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起きた時にはカーテンが開かれていて、既に窓の外は明るくなっていた。
サイドテーブルに置いてある時計を見れば、時刻は朝の八時程。先日眠ったのが夜の八時だから、大体十二時間程寝たという事になる。
体を起こせば、見る限りあのうるさい奴はいない。流石に、あれだけ言ったらつるんでくる事はないだろう。マールは冷蔵庫を開け、さっさと水分補給をする。丁度、冷蔵庫に食パンが入っていた。ご飯は適当に、これを食べておこう。
八枚切りの食パンを一枚取り出し、そのまま口に入れる。もう一度水分を摂っておいて、ベッドに座った。
さて今日の九時半から初回授業だが、速く行きすぎてもする事なんてない。十分程前に教室に向かう事にしよう。それまでする事なんてないから、学校案内のパンフレットでも見ている事にした。
とは言え、全部知っている内容な訳だが。それでも暇つぶしとしては申し分ない。マールはパンフレットを読み直し、丁度いい時間になってから部屋を出た。
初回の授業は、魔力の五大属性の基本知識等を学ぶ。まぁそれはおさらい程度になる生徒が多いだろう、実戦に移せるかは置いといて、知識だけなら様々な所から吸収出来る。
今回に関しては、重要なのはそこではない。生徒たちが心待ちにしているのは、使い魔の召喚だろう。
教室にはすでにほとんどの生徒が集まっていて、皆自由な席に座っている。マールは特にこだわりもない為、ただ開いている席に座った。
時間になると、教壇で待機していた女教師が「はい」と声を上げる。
「皆さん、おはようございます。入学式の際に引率させていただきましたから、見覚えがある人もいるでしょう。今ここで軽く自己紹介をしておきましょう」
「これから六年間、主要担任を務めさせていただきます。サフィラ・ルージュです」
名乗ると、彼女は黒板にその名を書く。チョークを使った訳ではなく、これもまた魔法の一種だ。
そうすると、一人の男子生徒が興奮気味に手を上げる。
「はいはい! 先生、ルージュ家ってあの美貌で有名な家系ですよね! 彼氏とか彼女いるんですか?」
「よくご存じですね。確かに、私達ルージュ家は美を重んじる血筋です。そう言った特徴的な家系はいくつかありますが、この事も今後の授業で学んでいくので、楽しみにしていてくださいね」
質問はさらりと流し、生徒の問いかけに答えた彼女が浮かべた笑みは、一目見れば男女構わず惚れてしまいそうな程に美しかった。
それもそのはず。彼女は美しいで有名なルージュ家の中でも最高峰と言われ、その恵まれた容姿だけではなく、しっかりと手入れされた銀色の長い髪や洗礼された立ち振る舞い、何よりルージュ家には珍しく魔法に秀でている、まさに、「高嶺の花」とも呼ばれる女なのだ。その気品さは、行動の一つ一つに溢れ、生徒達が惚れるのも無理はないだろう。まぁ、マールは一切の興味を示していなかったが。
しかし、そんな生徒の反応も慣れた物なのだろう。サフィラは気にする事なく授業を進める。
「私の事はこれまでにしておきましょう。早速、授業に向かいます。まずは五大属性に何があるかのおさらいを……パデラ、答えてください。五大属性には、どんな魔力が含まれていますか?」
「『炎』と『水』と『雷』と『風』と『氷』! 俺は雷が得意だぜ!」
パデラは前の方の席にいたようだ。指名されたのが嬉しいのか、そんな雰囲気で自信満々に答えた。
「正解です。既に自分の魔力性質を把握している事も素晴らしいですね」
「皆さんも、五大属性についてはよく覚えておいてください。特に、遊戯戦闘魔法使いを目指している方はしっかりと頭に入れておきましょう。本日はまず、この五大属性の基礎についてを――」
そうして、授業に取り掛かる。机に置かれていた教材を使いながら一つ一つ丁寧に説明される。
しかし、マールは半分ほど聞き流していた。大方知っている内容だというのもあるが、何より彼は感覚的にそれを理解している。
授業としてそれらの情報を今一度耳にして時間を過ごす。退屈ではない、聞く音声があるのだから。
そのうちにいくつかの授業が過ぎ、今日最後の時間となる。
