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三日の朝、マールは起きて真っ先に時計を確認してみた。七時十三分、起きる時間としては遅くも早くもない。
台所から味噌汁の香りがすると思ったら、そこで奴が料理をしている。朝ご飯の準備をしているようだ。
ぼーっとしていると、ディータがベッドにひょいと身を乗り出す。
『主よ、おはよう』
『んあ、パデラ~。マールおきたー!』
「お、そうか! 朝ご飯作ってるから、少し待っててなー」
朝からきちんと料理して、ご丁寧なモノだ。そんな事を思いながらベッドから降りて、水を飲みに行く。
綺麗に整えられた形の卵焼きが計六個焼かれている、今日のおかずはこれのようだ。
卵焼きに目が行くマールを横目に、パデラは気が付いた。もしやこいつ、これが好物なのでは? と。
「お前もしかして卵焼き好きなんか?」
「……別に」
ふいっと顔を逸らして、さっさと水を飲んで行った。
否定はされたが、この感じは間違いない。上機嫌に鼻歌を歌うパデラに、ピピルが『腹減った~』と催促に向かった。
そんな事があったせいか、その日の朝ごはんは露骨に顔を凝視された。反応を伺っているのだろうが、こうも見られると食べづらい。
「おい、パデラ」
「あぁ、すまんな! 気にせず食べてくれ」
慌てて視線を戻すとパデラ。なんとも分かりやすい事だろうか、そう思いながらマールは綺麗に形成された卵焼きを口に入れる。
その時ほんの少しだけ、表情が和らいでいた。
「……!」
胃袋掴んで心を得ろ。母から教わった言葉にこう言うのがある。要するに、どんな相手でも舌を把握できればこっちの勝ちという事だ。
「んだよニコニコして。気色悪い」
「えー、そっかぁ?」
パデラは笑いながらわざとらしく聞き返し、自分で作ったそれを口にする。砂糖を混ぜた味付けは程よく甘く、美味しかった。
そんな風に朝を過ごして、そろそろ授業に向かう時間になった。今日は昨日と違い、集合場所は教室ではない。入学式が行われた場所と同じ、闘技場スペースだ。
この闘技場は学校敷地内にあるが、学校内外に問わず様々な行事で使用される場所。ここで授業をすると言う事は、当然だが戦闘をすると言う事だ。これに関しては書いてあった、それぞれの戦闘能力を確かめる為に、ペアで手合わせをするのだ。大方の素質は入学試験の時には把握しているだろうが、ここでは現段階でどれ程の実技が伴うかが見られる。
今回は、ランダム順番のようだ。配られたプリントに書かれた手合わせ順では、実力と魔力の質共に規則性は見当たらない。
だが、一つ確かに意図的に組まれたであろう事はある。
「俺達は最後かー、緊張するなぁ~」
パデラがとても緊張しているとは思えない口調で話している通り、自分達は最後にやる事になっているのだ。
まぁ無理もない、途中でやってしまったら次の組が可哀想だ。
パデラは返事をされなかったのにも拘らず、機嫌を損ねずに楽しそうに同級生の戦闘を見ている。
それは何もパデラだけではない。他の生徒達も、クラスメイトの実力には興味があるようで。ついでに言えば同伴している使い魔達も、自分の主が戦っている時は特に盛り上がっている。
しかし、マールはそれに対して興味がなかった。なんとも思わずそれを眺めている。ほぼ意識が保たれている状態ではなかったのだろう、一組十分、それを自分達除く十四組。その時間は短いようにも長いようにも感じたが、休憩時間を入れても所詮は二時間と三十分程ちょっとだ。
サフィラはクリップボードに挟まれた紙に手早く結果を記録すると、生徒達の席に目をやる。
「次の組、お願いします。パデラ、マール、前へ」
ついに自分達の番が回って来た。グラウンドに立つと、正面にワクワクしているパデラがはっきりと見える。
こんな馬鹿そうな奴にこう言うのは本当に不服だが、こいつは強いと一目見ただけで分かるのだ。
「では、初めてください」
開始の合図と共に動き出す。氷と雷の二つがぶつかり合い、魔力はお互いの術を消しあった。その反応により、魔力は霧となり辺りを覆い尽くす。
