この世は人の常識では理解できない出来事に満ちている。それらはあなたの日常にひっそりと存在する。しかし出逢うのはほとんど稀であり、もし逢えたらラッキー……かもしれない。
203X年、日本。宵ヶ
【この街にはパラサイトという正体不明の怪物が棲みついていて、赤い月の夜になると出てくる】
【ある条件と引き換えに、不老不死の体にしてもらえる】
【白峰製薬の廃ビルに幽霊が出る】
(……うっわ胡散臭いやつばっかり。それに最後のは噂と関係ないし)
「確かに。それにパラサイト、実際にいるしねえ」
「ちょっと……私の頭の中覗かないでくださいよシンさん!」
私は手に持っていた自分のスマートフォンを思わず取り落としそうになった。レトロな雰囲気の喫茶店のテーブルの向かい側に座り、くしゃくしゃになった情報雑誌に顔をうずめているまるで浮浪者のようなボロボロで汚れた服装の男を睨みつける。突然のことでつい声を荒げてしまったが、夕方の店内は人がまばらで助かった。
「おっとこれは失礼。次から気をつけるよ……ええっとシバハラさんだっけ」
「サハラです、
きっぱりと言った私にシンさんと呼ばれた男……久世真也は雑誌からちらっと顔を上げただけだった。ぼさぼさで毛先の先のほうだけがスミレ色に染まった白髪と一緒に髪に隠された額と口の左端に刻まれた縫合痕がまともに見え、反射的に目を逸らせてしまう。そういえばこの人いくつなんだろう。外見は40後半~50歳前半くらいに見えるけど人は見かけによらないって言うし。
「あのそれ……顔の傷ってまだ治らないんですか」
「あー……これねえ。うん、まだかな。わりと傷が深かったからどうも修復に時間かかってるみたいでさ」
そう言いつつ久世は自分の口の端の縫合痕を指先で軽くつつく。でこぼこになった痕が痛々しい。確かに彼の言うとおり、数週間前の事故の時に比べれば断然マシだ。あのままだったら今こうして向かい合わせで食事なんてしていられない。それぐらいに酷い傷だった。
「そうですか。お大事にしてください」
そう言った後に事故直後の久世の姿が頭の中にフラッシュバックの如く浮かんでしまい、さっき食べたものを吐きそうになる口元を両手で強く押さえる。
「ごめん。思い出させたかな」
「い、いえ……。すみません」
久世が茶原の頭の中を読んで少し険しい表情になり、空になった彼女のグラスへポットから冷えた麦茶のおかわりを注いで一口飲むように勧める。
「……急に取り乱してすみません。もう大丈夫です」
「いや、いいんだ。パラサイトだって元々は人間なんだから動揺だってするさ、急に完璧になんてなれっこない」
「そう、ですね。そう……ですよね」
私は自分に言い聞かせるように呟く。まだ私はパラサイト……つまり未知の寄生生物と融合した新人類……になってから日が浅い。変化の影響で色が抜け落ち、白くなった髪は染めた後に短く切って先をヘアゴムでくくっている。だが染みついている人間らしさというのはそう簡単に抜けないものらしい。
「あ」
「ん、窓の外がどうかしたのかい」
「月があんなに……」
私が指差した窓の外のほうに久世も顔を向ける。すっかり暗くなった空をバックにして大きな満月が浮かんでいる。それは血のように赤く、禍々しい色をしていた。
「ああ…………とても綺麗だね。久しぶりに見たよこんなに大きな満月」
「ねえシンさん……ていいですか」
窓の外に浮かぶ赤い月を見ていた茶原が不意に、幼い子どもがおねだりをするような調子でぽつりと呟く。声が小さく語尾が聞き取れない。瞳が緑色に発光している。
「え、今なんて」
「だから…………たべていいですか」
「はあ?」
久世はそれ以上言い返せなかった。じらすように言った後、突然人が変わったようになった茶原に飛びかかられ、そのまま奥の窓ガラスに後頭部を思いきり打ちつけたからだ。右目の視界の端で大きな音に驚いた他の客が一体何事かとこちらを見ているのがわかる。まずいアレか。今この人目がある場所で