「さて、皆さん。これまでの時間、座学ばかりで退屈だったでしょう。しかし、ご安心ください。ここからは皆さんお待ちかね、使い魔召喚です」
サフィラがそう告げると、生徒達はおっと声を漏らしたり顔を明るくしたりと、それぞれ良い反応を見せた。
「しかし、召喚の前に一つ注意です。これから召喚する使い魔は、『使い魔』とは呼ばれますが、決して下僕や奴隷のようなモノではありません」
「彼等は、暗竜様のご加護を受けた中でも特別な半永久的生物であり、暗竜様が私達にくださった一生涯の『友』です。決して、そこを勘違いしてはいけませんよ」
これは、おそらくどの生徒も理解している事だろうが。念の為の注意をしてから、本題へと移る。
召喚方法は至って簡単、召喚の魔法を行うだけだ。頭の中で名前を念じ、自身の魔力に適合した使い魔に召喚に応じるよう呼びかける。そうしたら床に素の魔力を垂らし、陣が出来れば成功だ。
「うまくいかない場合はお申し付けください。全員が終わりましたら、こちらでまた指示を出します。それでは皆さん、始めてください」
サフィラがそう言うと、机を後ろに寄せて出来た場所でそれぞれ召喚を始める。マールも周りの生徒達から少し離れた所で、自身の魔力に集中した。
――僕はマール・ルキラ。聞こえたら召喚に応えろ。
言葉を念じ、魔力を活性化させる。地面に突き付けられた魔力は、陣を描くと同時に光を放った。
そこには、一匹の中型犬程のトカゲのような生物がいた。
灰色の鱗を持つ大蜥蜴は、マールを見上げる。
『召喚に応じ参上した、ディータだ。初めまして、我が主よ』
ディータと名乗った彼は、尻尾の先をひょいと伸ばして来た。これはおそらく、握手求めているのだろう。この場合は、握尾になるかもしれないが。
マールは彼の尻尾の先を軽く握る。それから周りを確認してみると、やはり召喚されたのは動物系使い魔が最も多い。
使い魔には大きく分けて「動物系」「鳥類系」「昆虫系」「幻獣系」「爬虫類系」の五つが存在するが、その中で一番多く見られるのが動物系だ。それはこの教室内の結果を見れば一目瞭然だろう。
使い魔は召喚者の魔力に応じ選ばれる。つまり、召喚者の人なりを示していると言っても過言では無く、またその者の大まかな魔力特性も把握できたりするのだ。
自分の使い魔が爬虫類系であるのも、なんら可笑しい話ではないだろう。竜である暗竜に近しい爬虫類、その形をした使い魔は、強さの象徴なのだから。
そして遺憾ながら、
「おっ、お前が俺の使い魔か~! よろしくなぁ」
『おう! オレはピピル、これからすっげぇよろしくな!』
あの同室のバカが爬虫類系を呼びだせたのも納得できる。
認めたくはないがアイツは実力としては二番目であり、そしてその魔力から、自分とほぼ対等に戦えるほどの実力者であると分かるのだ。
しかし、なんだかあまりいい気分ではない。マールのそんな気持ちなど知らずに、ディータは同じ爬虫類系であるピピルに物申したいそうで。
『む。あの者、主との対面だというのに気品を欠いているな……。そこの同類よ! 主の前なのだから品性ある行動を心掛けろ』
するすると人の間を潜り抜け、パデラとピピルの所まで迷う事無く突き進んでいった。
そんなディータに気が付き、ピピルはおっと声を上げる。
『おぉ、同じ爬虫類! オレ、ピピル! キレーなウロコだろ~? 自慢のウロコだぜ』
すかさず自らの鱗を見せつけ、ドヤァっと言った顔をする。しかしディータも、爬虫類として譲れない何かがあるようだ。
『何を言うか、我の鱗の方が良いに決まっている。毎日手入れを欠かさずにしているのだぞ、この黒橡色の鱗を美しく保つのには、それ相応の』
『くろ、つるー……ばみ? ネズミ色じゃねーの?』
ディータの長くなりそうな話に、ぽかんと首を傾げる。こいつに悪気はないのだが、それはちょっとした地雷であった。
『失敬な! いいか、鼠色というのはもっと白みがかっていて、』
『オレのウロコだってまけてねぇよ~! ほら、この薄黄色がカワイいだろっ?』
『話は最後まで聞くものだっ!』
