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第18話 空白

再び窓からだいぶ傾いた日の光が差しこむ地上階に戻ってきた時、羊子はさっき目にしたものや聞いた言葉は皆、悪い夢だったのだ…と思いこもうとした。だから自分の頬を霧原と早河に見つからないようにして、思いっきりつねってみる。


(……痛い。やっぱり夢じゃない)


羊子はじん、とした痛みが残る頬を右手で押さえた。思わず泣きそうになる。


「ここまでお疲れ様でした。では道中、お気をつけてお帰りください」


早河はそう言って羊子と霧原に深く礼をし、白峰製薬の出入り口のドアを片手で指し示す。


「……ええ。本日はどうもありがとうございました、さあ帰ろうか山田くん」

「は……はい。帰りましょう黒川さん」


霧原がうつむいたままの羊子の背中に右手を置き、支えて出入り口まで歩いていく。



ケイ:今ちょうど2人が外に出て行きました


アマノ:……そうね。お疲れ様、もうこっちに戻ってきていいわよ圭。あ、透子ちゃんもね、お仕事お疲れ様


ケイ:了解。気づかれないように脱出します



羊子たちは外で待機していた朱莉と合流し、白峰製薬からの帰りのタクシーの中。羊子はあれから一言も喋らず黙ったままで、ひどく疲れているように見えた。見かねた霧原が小声で話しかける。


「大丈夫かね柴崎くん……顔色がだいぶ悪そうだが」

「……ねえ霧原さん。パラサイトって一体何なんですか」

「……柴崎くん?」


羊子が霧原のほうを向き、そう質問してくる。その目にはまだ恐怖の色が浮かんでいるが、真剣そのものだ。


「……正直なところ、それは私にもわからない。今の科学技術や医療では解明できない未知の生物とでも言えば聞こえだけはいいかもしれないが」

「未知の……生物。でも……あれ、あの早河さんが見せた試験管の中身。霧原さんの頭の中にもいるんですよね。それって……。だって、霧原さんは……なんにもしてないのに、なんで、こんなことに……!」


羊子の声が大きくなりかけたのを察して、霧原が両手を羊子の肩に置いて強く掴み「柴崎くん落ち着け」となだめる。


「……静かに、声が少し大きい。白峰製薬に対する君の憤りはわかるが、今私たちに出来ることはない。今日はこのまま支部に戻って対策を練り直そう」

「で、でもっ……このままじゃパラサイトが増える一方ですよ⁈」

「……わかっている。このまま奴らを野放しにさせていいはずがない。させてたまるか……絶対に壊滅させなければ駄目だ」


目の前の霧原の髪に隠れていないほうの瞳が、一瞬だけ狂気を孕んだような気がして羊子は黙りこむ。


「……そうだ。今回の件の報告もかねて支部長にも相談しよう」

「は、はい。わかりました、そうしましょう」


羊子が何度もうなずくと、霧原はやっと肩から両手を離す。強く掴まれたので、まだ少し痛みが残っている。


(霧原さんは一体、何を考えているんだろう……。わからない)


目を閉じて今までの出来事をを整理しようとした羊子の脳裏に、先ほど白峰製薬の地下階で見たパラサイトの実験のために造り出された実験体の子どもたちの姿が浮かんでは消えていく。


(……だめだ、うまく考えられない。あの子たちは––自分が人間じゃないって知ったら、どう思うんだろう。もし見つかったら殺されてしまうのだろうか)



太陽が山の向こうに沈んだころ、羊子たちを乗せたタクシーがパラサイト課の宵ヶ沼支部が入る廃ビルの前に到着した。3人ともばらばらに左右のドアから下りると、羊子がいつものように運転手に代金を払い、領収書を断る。


「中……入りましょうか」

「ああ」

「……今さら聞くのもあれなんだけど、中で何かあったの?」


霧原の右隣を歩く朱莉が、ひどく疲れた様子の2人を見て尋ねてくる。


「それ……説明しようと思うとだいぶ時間かかるから、とりあえず中入ろう」

「お、おう……。わかった」


朱莉は羊子にどんよりとした目で見つめられ、口を閉じる。



「もしもし」


霧原の研究室の窓の外には静かな夜の闇が広がっていた。羊子と朱莉はそれぞれのあてがわれた部屋に戻り、疲れはてて眠っている。


「……あら、誰かと思ったわ。連絡、早かったじゃない」

「……どういうことだ」

「一体何のことかしら?」

「知らないふりをしても無駄だ。支部長あんた……白峰製薬が裏でやっていたことをどこまで把握していた……答えろ‼︎」


出来るかぎり平静を保とうとしていた霧原の口調が徐々に怒気をまとっていく。右手で持ち、耳にあてた携帯電話がミシリと音を立てる。


「何を勘違いしているのか知らないけれど……私は本当に何も知らなかったわ。……もし知ってたら今ごろ警察に届け出てる」


霧原は机と反対を向かせたワーキングチェアに座って足を組み「はん」と鼻先で笑い飛ばす。


「警察……?まさか貴女の口からその言葉が出てくるとは意外でした。なら……今すぐに連絡を。このまま放置しておくと確実に手遅れになります」

「そうね……。ごもっともな意見をありがとう《眞一郎さん》。じゃあ今夜中に警察に連絡して、情報もリークするわ。それでOKかしら?」

「……どうやって?貴女は今日Pマートから一切出てないでしょう」

「うちの店員……片瀬圭と青江透子を白峰製薬に潜入させて、今日一日中あなたたちの後をつけさせていたの。音声も映像も彼らに全部記録させていたから、それに関しては全く問題ないわ……理由はこれくらいでいいかしら」

「……ええ。それだけ聞けば私も安心できます、よろしくお願いします」


霧原は雨野の用意の良さに、舌を巻くしかなかった。なるべく丁寧な口調でそう締めくくると、霧原のほうから通話を終了させた。


(これで、白峰製薬もアイツも……終わりだ)


霧原の唇が歪み、乾いた笑い声が自然と漏れ出す……アイツも同じように苦痛を味わえばいい。私の体をこんなふうにした当然の罰だ。櫻子や春香の分まで苦しめ……!



