白峰製薬社長、白峰麻白と受付兼案内係を務めていた早河奈津美は捕らえられ、パラサイト課の本部に収監されていた。刑務所のように檻の中ではなく別々の部屋を与えられていたが窓はなく、面会に来る者もいない。
あるのはただひとりぼっちの静けさと日夜繰り返される本部の人間による尋問だけ。最初の数日は耐えたが、こう毎日のように続くと気が狂いそうだった。
(いっそのこと、死ねたらいいのに)
精神が疲れかけた早河の中にそんな思いが生まれていた。誰でもいいから今の気持ちを話したかった。
そういえば隣の部屋には社長がいるはずだ。幸いなことに行動の制限はない。行ってみよう。
「ああ……久しぶりだね。どうかしたのかな」
早河が隣の部屋のドアをノックすると、白峰がすぐに出てきて彼女を招き入れた。何日かぶりに見る彼は七三分けの白い髪がぼさぼさで少し痩せて、頬骨が浮いている。
「社長のほうこそ…………大丈夫ですか?ずいぶん痩せられてますけれど」
「うん、大丈夫だよ。毎日毎日尋問で飽き飽きしてるけどね。耳にタコができそうだ」
白峰はそう言って短く笑った。早河もつられて笑う。よかった、元気そうだ。
「あの、社長。私、あなたに謝らなければならないことが」
「ああ、それか。いいんだよ、もう。過ぎてしまったことだしね。君が気を病む必要はない」
「そ、そんなこと。私が悪いんです、あの2人に地下の施設を見せたりしたから……」
早河がそこまで言ったところで白峰が唇の前に人差し指を立てて、静かにというジェスチャーをする。
「いいや……君は悪くない。私の失態だ、何せあの2人がパラサイト課の職員だと見抜けなかったんだからね」
「それは私も同じです。そんな素振りは一切なかったので……あの社長」
早河が顔を上げて真っ直ぐに白峰の顔を見つめる。
「なんだい」
「私……私、なんでもしますからここから外に出られたらまた一緒に会社やり直しませんか」
一息に言って再び顔を伏せてしまった早河に、白峰はあっけにとられたような表情をする。
「君はそれでいいの早河さん?僕なんかについてきて」
「……はい。社長のためなら私、なんだってやります」
「…………本当に?」
問い返す白峰の声が一瞬低くなった気がした。早河が顔を再度上げるのが先かわからないうちに、右肩のあたりに軽い衝撃を感じる。何事かと思いそちらを見ると中に暗い緑色の液体が入った小型の注射器が突き立っている。
「し…………社長、いったい何をして」
「君さっき自分で言っただろう。《僕のためなら何でもするって》って。だから新しい薬剤パラサイトの実験台になってもらうのさ」
早河が今までに見たことのないくらいに歪んだ笑みを浮かべた白峰がぐっ、と肩に刺した注射器のピストンを親指で押し込む。
「……大丈夫。君が適合できれば死にはしない。ただ、苦しむことにはなるけどね」
「…………そん、な」
早河の足や手の先が急速に冷えてくる。意識が少しずつ薄れていくのがわかった。
目を開いているのがやっとで目と鼻の先にいる白峰に向かって左手を伸ばしかけたがそれが届かないうちに意識がぷつん、と音をたてるようにして早河の視界がゆっくりと暗闇に包まれていった……。
白峰は気を失って脱力した早河の体が床に落ちる寸前に両手で受け止める。部屋を見回すと天井に丸いカバーのついた小型の監視カメラらしきものがあるのに気がついた。
つまり、先ほどの行動は全てあちら側に筒抜けになっている。異変に気がついた職員がじきにこの部屋に来るだろう。
(そろそろか)
白峰がぐったりした早河の耳元で「起きろ」と囁く。途端に早河がカッと目を見開いて起き上がる。
肩あたりまで伸びた黒髪が白く変色していた。人間ではあり得ない鮮やかすぎる緑色の瞳がゆっくりと揺れて、白峰を捉える。
「おはよう。起きてすぐで悪いけど、この場所から逃げたいんだ。僕に協力してくれるかな?」
覚醒したばかりの早河が首を縦にふる。それを確認した白峰が重ねて指示を出す。
「じゃあ、まずはこの建物から外に出よう。やり方は君に任せる」