「だ、ダメだ。今は抑えろ……。俺と君がパラサイトなのが周りの人間にバレる」
久世が茶原の耳元で小さめの声で囁く。
「なんで?いいじゃないですか。だって私もシンさんもパラサイトなんですから……他は気にしなくたって」
「いや、駄目だ。君が気にしなくても俺は気にするよ。とにかく今は」
久世が言葉を続けようとした瞬間、ぐじゃっという水の入った袋を床に叩きつけるような湿った音がした。静止のために茶原の顔の前に差し出していた片方の手首を噛まれたのだと気づく。脳が状況を理解した途端に激しい痛みが腕にはしった。
「こら、噛むな!」
反射的に茶原の顔を空いた方の手で掴み、床に押し付ける。噛みつかせたままの腕の傷から床に暗い緑色の血が数滴滴った。
『どうする?ここじゃ人目がありすぎる。場所を変えたほうがいい』
「そんなこたあ、言われんでもわかってる。無理だろこれじゃ。彼女、俺の手離してくれなさそうだし」
どこからか久世を心配する調子の声が小さくする。久世は痛みに耐えつつ、小声で返す。
『店の中にいる客を外に出せばいいのだろう?』
「ああ。そうしてもらえると大変助かる」
『なら、ワガハイに任せろ』
久世が次の言葉を継がないうちに着ている上着のジャケットの胸ポケットあたりから何かが素早く飛び出し、店の出口のドアに向かって駆けてゆく。それに気づいた客の数人が目で追う。ドアにたどり着いた何かは少し立ち止まって周囲を見渡し、その場で巨大な熊に変身した。威嚇するように一声吠えると、わっと蜘蛛の子を散らすように客が反対側の出口ドアへ向かって押しかける。久世はその様子を見てうなずくと、茶原を抱えて熊のいる方のドアへ向かった。
「エドガー、急げ!」
突然の事態に誰もいなくなった喫茶店の中をドアに向かって走る久世が、背後に向かって叫ぶ。カウンターを通り過ぎようとして会計を済ませていなかったのに気づき、手にしていたメモボードに書かれた金額をなんとか鞄から引っ張り出した財布から抜き取って置く。
『何してるクゼ、急がないと客が戻ってくる』
「いや、さすがに無銭飲食はまずいだろ……よし、行こう」
久世は納得した表情の後、反対側から戻ってきた白い帽子と服を着たクマのマスコットフィギュアの姿をしたパラサイトのエドガーと共に喫茶店を後にした。
***
何かに憑かれたように暴れる茶原を片腕に噛みつかせたまま、どうにかして棲家にしている廃墟と化した探偵事務所に戻ってきた久世は入り口のドアを革靴をはいた足で蹴り開けるとそのまま床に倒れこんだ。腕が重く痺れている。しばらく噛まれた状態で血を流しすぎたのだろう。
『手当てするか?』
「ああ…………悪い、頼む」
エドガーが首を縦に振り、暗い事務所の奥にある棚に向かって駆けて行く。久世は手近にあった椅子を引きよせる。茶原はいつの間にか気を失い、ぐったりしたままだ。
『クゼ、手を出せ』
「ああ」
棚のほうから戻ってきたエドガーが久世の足元から怪我をした左手によじ登り、消毒液と包帯で手当を始める。
『出血はもう止まっているが、念のため包帯を巻いておくぞ』
「ありがとう。後からでいいから事務所内のランプを灯しておいてくれ」
『承知した。彼女の様子を見てくる』
久世が礼を言うと、エドガーは心配そうな表情で奥にいる茶原を見る。
「気絶してるだけだと思うが……しばらく興奮状態が続いていたしな」
『同意。さすがにあれはワガハイ肝を冷やしたぞ、今夜は満月なのを失念していたのか?』
久世がうなずく。
「……うっかりしてたよ。月齢は毎日チェックしてたつもりなんだがな」
『次から気をつけることを推奨する』
「わかった、そうするよ。彼女のほうを頼む」
エドガーが事務的な口調で言うと、茶原のほうへと駆け寄って行った。
***
「あれ……ここ、どこ」
『目が覚めたか。ここは探偵事務所だ、今は廃墟になっている』