とことんマイペースなピピルと、シャーっと威嚇のように口を大きく開けたディータ。仲がいいような悪いような、そんなコントのようなやり取りをしている二匹を見て、パデラはあははと笑っていた。
そんな中、マールは相変わらずの無表情のまま、少し離れた所でディータに声を掛ける。
「おい、ディータ」
『あ、あぁすまない主。鱗の話は爬虫類として譲れない所だったものだから……』
恥ずかしそうにぺしゃんと尻尾を倒し、マールの足元に戻る。そしてマールは、直ぐにその場から離れようとした。
「お、マール! そいつ召喚したの、やっぱお前だったかぁ、だと思ったぜ!」
だが、ピピルの主であるパデラが声を掛けてきた。
だと思ったの一言である。絶対こいつは話しかけてくると思った。
「あのな……」
マールが文句の一つを良言いかけた時、教卓からサフィラが手を叩く。
「はい、皆さんこちらに顔を向けてください」
周りの奴等も召喚を終え、次に移るのだろう。仕方がなしに言いかけた言葉を飲み込み、前を向く。召喚も終えて、あとする事はなんだろうか。それは、マールも分からなかった。
「今からもう一つしてもらいたい事があります。それは、相棒決めです」
本当に、知らなかった。
そんなの全く聞いていないぞ、沸いて出たのはその一言。聞いてない、本当に。
ざわつく生徒達の中、マールは何となく様々な繋がりを察する事が出来てしまった。ディータも色々と察したようで、尻尾の先で主の背中をポンポンと叩く。
サフィラが前で色々と話しているのを聞き流しながら思考する。これは、どうしたものかと。
まず、入学直後で今日初めて授業を行ったと言うこの状態、「相棒を決めろ」と言われても、誰がどんな奴かなんか分かりっこない。そんな事、教師陣も分かっているだろう。分かっているから、今なのだ。
自分とパデラが同じ部屋にされた、この一つの事実だけで大方予想は出来るだろう。この部屋割りは、実力順だ。そうなれば当然、一番のマールと二番のパデラは同じ部屋になる。相棒と言うのは、これから共に競い合い、同時に力を合わせる存在。実力に差があり過ぎると不都合だ。
不都合なのは本人たちだけではない、教師陣からしてもそうだ。部屋割りで予め実力が近いモノと組ませ、そして一晩である程度の親睦が出来た所で相棒決めをさせる事で、自然と近い実力の者同士で組むように仕向けているのだ。
ちょっと考えてみれば分かりやすい仕組みだ。さて、どうしようかと、
「マール~!」
迷う隙も無く、パデラが元気な声を上げてキラキラとした目で見てくる。出来る事なら、見なかったフリをしたい。しかし、ばっちりと目が合ってしまった。
「組もうぜ組もうぜ~」
両手でギュッと握られたが、温かを感じる前にはらう。
なんだか、拾ってきたばかりの猫のようだと。パデラは微苦笑を浮かべ、あからさまに不機嫌そうに顔を逸らすマールにズバリ言ってみた。
「じゃあ、俺以外の誰と組むってんだ?」
マールの身体がビクリとなった。
教師陣の策略にまんまとかかったと言うべきか、何と言うべきか。マールは顔を合わせないまま手を差し出し、口を開く。
「勘違いするな。認めたわけじゃない」
「あぁ! よろしくな、相棒!」
その一言に、パデラはぱぁっと明るく笑った。それはもう、なんとも嬉しそうで。そうして握ってきた手からは、なんとも温かなモノを感じた。
その時、教卓の方からなにかガタッと大きな音が聞こえた。マールとパデラがそっちを見ると、先程まで姿勢正しく立っていたサフィラが机に肘をついて、両手で顔を隠していた。
「先生、大丈夫ですか?」
「失礼しました。何ともありませんので、お気になさらず」
近くにいた女子生徒が声を掛けると、サフィラは何事もなかったかのようにスッと姿勢を正し、にこりと笑みを浮かべた。
特に体調が悪いという訳でもなさそうだし、気にしない事にしよう。お互いの主を見上げている使い魔二匹は毛ほども気にせずに、使い魔同士で向き合った。
『って事は、オレたちも相棒みたいなもんだな! よろしくディータ!』
『それを抜きにしても、これから共に過ごす事になる。一応我からもよろしく言っておこうか』
お互いの尻尾の先を絡ませ、爬虫類の握手はやはり握尾のようだ。