「わっ、すっげぇ霧。魔力ってこんなんになるんか……」
パデラは注意深く霧の中に意識をやり、向かってくる気配を避ける。これは、氷柱だ。気が付いた途端に次々とそれが襲い掛かってくる。
避けられた氷柱は、地面に突き刺さると同時にその周りを凍らせていく。最後の氷柱がパデラの直ぐ前に突き刺さり、一拍の間が開く。
向こうの魔法が終わったのか。そう思ったパデラが行動に移る前に、間もなく発動された風魔法により辺りの霧が消し飛び、その風圧に目を瞑ると、背後に先程まで無かったマールの気配を感じた。
「なんだ、こんなモンか? 見掛け倒しはとんだ興醒めだぞ」
「ははっ。言ってくれてんねぇ、反撃の余地すらなかったってのによっ!」
パデラは両手に魔力を集め、空に放つ。魔力は宙で陣を展開し、相手に目掛け無数の雷を落とした。
マールはそれを薄い魔力の膜で防ぎ、魔力を吸収する。雷に変換された魔力が純粋な魔力に混ざり、その力でパデラの足元に魔方陣を展開した。
感じる魔力に、パデラは慌てて身を引く。その瞬間に陣から魔力の波動が天を突きさすように伸びていった。
下手な大人より上質で、強大な魔力。なんとも、楽しくなって来た。パデラは思わず口角を上げる。
手のひらに集めた魔力は、雷に変換されバチバチと音を立てている。
「おっしゃマール! とっておきだぜ、くらってみな!」
突き付けた手を中心に、自分の身長より一回り程大きい魔方陣を展開する。陣はぐるりと勢いよく回り出し、ありとあらゆる所から雷魔力を発射させた。
雷は無秩序に発せられ、タイミングも発生場所もパターンがない。しかし、マールはそれらを予測しているかのように全て先んじて封じていた。その場から一切動かず立ったまま全てを防ぐその姿は、正に強者そのものであった。
だが、パデラは知っている。あぁ言った攻撃を防ぐために張る結界は、魔力量により限界がある。要するに、結界が破れるまで殴り続ければいいと言う事だ。
パデラは陣から手を離し、目にも止まらぬ速さで駆け抜ける。そして相手の結界に、直接魔力を打ち込む。その一撃が仕留めとなり、マールを守っていた結界は破れ、すかさずけしかける。
雷はマールを突き、大きな一撃を残す。
「っしゃ! 一本貰いぃ」
そうして歓喜の言葉を上げたその時、
「行け」
マールのその一声を合図に、地面に広がった氷が一斉に集まり、大きな蛇のようになったそれは一瞬の隙も見せずにパデラに食らいついた。
「止めっ!」
サフィラが言い放つと同時に、辺りで牙をむいていた魔力が一斉に静まり、二人の身体へ戻って行く。
強制終了と言ったらいいだろう。パデラは収まった魔力に首を傾げ、サフィラに尋ねる。
「あれ、まだ十分もたってないよな?」
「このままでは怪我人が出てしまいます。これは飽く迄も実力把握の為の手合わせですので、申し訳ありませんが中断させていただきました」
確かに、小手試しの手合わせで乗り過ぎたかもしれない。マールはそう思いながら、体内の魔力を鎮静化させる。二人の戦闘を熱中して観戦していた生徒たちは、その余韻に浸っている様子。
意外にも、悪い気分ではなかった。
そんな時、パチパチと手を叩く音が聞こえる。
「すばらしいですね! 新入生のなかにこれほど優れた生徒がいるとは、暗竜様もすごくよろこばれる事でしょう」
弾み気味の声で称賛するのは、学園長のハクだった。ハクの隣についている大烏も、こくりと頷いて口を開く。
『吾からしても、見込みのある人材であると感じた。それはまるで磨かれる前の原石、将来が楽しみである』
思えば、鳥類系使い魔はそれなりの数がいるが、烏と言うのは彼女の使い魔くらいだ。パデラがじーっとその姿を見詰めると、烏は少し照れたように右の翼で顔を隠した。
「うふふ。この子の興味があるのですか? この子はね、コクって名前なんですよ~。よろしければ、みなさんも近くで見てください。カラスの使い魔はこの子しかいないのですよ~」
照れている彼に微笑み、ハクは席についている生徒たちに声を掛ける。コクは何を言ってくれると言いたげにその頭を主に向けたが、子ども達は直ぐに集まって来た。
