラは彼の要望通りにその体を降ろしてやり、自分は再び湯船に座る。お風呂のマットの上に座った彼は、ふんと息を吐き立てた膝に頬杖を突いた。そうしてまた魔力を使ってシャワーを動かそうとして、魔力が使えない事を思い出し舌打ちをした。
流石に三回目となると、パデラもちょっと引いてしまった。
「お前、マジで魔法に頼りっきりなんだな……」
「使えるもん使って何が悪い」
「わあ、すっげぇ開き直った」
パデラがシャワーを取って渡してやると、彼は申し訳程度のお礼を言い、お湯を浴びる。
不思議な事に、体が水分を持つだけで印象は少し変わってくるものだ。普段意識して彼の顔を見ないから分からなかったが、マールは結構美形なのだろう。儚げな雰囲気すら感じるマールの横顔を目に、パデラは手を伸ばし、その首筋をつーっとなぞる。
「お前、肌白いなぁ」
マールは声にならない声を上げて体を震わせると、咄嗟になぞられた部分を手で隠し、パデラを睨む。
「はは、わりぃわりぃ。続けていいぞ」
口では悪いと言っているが、笑ってるせいで悪びれている感じは全くしない。パデラからすれば今の反応が愉快だったのだろうが。やられた本人からすればとんだ迷惑な事だ。
マールは顰めたまま顔を逸らし、また体を洗う。普段魔力を使ってモノを引き寄せたり出したりしているが、今日は自分の手でやる。備え付けのシャンプーを使い、かしゃかしゃと頭を洗っていると、パデラが口を突っ込んでくる。
「マール、洗い方よくないぜー? きちんと頭皮洗えてねぇぞそれ。あ、だからって強くやり過ぎるなよ!」
さながら母親のような事を言ってくる彼に、マールはジト目を向ける。
「お前……マジで面倒な奴だな」
「おう、ありがとな」
「今のを褒め言葉として受け取ったのなら、お前は本当にバカだ」
だがパデラはバカと言われて凹む質ではなく、面倒な奴と言われてもこんな笑顔で返してくる。本当に毒が効かない奴だ。
だが、マールには理解できない。パデラが好きな料理だって、魔法があればあんな自分の手を動かしてやる必要もないのだ。
「お前は、それだけ魔力があるのに、なんで使わないんだ」
問えば、パデラは笑う。
「ははっ。そりゃ、俺がそうしたいからそうしてるだけだぜ」
「そりゃ、魔力使えばなんだって早いし楽だ。出来るならそれでやったって問題はないぜ。んだけどー、例えば、手間暇かけて作る料理ってのは違うもんだぜ?」
好きだからやっている、パデラからすればそれ以上の理由は無い。だが、マールは今一ぴんと来ていなさそうだ。これは、明確な考え方の違いだろう。
「てか、俺も全く使わない訳じゃねぇしな! それでこそ、風呂を沸かすのは魔力使うし。だってそっちの方が早えもん」
ケラケラと笑うパデラに、マールは「だろうな」と返す。
「んだけどそれとこれは話が別だ。マール、俺が洗ってやる」
「はぁ? 別に良いって」
「よくないー、俺がモヤモヤすんの!」
こうなればやらせないとうるさそうだとし、何も自分の手間が増える訳ではないからいいかと、マールは「はいはい……」と適当な返事で受け入れる。なぜだか上機嫌なパデラに頭を洗われながら、薄らと残る眠気を感じていた。
「ほら、終わったぜ。なんなら背中も流してやろうか?」
「頼んだ」
最初は渋々だったが、人にやってもらうと言うのは楽でいい。その事を覚えたマールは、パデラの言うついでの提案を快く受け入れた。
「おうよ!」
パデラは嬉しそうに答えた。
なんだか、懐かない猫が懐いたような気分だ。上機嫌にマールを洗ってやり、自分もちゃちゃっと事を済ませてお風呂から上がった。ついでに髪も乾かしてやり、寝る準備は万端だ。
「おし、もう寝ていいぞマール」
「あぁ」
マールは小さく欠伸をしながらベッドに足を運び、こてんと横になる。やはりどうしても眠かったようで、直ぐに寝息が聞こえた。
『やはり主の相棒は、「太陽の光」であるお前が相応しいな』