早河は再び頷くとすぐに白峰の片手を引いて部屋の入り口ドアまで移動する。ノブに手をかけて開く。外側で人の気配がした。瞬時に早河が廊下へと駆け出す。
その先には施錠された窓がある。迷うことなく体当たりすると先に白峰を外に放り出し、自分も後を追って夜空をはるか上に見ながら落下していった。
*
夜、耳をつんざくような大きな音がして目を覚ます。数日前から羊子の部屋に滞在している朱莉、丸テーブル上のパラサイトくんとシラミネ太郎も物音に飛び起き、音のした方向を見ていた。
寝る時に閉めたはずの窓ガラスが割れ、周囲にガラス片が散らばっている。カーテンは裂けていた。
「だ、誰……」
「柴崎くん喋るな」
羊子が声を出そうとした瞬間、シラミネ太郎が鋭い視線と共に制止してきた。隣で寝ていた朱莉も眠い目で机の上の白い犬のフィギュアを見つめる。
「……なんで?というか誰あいつ」
状況を察して小声になった朱莉がシラミネ太郎に話しかけるとキッと睨まれた。喋るなということか。
部屋の奥に何者かがいる。破れたカーテンが外からの風で舞っていて全体が見えないが、それは白い翼を生やしていた。
「お邪魔するよ」
ベランダから音もなく白いスーツ姿の男が入ってきた。夜風で白い長髪が舞う。男は丸テーブル上のパラサイトたちを見、まだ布団から動けないままの羊子と朱莉を順に見て再びテーブル上に視線を戻す。
「おや、君は白峰製薬うちのマスコットのシラミネ太郎じゃないか……いや、中身はパラサイトか。普通のフィギュアなら動いたりしないしね」
白峰がテーブルに近づく。シラミネ太郎とパラサイトくんが身構えて警戒するが白峰はお構いなしに、テーブルの横を通りすぎて奥にいる羊子と朱莉の前まで来てその場にしゃがみこむ。
「今日は君らに用はない。で、どっちが柴崎羊子さんかな。聞きたいことがあるんだが」
「アタシだ。何、聞きたいことって」
即座に朱莉が嘘をつく。
「ああ、君と一緒にいた霧原眞一郎という職員……本当は死んでないだろう。中身のパラサイトはどこにいる」
白峰は中身と言うところで自分の頭を人差し指で軽くつつく。
「そんなの素直に教えると思う?あんたみたいな奴、絶対に嫌だ」
「…………だろうね。なら仕方ない、《やれ》」
しゃがみこんだ姿勢のままの白峰が指を鳴らし、早河のほうへ顎をしゃくった。
早河が人離れした動きで瞬時に朱莉へ詰め寄り、首を片手でつかんで持ち上げる。細い体が宙に浮き、朱莉の表情が徐々に苦しそうなものに変わっていく。
「これでも言わないつもりかい」
顔を上げ朱莉を見上げた白峰の口元が邪悪に歪む。
「い……言わ、ない」
「そうか。じゃあ、今この場で死んでもらおうか」
白峰の一言で早河がさらに朱莉の首を締め上げる。朱莉が激しく咳きこんだ。
『おい止めろ、彼女は違う!』
「君には聞いてない。余計な口を挟まないでくれるかい」
テーブルの上からシラミネ太郎がすかさず止めに入るが、白峰は聞く耳をもたない。
「やめて……今すぐ止めてくださいっ!柴崎は私です‼︎」
目の前の光景に耐えられなくなった羊子が思わず叫んだ。白峰がにやりと笑う。指を鳴らすと早河が朱莉の首から手を離す。朱莉の体が重い音をたてて床に落ちて転がった。
「なるほど。では改めて聞こうか、霧原眞一郎の中身はどこにいる?」
「それは……」
羊子が近くまで歩み寄ってきた白峰に怯え、視線をテーブルに向けるとシラミネ太郎のフィギュアと目があった。彼が何かを訴えるように頷いたので羊子は口を閉じた。
『ここだ』
「……へえ、その中に潜り込むなんて予想外だったよ。早河!」
白峰が言葉の途中で早河に指示を出す。ほぼ同時にテーブルの上のフィギュアを掴み取った早河がそのままベランダから外へ跳躍した。白い歪な翼が広がる。
「潰せ」
間髪いれずに早河が命令を実行に移す。軽いものを壊す時のパキッという乾いた音が響いた。滞空する早河の両手の間から白いプラスチックの欠片と一緒に粘り気のある緑色の液体が舞い落ちていく。