四方八方から降り注ぐ視線と感想。意外とモフモフしてるーだとか、結構つぶらな瞳なんだぁだとか、黒くてカッコいいだとか。こうも見られると、なんとも居たたまれない。
「皆さん、あまりコクさんに迷惑かけてはいけませんよ」
サフィラがそんな様子を察して言いつけ、注意された生徒達は素直に返事をして引き下がる。
『感謝する、サフィラよ』
コクは小声で感謝を告げると、何事も無かったかのようなすまし顔を浮かべた。
ハクはそんな使い魔にころころと笑うと、自然と集まった生徒達に向き直る。
「では、今後のみなさんの成長を期待していますよ。コク、行きましょう」
背中をぽんと叩いて合図を出す。
『相分かった。では、吾等はここらで失礼しよう』
姿勢を低くしたコクの背中によいしょっと声を漏らして座る。しっかりと乗った事を確認すると、コクはハクを乗せてゆっくりと上昇した。
「それでは、またいつか~」
そうしてハクは、ニコニコと笑いながら小さく手を振って飛んで行った。見た目は大人の女性だが、なんだか子どもっぽさを感じる人だ。
「さて、学園長もお戻りになられましたし、本日の授業はここまでです。皆さん、お疲れ様でした。初めての戦闘の方もいらっしゃると思いますが、よく休んで明日の授業は万全な状態でご出席くださいね」
サフィラが締めの挨拶を済ませ、今回の授業は終わりとなった。
戦闘慣れしてない生徒が過度に疲れる可能性を配慮しての事だろう、日常生活で使う魔法と違って戦闘魔法はそれなりに力を使う。
とは言え、マールからすれば物足りないくらいだが。また、手合わせくらいしてやってもいいかもしれない。そう思っていると、パデラは同じような事を言いだす。
「もっと戦いたかったなぁー。な、マール! また機会があったら戦おうぜ!」
拳を突きだし、おそらくグータッチを求めているのだろう。マールはそれを理解した上で、パーの手を出した。
「僕の勝ちだ」
一言そう口にすると、パデラを置いてすたすたと歩きだす。
「あっ、おい今の別にジャンケンがしたかったわけじゃねぇってー」
パデラは、ちゃっちゃと行ってしまう相棒を追いかけようとして躓きそうになった。使い魔はそんな主たちを見て笑い、速足で後を付いて行った。
そんな彼等を見送るサフィラの横で、エーベネは彼女の手元にある記録を覗く。
『今年はいつもと比べて質が良いわね。あの「天性の才能」がいるからかしら』
「そうね。全体的に例年の平均を上回っているわ、そうだったとしても可笑しくないでしょう」
サフィラも改めて一通り見てみた。この記録だと一見飛び出て優秀な子が二人いるだけのように思えるが、これでも教師歴うんちゃら年、この並びが例年と比べて優秀である事は分かる。
一人の強大な魔力による相乗効果だろうか。はっきりとそう言えるわけではないが、魔力の及ぼす効果の全ては最早理解しようがない。
考えているサフィラの教師としての横顔は、申し分なく美しい。黙っていれば一番の美人だと言うのに。エーベネは声に出さずに溜息を付いた。
「なにはともあれ暗竜様に報告しないとね。エーベネ、部屋に戻るわよ」
『分かったわ』
珍しく真面目な主に内心戸惑ったりもしたが、その事についてはなにも言及せずに歩き出した彼女の後を追った。
「しっかし、お前はすっげぇよな! 雷電直撃しても平気そうだったし、ホントすっげぇよお前」
部屋に戻ったパデラは、語彙のない感想をほぼ一歩的に語り掛けていた。
しかしディータから言わせれば、澄ましているように見えるマールもほんの少しだけ楽しさの余韻を感じているのだろう。伝わる魔力からそう思えた。
ディータは机にひょいと半身を乗り出し、マールに尋ねる。
『主よ。主の歳でその魔力は中々例を見ないものだが、魔力覚醒時期はいつだ?』
これは一般的に三歳から五歳の間に起こる現象だ。しかし、強者であればあるほどその時期は速い傾向にある。
彼の質問に、マールは端的に答えた。
「三ヶ月」
「……へ?」
「三ヶ月だ」
間抜けな声を漏らしたパデラにもう一度告げるが、それでも尚理解しがたそうだ。こいつがバカだからというより、マールの言う事が常識外れ過ぎるのだ。