ベッドに寝かされた茶原が目を覚まし、あたりを見回す。埃っぽい、古い紙のようなにおいが鼻に届く。部屋にある窓からは薄く朝日が差していた。彼女のそばにあるランプの乗ったテーブルに白い三角耳のついたキャスケットを被ったエドガーが座って見下ろしている。
「エドガー、久世さんは?」
『今は地下室で寝ている。そっとしておくのがいい』
「そ、そっか。わかった、ありがとう」
茶原はエドガーに礼を言ってから両手を組んで思いっきり伸びをする。ついでに欠伸がこぼれた。
『サハラ、君は昨夜ほとんど食事してなかっただろう。今から朝食を作るから手伝ってほしい』
「うん、いいよ」
茶原が返事をするとエドガーがテーブルから飛び降り、肩に乗った。そのままキッチンとして使っている部屋に向かう。朝だとはいえ、事務所には電気が通っていないので薄暗い。夏は暑く、冬になると朝晩が冷える。ストーブやエアコンなどはあるものの使えないので、放置されて埃が積もっている。
(明日掃除……しよう)
茶原は電化製品のほうにちらりと目をやって心の中でつぶやいた。
***
エドガーと一緒に作った炒めたハムとみじん切りの玉ねぎを入れたオムレツを挟んだホットサンドと淹れたてのコーヒーの朝食はとても美味しかった。食べ終わって手を合わせた茶原は、別の皿に分けてラップをかけていたホットサンドを皿ごとエドガーに手渡す。
「これ、せっかくだから久世さんに持っていってあげて」
『了解した』
「私は今から食材の買い出しに出るけど……何か必要なものとかある?」
冷蔵庫を開けて中身を確認した後に茶原がエドガーにたずねる。エドガーはいつもの調子で『君が好きなものを買ってくるといい。何かあれば後から電話で連絡する』と言った。
「そう?じゃあ、行ってきます」
戸口から出ていく茶原の後ろ姿に、床に降りたエドガーが小さく手を振った。
***
『クゼ、起きてるか。朝食を持ってきたぞ』
地下室の扉の前でノックしてからエドガーが告げる。久世が自室代わりにしているため、許可なく入るのはためらわれた。茶原から託されたホットサンドののった皿を頭上に掲げ持ったまま、扉の向こうに耳を澄ます。
『クゼ?』
『…………入れ、鍵は空いてる』
少し間をおいて返事があった。エドガーは慣れた様子で扉を開け、地下室に入る。何の家具もない部屋に窓が1つだけあり、その中央に置かれた安楽椅子に久世が静かに腰かけていた。シワだらけの細いストライプ模様が入ったシャツの背中が縦に裂け、スミレ色の木の根か触手のような不気味なモノが部屋中に伸びて繋がっている。エドガーが近寄ってもその体はまったく動かず、まるで死んでいるようにしか見えない。
『皿は床に置け、すぐに食べ終わるから……彼女は?』
『さっき食材の買い出しに出かけた。何か必要なものがあれば連絡することになっている』
久世の声が部屋中に反響する。しかし安楽椅子に座る彼の口は動いてはいない。エドガーが言われた通りに皿を床に置くと、床がふるえるように蠢いた。床から数本のスミレ色の奇妙な捩れがある触手が伸びて、皿の上のホットサンドを巻き取り咀嚼する。あっという間のことだった。
『……うん、美味うまかった。お前が作ったのか』
『いや、今日は彼女に手伝ってもらった。ワガハイでは手が足りない』
満足そうな久世の声に首を横にふって否定し、エドガーが言葉を続けた。
『そうか。ああそうだ、彼女にPマートで“肉”を買ってくるように伝えてくれ。切らしていたのを忘れていた』
『わかった、すぐに電話しておく。そのうち昼食になるから上がってこいクゼ』
部屋に響く久世の声が同意した後、出て行こうとするエドガーの背後で久世の体から伸びた触手が物凄い速さで巻き戻ってゆき、最後の1本が戻った瞬間に体がわずかに痙攣する。
『ああ、そうする』
安楽椅子に座る久世が立ち上がる。床に落ちたもう何年も使っているあちこちの裾が破けたコートを着直しながら言うとエドガーの後に続き、地下室を後にした。