さて、もう一度だけ確認しておこう。昨日マールは、このうるさい奴(パデラ)に関わるなと言った。確かに言い放った。しかし、早速今日でそうもいかない状況になった。まさか相棒を決めないといけないとは。言われてみれば、遊戯戦闘魔法使いはほぼ全員相棒を持っている。
しかし、こいつもこいつだ。仕方なく組んでやるのニュアンスならまだ分かるが、あろう事か進んで組もうとしてきた。
「なぁマール! 見ろよこれ、使い魔用のボールだぜ。爬虫類系も遊ぶかなぁ?」
オマケにこんなくだらない事まで話して来る。
残りの時間は相棒や使い魔と親睦を深めようと、自由時間を設けられた。ご丁寧に、使い魔のおもちゃまで用意されて、パデラはその中にあった音の鳴るボールを持って来たのだ。
ちなみにそのボールは犬型使い魔向けの商品だ。なんとも厳ついケルベロスがニッコニコ笑顔で小さなボールを咥えて走って来るコマーシャルと、それに添えられた「おもちゃと言ったら三頭犬~♪」のフレーズが印象的な。
「さぁな」
その事をマールは知っていたが、答えるのも面倒だったからそんな返答をする。
まぁ、それが何向けであろうと、パデラとピピルには関係ないようだが。
「おっし、ピピル! とってこーい!」
『おうよ!』
パデラが投げた球を、ピピルはドドドドドと駆けて追いかける。しっかりと咥えて、パデラの所に戻って来た。そして、褒めろと言わんばかりのこの表情だ。
犬か。マールは声にせずに呟き、ディータに目をやる。
『我はやらぬぞ』
「助かる」
意思疎通が出来ているのだろう。マールとディータは、同じような目でそれぞれの相方を見ていた。交流する為の時間だと言うのに、そこだけなんとも静かだった。
ディータは何も幼子のように遊びたくはないが、この無言の間は耐え難い。
『主よ。何か話すか?』
「何を?」
『……何かを』
なんだか、今の一瞬でコミュニケーション能力の限界を感じた。
そんな様子に気付いてか気付かずしてか、パデラとピピルがずいぶんと弾んだ声で一緒に遊ぼうと誘ってきた。
それに非常に助かった事は、本人達には内緒だ。
そうして授業が終わり、生徒達は部屋に戻る。マールは先に一人で帰ろうとしたが、流石にこの至近距離にいる状態でそれは出来ず、二人と二匹で歩いた。
授業が終わった後は何もない。マールはベッドの上に胡坐をかき、部屋にいる奴等を眺めていると思いきや正確に言えば何もしていなかった。
そんあマールに、パデラが台所の方から近寄ってくる。
「マール、夕飯何が良い? 今から買いに行こうと思うんだけどよ」
当たり前のように、作るつもりでいるそうだ。
顔をあげると不意に目が合って、少しの間で直ぐに逸らす。
「……何でもいい」
「おっ! いらないって言わなかったな、えらいぞ~。ほんじゃ、適当に買って来るわ。何でもいいって言ったからには何出されても文句言うなよぉ?」
ニコニコと笑って、ごく自然に頭を撫でる。その一瞬で、マールの思考は停止した。
『あー、マールなでなでされて照れてるう~』
「違う。そんな事は、ない……」
反論は弱く、ピピルはニヤニヤしながら脚を突く。そして、ディータがそんな彼の頭を尻尾で引っ叩いた。
痛がっているピピルは無視して、主を見上げる。「違う」とは言っていたが、彼の頬はほんのりと赤くなっているように見えた。
微々たる違いだったが、ディータはそれを目にして、なぜだかとても安心したのだ。
それから買い物から戻って来たパデラは、当たり前のようにしっかりと二人と二匹の分のご飯を作った。
使い魔たちのご飯は食べやすい形状に切られ、平たいお皿に盛りつけられている。残念ながら、爬虫類の手は箸を掴めるような構造にはなっていないのだ。
『うんめぇ! パデラ、これうっめぇぞ!』
『あぁ、中々の美味だ。パデラは料理が得意なのだな』
むっしゃむっしゃと食べ、ぶんぶんと尻尾を揺らしているピピルの隣で、ディータは上品に食べていた。
こんなにも喜んで食べてくれると、料理人として嬉しいモノだ。
顔を二匹からマールに移す。打って変わってこちらは何とも無表情に、淡々と食べている。
箸が進んでいるのを見ると、嫌いではないのだろうが。
「マールもこいつ等見習えよー。味付けが好みじゃないのなら、言ってくれれば変えるからよぉ」