『それではまだ生れて間もない赤子ではないか。そんなにも早くに魔力を持つ事があるとは、驚きだ』
目を丸くしているディータの横で、ピピルはぶんぶんとしっぽを振りながら笑う。
『すっげぇなマール。パデラは? パデラはいつ覚醒した?』
「俺も二歳だからはやい方だけど、三か月を出されちゃなぁ」
『それでもすっげぇじゃん!』
ディータも同意して頷き、その通りだと言う。パデラは微苦笑で答えたが、それでも一般より大分早い覚醒だ。
解ってはいるが、やはり三ヶ月という数字を出された後では霞む。
という事は彼の黒髪だった頃の写真はほぼないだろう。人は魔力覚醒が起こると髪と瞳の色が変わる、その時点で彼はこの色合いなのだ。少し残念だ。黒髪のちびっ子マール、正直見てみたかった。
そんな事を考えているのが伝わってしまったのかもしれない。マールはパデラに訝しげな表情を向けている。
そんな視線には気が付かないふりをして、パデラは話を続ける。
「あ、そういや父さんが言ってたな。天性の才能っての? これお前の事だろ!」
なんの他意もないその発言から、空気が凍てついた事は流石のバカでも分かった。凍てついた、というのは半分比喩であるが半分は事実だ。実際にこの空間の温度は体感で分かる程下がっている。
これはマールの魔力だ。しかし純粋なそれではない。魔法を発動した時の変化した後の魔力、どちらかと言うとそちらに近かった。
何かしらの地雷を踏んだ事を察したパデラは慌てて彼の手を取って自身の魔力を伝わせる。魔力の冷たさは、パデラの温かさで中和され、場の魔力が正常に戻る。
「何でもない。気にするな」
マールの視線が微かに動くと、パデラが口を開く前に言い放つ。
「あっ、マール!」
呼びかけられたにも拘らず、彼は部屋から出ていった。
『マール、どしたんだろ?』
『うむ……』
ディータは考え込むように俯き、ピピルも心配そうにしっぽをしゅんとさせる。
そんな二匹を目に、パデラも眉を曇らす。しょんぼりとした感情から生じる魔力は、更に気分を落ち込ませる要因になる。
パデラは考え、手をぽんと叩く。
「おっし。うまいモン作って待っておくか! ピピル、ディータ、今日の夕飯はカレーにするぞ!」
『おっ、カレー! そりゃマールもめちゃよろこぶな! オレも喜ぶもん!』
カレーというお子様大喜びのメニューを聞き、ピピルは嬉しそうに尻尾を立てる。
砂糖で味付けした卵焼きでいい反応を見せたのだ、好みの傾向は掴めてきている。カレーが好きかは知らないが、辛口でなければ大丈夫だろう。パデラは早速準備を始める為、食材の確認をした。
「用意すんのは、ルーとタマネギだな。あとそうだ、タマゴとチーズも買っておくか!」
『それは何に使うのだ?』
「カレーに乗せるんだ。味がマイルドになって辛いモノがダメな奴でもおいしく食べれるようになるんだぜ。あと、デザートにプリンでも作ろうかと思ってな!」
卵焼きが好きなら卵料理が好きだとみてもいいだろう。そうなると、勿論プリンも好きなはずだ。
落ち込んでいる人には美味しい料理を食べさせてあげるのが一番。これも母の教えだ。
『それはいいな。主は好きだと思うぞ』
「だよな! ほんじゃ俺、買い物行ってくるわ」
『いってらっしゃーい!』
『気を付けていくのだぞー』
使い魔二匹の見送りに手を振り、駆け足気味に買い物に向かった。転移魔法でそこまで行った方が早いのだが、買い物前のこの歩いている時間も好きなのだ。
ヤマコウのある複合施設は生徒寮のエントランスから渡り廊下を通った先にある。他にも様々なお店やジムが入っているこの施設だが、学校関係者以外も入店可能だ。
そして生徒が施設内の一部店舗で買い物をする場合、なんと無料になるのだ。主な食料品は、魔力照合で本人確認をするだけで代金を払ったと同じ扱いになる。これがなんとも良い機能だ。対応外の物もあるから、万が一の為に財布は持ったが。
店に着き、手際よく食材を買いだす。どこの棚がどの商品かなどは既に把握済みだ、パパっと済ませて空いているレジに並ぶ。