そんな主を横目に、ディータはそう口にした。
「ははっ、そりゃよかったぜ! んで、その太陽の光ってのはなんだ?」
嬉しい評価に喜ぶと同時に、知らない単語に首を傾げたパデラの足元で、ピピルがここぞとばかりに主張した。
『それならオレも知ってる! 魔力がな、あったかくてな、すっげぇ心地いいんだ!』
『概ねそういうのだな。希少な魔力の形質で、生まれ持つ者の多くには、明るく元気で、バ……いや。おおらかであるという特徴が見られる』
「ディータ、今バカって言いかけたろ? 別に否定はしないからハッキリ言ってくれていいんだぜ」
『では率直に言おう。多くの太陽の光は、あまり頭が良くない』
「ははっ、マジでハッキリ言ったなぁ」
まさか本当に率直に言ってくるとは思っておらず、微苦笑を浮かべた。だが、まさかそんな事で怒りやしない。それこそディータの言い換えたように、彼はおおらかなのだ。
それに、バカは本人も自覚している事だ。
「へー、俺って特殊なんだなぁ。悪い気はしねぇな」
パデラは無邪気に笑った。
昔から、父にお前を抱っこしてると癒されると言われていた。それはきっと、自分が彼の息子だからだろうと思っていたのだが、そういった体質もあったのかもしれない。思えば、喧嘩をしている子達を止めようと間に入れば、大抵の場合はお互いに態度を軟化させて仲直りをしていたのだ。
太陽の光。初めて聞いた事だが、自分がそれだと思うと少し浮足立つ。幼い頃、周りの大人から強いねと褒められた時と同じような感覚だ。
「もしかして、マールと仲良くなれたのはこの体質のお陰って事か? だったら、ずっとそばにいればもっと仲良くなれるかなぁ」
マールの態度は、最初に思っていた以上に早く柔らかくなった。それはきっと、この体質があるからだろう。であるなら、この出会いは運命だ。なんて、そんなロマンティック染みた事を考えたパデラはニコニコと笑い、夕食に使った食器の片付けをする。
実際ディータからすれば、彼は自身の主に必要な存在。奇跡か運命か、そんな言葉を使って然るべきだろうと思える。
ほんの少し、羨ましい。
『相棒というのは、良いモノだな』
そんな心を漏らすと、ピピルが尻尾をピンと立てながら頭で突いてくる。突然何だと向いてみれば、彼はは膨れた顔でこちらを見ている。
『オレを忘れんなよ~。オレ達も最高の相棒だぜ!』
ディータの言葉から自分が相棒だと思われてないと感じたのかもしれない、それが嫌だったのか何なのか続けてペシペシと尻尾で叩いてくる。ディータは、そんなピピルを見開いた目に映した。
『おい、なんでそんな反応すんだよ! 主どーしが相棒なら、その使い魔だって相棒だろーがよぉ。使い魔コンビとかめちゃよくね? 爬虫類系って珍しいじゃん!』
視界の中で、ピピルはにへっと腑抜けた笑顔を見せる。
『お前がそう思いたいのなら、勝手に思っておけ』
『えぇ~! お前からも思ってくれないとヤだぜ! 相棒だろ、な!?』
『うるさいぞ。主が起きてしまうだろうが……』
べたべたとひっついてくる彼を、尻尾で軽くあしらう。一言「相棒だ」と言えば満足して大人しくなるかも……いや、悪化するだろう。嬉しくてはしゃぐに違いない、このバカ使い魔は。
心を取り戻してから久しいが、今感じるこの気持ちは、何だかよく分からなかった。
傍から見れば仲良くくっつきあっている二匹に、パデラは「お前等仲いいなぁ」と笑って拭いた食器を棚に戻した。
「それじゃ、俺ももう寝るからなー」
『おう!』
『あぁ。おやすみ』
パデラはごく自然にマールのいるベッドに入る。それを見たピピルは、本来パデラが使うベッドにダイブし、尻尾を動かす事で自身の相棒を呼び掛けた。
ディータは呆れ半分で笑みを浮かべ、呼びかけに応じる。布団に潜った二匹はベッドからはみ出してしまう尻尾を丸めて眠りに付く。そうして今日も夜を迎えたのだ。