冗談のように言ったが、これは本気だ。食というのは生活に彩りを与えるモノだと教わったパデラからすれば、それをただ生きる為の作業のように行うのは頂けない。自分の作った飯を食べてもらうとなれば猶更に。
「食えればいい」
しかし、マールはこの返答だ。全く、困ったモノだ。
「またそれか! てかお前、今日の朝ごはん食パン一枚しか食ってなかっただろ? 授業中お腹空かなかったか? 給食もあんま食ってなかったし」
パデラに言われ、マールはふいっと顔を逸らす。
反抗期の息子か、口では言わなかったが、パデラがそう思っている事は表情で分かる。
不服そうなマールに、食事を終えたディータが足元から注意をしてくる。
『主よ、それは良くないな。成長期なのだからしっかりと食事はとらないと、身長が伸びないぞ。まぁ気持ちは分かるが』
『マールちょっとチビだもんな!』
ディータはともかく、ピピルに関してはド直球だ。マールは何も言わずに無表情だったが、何を思っているかは不思議と分かる。
『分かるぞ主。男の子だもんな』
「爬虫類に何が分かる……」
あ、これ結構傷付いているかも。謝れという視線をピピルに向けるが、その意が伝わる程こいつは頭が良くない。
しかし、マールは黙々と食べていた。美味しいと思っているのかいないのかはよく分からないが、とりあえず食べているならいいとしよう。
微笑んだパデラに気が付き、マールは不服そうに口を開く。
「何笑ってんだよ」
「え? いやー、なんでもー」
パデラは更に笑い、いつもより少しだけ甘く味付けした料理を口にした。
ご飯を食べてから、マールは風呂に入ると言って椅子から立った。
「あ、まだ沸かしてねぇぞー?」
「自分でやる」
給湯器のある壁に向かおうとしたがそう言って断られ、彼は脱衣所に入った。
「ついでに歯ぁ磨けよー! お前のは水色のやつだからなー」
返事はなかったが、おそらく聞こえているだろう。少し待って、マールが風呂に入ってから自分も歯を磨くとしよう。それまで少し、ピピルとディータとで遊んでいる事にした。
マールは返事こそしなかったが、パデラの言っている事は確かに聞こえていた。
脱ぐ前に磨いてしまおう。後でとやかく言われる方が面倒だ。言われたとおり、水色の歯ブラシを手に取った。
歯を磨いた後、洗濯するインナー等は籠に放り込む。そうすると、裸の自分が洗面台の鏡に映った。
一緒になっているからとはいえ、脱衣所に鏡があるのは少し嫌なものだ。
鏡に映った拍子に、目についた首元。そっと触れると、そこに浮かんだ魔法陣が微かに色素を薄くした。
「……まさか」
気が付かなかった事にして、風呂場に入った。パデラも言っていたが、浴槽はまだ空っぽだ。しかし、わざわざ給湯器でお湯を張る必要はない。
マールは魔力を水に変えて浴槽に溜めてから、その水に手を付け魔力を放つ。丁度いい温度で止めれば、湯の完成だ。水と炎魔法の応用の日常魔法だ。これを使えば五秒も経たずに風呂を沸かせる。
さて沸かせたところで、早速湯に浸かった。
そうして、時間も忘れてゆっくりしているうちに一時間も経っていた。そろそろあがらなければ、のぼせてしまいそうだ。
いつの間にかパデラがパジャマをおいて行ったようで、マールはそれを着る。
「お、マールあがったか!」
『なぁなぁ、風呂どうだった?! オレも入りたいんだけどよ、大丈夫かな?』
うるさいのに声を掛けられたが、久しぶりの長風呂でのぼせ気味のマールはそれを無視してベッドに倒れこむ。
「おーいマール、もしかしてのぼせた? 大丈夫かー?」
『主、気持ち悪かったら言うのだぞ。言葉にするのが辛いのなら、伝心魔法でも可だ』
色々と言われていたが、なんだか返答するのも面倒で。
しかし、無駄に心配されるのも心外な為、魔力で「問題ないから話しかけるな」というメッセージを宙に浮かばせ、そのまま眠りについた。
彼女はサフィラ・ルージュ、今期の第一学年の管理責任者だ。そして、隣でふよふよと浮いている巨大な蝶は彼女の使い魔であるエーベネである。
虫嫌いの者達には怯えられる虫系使い魔であるが、彼女は美の象徴とされる使い魔だ。美を重んじるルージュ家には相応しい存在だろう。