「次の方どうぞー」
店員に呼ばれてレジ前まで行き、魔力照合の液晶に手を触れる。レジのお姉さんは液晶に映し出された情報を確認すると、そのまま袋にいれた商品を差し出した。
「はい、生徒さんですね。ありがとうございました」
「ありがとうございますー」
ニコリと笑みを浮かべて袋を受け取る。これで食材は揃った、後は戻って料理をするだけだ。
店を出ると、視界の先に知った後ろ姿があった。パデラはそれを目にした途端にパアッと笑みを浮かべ、転移魔法でその真後ろに飛んだ。
「マールーっ!」
背中を押されたマールはかなり大きくよろけた。反射の魔力で持ち直し、色々と察した彼はあからさまに嫌そうな顔をしている。
「お前か……」
「ははっ、キグーだな! 今部屋に戻るとこなんだけど、一緒に行くか?」
「いらん」
ふいっと顔を逸らして先に進み、パデラもその後を付いて行く。するとマールは少し先まで歩いた所で立ち止まった。
「なぜ、付いてくる……」
「んー? どこに行くのかなーって」
マールはその答えに溜息を付く。
「部屋、戻るぞ」
「おう!」
パデラは嬉しそうに隣に並び、一緒に部屋に戻った。
「あ、そうだマール! カレーは好きか? 今日の夕飯はそれなんだけどよ」
歩きながら問いかけると、マールの表情がほんの少しだけ柔らかくなる。
「カレーか。悪くない」
そう答えると、少し早まった脚でパデラをこして進んで行く。
それら全て微々たる変化ではあったが、それでも何となく、牛歩ながら詰めていけているような感覚で、とても嬉しかった。
そんな事があったからか、その日の料理はいつも以上に気合が入った。今は無理でも、いつか「美味しい」と言わせて、そして食事の楽しさと言うのを解らせるのだ。そんな意気込みをしながら調理を続けていると、自分で見ても美味しそうなカレーが出来上がった。
カレー特有の食欲がそそられる香りが漂う。その香りだけでピピルは嬉しそうに尻尾を立て、パデラの足元でそれを見上げる。
『カレー! オレの大盛りで頼む!』
『我は普通でいいぞ。肉は多めの方がいい』
二匹がそれぞれの要求をする中、ベッドの上に座っていたマールもやって来て鍋を覗いた。
その表情では何を考えているのか分からなかったが、次に言われた一言で大まか察する。
「ニンジンは、食べないぞ」
「ははっ、大丈夫だぜマール。カレーのニンジンは美味しいからよ。それに、やわらかくなるようにしてるぜ」
そうは言ってみたがマールは食べてくれるだろうか。しかしカレーに入っているニンジンは比較的食べやすい方だ、何せパデラ本人がこれでニンジンを克服したのだから。
少量を小皿にすくい、彼に差し出す。
「ちょっと味見するか? ほら」
「……まぁ、いいんじゃない」
一瞬の間が空いて、そんな感想が漏らされる。視線を向けると、マールは隠すように踵を返す。
「出来たら言え。風呂入る」
「おー、もう入るのかー? 後で俺も入るから保温魔法やっといてくれよー」
返事はなかったが、そのくらいはやっといてくれるはずだ。最悪やってくれなくとも、自分でもう一度温めればいいだけだ。
あまり長湯させるとまたのぼせてしまいそうだし、三十分くらい経ったら声をかけよう。
鍋の火を切ってから椅子に座り、テレビを付けてみる。面白そうな番組は何もやっていなかったから、あまり興味はない刑事ドラマを訳も分からず眺めていた。
一時間ドラマの後半に差し掛かったあたりだ、これを見終わった後にマールを呼べば丁度いい時間だろう。そんな風にタイマーのような感覚でドラマを流していると、二匹も一緒に見始める。
『お、懐かしいな、我が昔仕えていた奴の子孫だ。顔が似ている』
ディータの言葉を聞いて、彼が示した俳優に目を向けてみる。あまりテレビを見ないパデラでも知っているような名俳優だ、この作品でも名探偵という一番重要な主役という立ち位置にいる。
彼の先祖はどんな奴だったのだろうか、そんなちょっとした興味が沸いていると、ピピルがパデラとは別の所で驚く。
『ほへー。お前昔の主覚えてんのか、さすがだな!』
『言っておくが、普通は覚えているものなのだぞ』