それを見た羊子が震えながら膝から床に崩れ落ちた。白峰は羊子たちの方を振り返らずに歩き出し、待機していた早河の背に飛び乗ると何も言わずに去っていった。
「羊子……さん、大丈夫ですか」
まだ荒い息をしている朱莉が立ち上がり、床に座ったままの羊子に肩を貸し立たせる。俯いた顔は暗く、泣いた目のまわりが赤く腫れていた。表情がない。不意に羊子のパーカーのポケットに入っていた携帯電話の着信音が鳴る。
「あ、あたしが出ます」
朱莉が気を利かせて電話に出た。しばらくすると羊子のほうに差し出してくる。
「羊子さん、雨野って人からです。伝えたいことがあるからすぐ代わってほしいって」
羊子は手渡された携帯電話を耳にあてる。
「…………もしもし」
『久しぶり。ものすごく急で悪いんだけど明日からまたうちの支部のほうで働いてくれないかしら。あなたが抜けてやらなきゃならない仕事が山積みなのよ』
「はい……わかりました支部長。でも私、明日はちょっと」
『悪いけど頼むわね、じゃあまた連絡するわ』
雨野から一方的に頼みこまれて電話は切られた。羊子は通話の切れた携帯を握りしめたまま、ふらふらとベランダのほうに歩く。
「霧原さん……私、嫌です。あなたのいない支部に戻るのは」
「もう、嫌」
『ヨーコ、危ない!』
パラサイトくんが気づいて警告した時には遅く、羊子はすでにベランダの柵を乗り越えていた。朱莉がダッシュして手を伸ばしたが届かない。
「羊子さんっ‼︎」
そのまま朱莉も柵を飛び越えて落下を開始する。少し下を落ちてゆく羊子が見えた。呼びかけながら手を伸ばすが反応がない。だめだ、落ちる。
(私、何してるんだろう)
夜空を上に、道路を下に見ながら羊子は考える。そうか私、ベランダから落ちたのか。何もかもがスローに見える。眼下に地面が近づいてくる。
(でも……いいか。霧原さんがいないあの場所に戻るより、支部長に従い続けるより)
いっそのこと死んでしまえれば、全て終わらせられる。大丈夫だきっと、痛みはない。羊子は叩きつけられることを想像してぎゅっと目を閉じる。
『いいのか』
頭の中で声がした。
『きみはそれで、ほんとうにいいのか』
羊子は目を見開いた。この声は、まさか。
「霧原……さん?」
『そうだ』
「どこ、どこにいるんですか」
羊子は首だけであたりを見回す。風の音がうるさい。
『きみはしってるはずだ。わたしがどこにいるか』
「わ、わからないです。だって身代わりにしていたフィギュアは粉々になって」
『だいじょうぶ、ただうつわがこわれただけだ。なかみはまだいきている』
「そんな……だからどこに!」
羊子がそう叫んだ時、激しい痛みが襲った。地面に到達したのだ。全身を打ちつけられて意識が飛びそうになる。
『きみの…………なかで』
『つぎは、わたしがきみをたすけるばんだ』
頭の中の声が途絶えた。体が動かない。手足が急速に冷えていった。
『しばざきくん、めをあけたまえ』
羊子は声に従って目を開ける。朱莉が肩にもたれて目を閉じている。眠っているらしく寝息をたてている。
ここはどこだろうと視線を巡らせる。自分の部屋の中だ。あれ、たしか私はベランダから飛び降りて地面に……。そこまで思い出し一気に意識が覚醒し、服をめくって体に傷がないか確かめる。ない、どこにも傷はなかった。
『おどろいたかね』
(一体、私に何をしたんですか)
『なあに、たいしたことじゃない。きみのなかのパラサイトのちからをちょっとひきだしたのさ』
(パラサイトの?)
『かがみをみてごらん』
言われるままに羊子は普段使っている姿見の前に立つ。あっと小さく声が出た。髪や肌は白く、瞳が鮮やかな緑色に変化し暗い緑色になった指先に鋭い鉤爪が生えていた。
(なんか霧原さんみたいですね)
『そうだな、よくにてる』
苦笑するように頭の中で霧原が言うと、自然と羊子の頬が緩んだ。
(……また会えて嬉しいです)
『うん、わたしもだ』
なぜか涙が溢れてくる。羊子は自分の体を両腕でそうっと抱きしめた。
「おかえりなさい……霧原さん」
『ただいま、しばざきくん』