そんなエーベネは日誌を書いている主の横顔を目に、はぁと息を突く。
『貴女、ホント黙っていれば完璧よね』
蝶の表情は人より動かないが、その口調で彼女が何をそんなに惜しそうにしているのかは伝わった。伝わったからこそ、サフィラは笑った。
「あら、口を開いた私では不満なの?」
呆れながらも、いつもの事だと呑み込む。今更何を言おうと、本人の本質は変わりないのだから。そう彼女は、
「そうそうエーベネ今度の新入生は素晴らしいわよ! 特に、パデラとマール。あれは最高の……カップリングよ!」
バリバリでゴリゴリの……腐女子であった。
『あっそう』
「エーベネも見たら分かるわ。パデマルの良さ、あれは全腐女子が沸くカップリングよ!」
全腐女子がと言い放ち一人で盛り上がる主。
『ただ貴女の好みだっただけでしょうが……』
「えぇ!」
呆れたエーベネに対して、サフィラはなんとも美しい笑顔で返答して来た。
あぁなぜこうも美しい女が腐った性癖なのか、こんなんだから未だに独身なんじゃないか、いい加減子孫を残してほしい。つらつらと頭の中に流れた文字列を呑み込むエーベネをよそに、サフィラは勝手に興奮しだす。
「小犬攻めのツンデレ受け。さいっこうなんだから! もう、添い寝とかしてほしいわっ!」
『あーはいはい。ソウデスネー』
そんな如何にも適当な返事に、サフィラは文句を言わない。だからこそエーベネは棒読みの心の籠ってない返事をして、静かに蜜を飲んだ。
さて、まさか担任の先生がそんな腐女子丸出しの欲望を叫んでいる事など知らない当の本人達。マールは夜中に何かの違和感で目が覚めた。直ぐ背中側に感じる異様なぬくもり。寝ぼけた脳では少し処理が遅れたが、それが人の体温である事に気が付いた。
念の為、起き上がって確認してみる。そこにはなんと、同じベッドの上で当たり前のように眠っている、パデラがいるではないか。
なんでこいつは。言葉にする前に、呑気に眠っているそいつに魔力の弾を投げ込む。
「わっ! なんだよマール、突然攻撃したら危ないだろ?!」
魔力の気配で気が付いたのだろう。パデラは大層驚きながらも、咄嗟に防いだ。だが、こいつが避けるか防ぐかなどマールにとってはどうでもいい。
「なぜいる」
たった四文字の言葉に異様な圧がある。パデラは、マールが起こっている事を察すると慌てて弁解を始めた。
「いやだって、お前唸ってたからよ! 悪い夢でも見てんのかなーって思って! 俺の魔力、結構癒し効果あるんだぜ! 父さんお墨付きだ。ほら」
パッとマールの手を取り、その魔力を溢れ出させる。
確かこいつの魔力は雷の性質だったはずだ。だと言うのに、その魔力はどことなく温かく、しかし炎性質を持つ魔力とはまた違う。まるで春の太陽のような、そんなぬくもりを持っていた。
「ほら、ぬくいだろ?」
ニコリと笑って、そう言ってくる。
温かい。それは確かだ。マールは、笑っているパデラに目をやる。
「……別問題だ」
「いたいいたいいたい!! ちょ、マール! 痛いって! 魔力入れるのはなしだろっ!」
包まれた手に魔力を込め、相手の手を思いっきり握ると、流石に痛いようだ。防音も意味がないんじゃないかと思えるほどに大きな声を上げて、ついでに体もブンブンと動かしている。
なんだかこういうオモチャみたいにも思えてくるが、凄くうるさい。本当に。
騒音問題なんかになりたくないから、これ以上は止めておこうと魔力を引っ込める。手の力が緩くなり、パデラは解放された右手をさする。
「はぁ。痛かったぁ……部屋に防音魔法かかってて良かったぜ」
意外にも、うるさい事を自覚していたようだ。
「どうでもいいから戻れ。僕は寝る」
そう言って再び横になる。だが、パデラはそこから退かずに、一緒に寝始めた。
「おい……」
「いや、だって」
ちらりと横目で自分のベッドに目をやる。そこでは、お互いの使い魔がいつの間にか一緒に寝ていたのだ。
なんとなんく気付いたマールは、ため息を漏らしながら渋々了承する。
「はぁ。分かった。今日だけな」
「おう!」
なぜだか妙に嬉しそうなのが癪であるが、何も言わないでおいた。その代わり、彼の背を弱い力で殴った。