それは、呆れたと言いたげな目だった。
「え、そうなん? お前等スゲェな」
使い魔についての知識はある方だと思っていたが、これは初耳。パデラが聞き返すと、ディータは視線を彼に向けて頷く。
『あぁ。使い魔と主は魔力で繋がっているからな、そう簡単に忘れる事はない。ピピルが馬鹿な頭脳をしているだけだ』
『あー、オレの事バカって言ったー! バカって言ったほうがバカだもん!』
『言ってろ。少なくとも、お前よりは良い』
幼稚なピピルにマウントを取るディータは、心なしか楽しそうだ。
ドラマを聞き流しながら、流れで続く二匹の会話を聞きながら一緒に話に混ざる。そうしてテレビの中でエンディングが流れ始めた時、パデラはあっと声を漏らして立ち上がる。
「マールぅー! そろそろあがれぇー! 長湯するとまたのぼせるぞ~!」
声を上げながら戸を開け、脱衣所から曇りガラスの前でもう一度彼を呼ぶ。そうすると、中で湯が動く音が聞こえた。
「分かった分かった、うるさいなもう……」
「ご飯用意して待ってるぜー」
それから配膳をして待っていると、パジャマに着替えたマールが髪を拭きながら出てくる。
「お、マール! 丁度用意出来たところだぜ、ほら座れ座れ~いただきますするぞ! 甘口にしといたから安心しろ、あとニンジンも食べやすいようにしてやったから、きちんと食うんだぞー」
「はいはい」
そこらにタオルを投げて座る。パデラが「投げるなぁ」と注意してきたが、面倒だから無視して手を合わせた。
用意されていたスプーンでルーとご飯をすくう。一口食べた後にまた続けて食べていく様子を見る限り、嫌いではなかったのだろう。
「どうだ、うまいか?」
「……悪くない」
「もう、意地でもおいしいって言わない気かぁ? 覚悟しておけ、絶対言わせてやるんだからな!」
パデラは宣戦布告かのように意気揚々と宣言した。マールはそれに対して何も言わなかったが、態度や表情に出なくとも魔力は嘘を付かない。本人が意識出来ない範疇、所謂「無意識領域」内の魔力変化が確かに感じられたのだ。しかも、昨日よりも変化が大きい気がする。
さっきはどうなるかと思ったが、大丈夫そうだ。やはり美味しい食事はいかなる事態も良い方向に向ける万能薬だ。
食後、マールの好みについての考察をしながら片付けと洗い物を済ませる。
「あ、マール。明日の朝ご飯の事だけどよ」
慣れた作業は直ぐに終わり、エプソンの紐を解きながら振り返る。
あれ、いない。と思ったらベッドにいた。まだ八時だと言うのに、何とも早い就寝だろうか。部屋の明かりも付いているが、気にせず眠っている。
「ははっ、相変わらず寝るのはえぇなぁ……」
その場で明かりを橙に落としてやって、ついでに布団もかけ直しておく。
「おやすみなさい、マール」
寝ている相手におやすみと言っても聞こえないだろうが、大事な挨拶はしなければ気が済まないのだ。
時間は十時程になり、そろそろ自分も寝ようかと思い始めた頃。尻尾をしゅんとさせたピピルが足元に寄って来る。
『なぁパデラぁ、マール唸ってるぜ。また怖い夢見てんじゃないのか?』
「んぁー、今日もかぁ」
昨日怒られた事を思いだす。「今日だけだ」と言われたが、またこの様子じゃ放ってはおけない。起こさないようにそっと同じ布団に入り、意として魔力を溢れさせた手でマールの身体をさする。
(マール、冷たいな。氷特化の魔力なだけあるぜ)
その冷たさを温めるように、魔力はゆったりと体を伝った。そうしている内に、マールは気持ちよさそうに眠っていた。
『主は赤子のようだな。母親にあやされる事でようやっと眠りに着く』
『え? マールはデッケエあかちゃんなのか?』
本来はパデラのベッドであるそこに二匹が寝転び、その中でピピルは間抜けな顔で尋ねてくる。
『違う、比喩的な話だ。やはりお前の理解力は低すぎる。明日は国語を学ぶとよい』
『こくご?』
どうやら、首を傾げる所はそこのようだ。
『……お前は、いくら何でも馬鹿が過ぎる』
『ヘヘっ、そう褒めんなって』
『褒めてないわ馬鹿者』
尻尾でぺちんと叩くと、ピピルから『あてっ』という声が漏れた。