翌朝早く、慌てた様子の浅木にベッドから叩き起こされた羊子はまだ眠い目をこすりながら黒のスーツに着替えて支部の待合に向かう。


待合スペースに設置された薄型テレビの前にいったいどこからこんなに出てきたのかと疑問に思うほどの人だかりができている。羊子はその中に霧原と朱莉の姿を見つけ、他の人を押しのけつつ側に近づく。


「霧原さん!これ、いったい何事ですか⁈」

「……ああ、おはよう柴崎くん。白峰製薬の社長が今朝がたに警察に逮捕されたらしい」


霧原が薄型テレビのほうに目線を向けながら、羊子の質問に答える。


「……え?ま、待ってください。私たちはあくまであそこへ潜入調査に行っただけで、あの時早河さんに言われた約束は守ってますよ」

「ああ。例の約束は私も君も破っていない……。だが、実際に誰かが情報を流さなければこうはならない……そうだろう?」

「まさか霧原さん、私に嘘はついてない……ですよね」


羊子は平然とした態度の霧原に疑いの目を向ける。


「ああ、ついてないよ。そんなことをしたって私には何の徳にもならないからね」

「……その言葉信じていいんですね?もし嘘だったら、私もう2度と霧原さんと一緒に調査に行きませんから」


2人の間に流れる険悪な雰囲気を察知したのか、霧原の着ている白衣の裾ポケットからパラサイトくんが眠そうな顔をのぞかせる。


『……また喧嘩?今度はどうしたの』


ふわあ……と小さく欠伸をしたパラサイトくんは、霧原の白衣の左肩まで登ってきてよいしょ、と座る。


「……ああすまない、起こして悪かった。別になんでもないさ、なあ柴崎くん?」


霧原が左肩に落ち着いたパラサイトくんの耳を指先で軽くつつく。


「……はあ〜…わかりました。もうこのことは何も聞きません、これでいいでしょう」


羊子は仕方なく了承し、霧原に向かって首を縦に振る。


『じゃあ朝ごはん食べに行こうよ。おいらお腹すいた〜』

「なんか、そういわれれば私も朝ごはんまだだった……」


パラサイトくんと朱莉につられて、羊子も朝食がまだだったことに気づく。思い出したことによってお腹がぐうう……と鳴りだす。


「……えっと、なら食堂に行きましょうか。私もお腹空いてきちゃいました」



同日。白峰製薬の内部は社長の逮捕によるマスコミなどへの対応と、次々に辞表を出す社員との間でごった返していた。


(……一体何が起こっているの⁇)


受付兼案内係の早河は、がらんとした社長室に置かれたままのノートパソコンで午前中のニュースの映像を探して片っ端から見ていく。なぜ、うちの社長が急に逮捕なんてことになってるの……?


(……誰かがきっと《あれ》の情報を警察に流したんだ。でも、いったい誰が?)


そこでふと、早河の脳裏に昨日の正午ごろに取材にやってきた雑誌と新聞記者の男女2人組の姿が浮かんだ。まさか……あの2人が?


(……いや、でも口外するなと約束させたし……それはありえないか)


念のため、2人から聞いていた雑誌と新聞の名前をインターネット上で検索してみる。随分あっさりとヒットした。


(宵ヶ沼新聞と週刊Y-times…あったこれだ)


早河は画面上に表示されたWebページを開いて、メモをさせていた2人の名前を探す。


(え……どういうこと? ない、どこにもない)


上から下へと何度もページをスクロールさせて探すが、どこにも山田洋子と黒川新一郎という記者は存在していなかった。では……あの2人は一体何者だったのだろうか。


(そんな……そんな、騙された? 嘘だ、そんなの絶対嘘に決まってる……)


「……た、たしかめなきゃ。会いに行って」

「どこに行かれるおつもりですか、早河奈津実さん」


早河の背後から女の声がした。驚いて振り返ると黒い喪服のようなスーツと長めのスカートを身に纏った30代くらいの女性が1人、社長室の開けっ放しにしていた入り口のドアにもたれてこちらを見ている。


「あ、あなた誰です?ここは関係者以外立ち入り禁止のはずですが……」

「これは大変失礼しました。私わたくし、政府非公認の組織・パラサイト課の宵ヶ沼支部長……雨野綾子と申します」


雨野は早河に向かって恭しくお辞儀をする。


「ぱ……パラサイト課?なんですか、それ。そんなの聞いたことないですよ」

「ええ。一般の方は知らなくて当然です。何しろうちは特殊な組織ですから……。単刀直入に申し上げますが、貴女を【人間を人工的にパラサイト化させる薬剤の開発および人体実験への協力の罪】で捕らえさせていただきます」


雨野はそう言いながら、自分の左上腕部のあたりに付けた緑色の腕章を早河に見えるようにわざと引っ張ってみせ、怪しげな笑みを浮かべる。早河を見上げる顔に毛先だけが緑色に染められた黒髪が揺れる。


「け、警察に情報を漏らしたのはアンタなの……⁈」

「……はい。パラサイト課うちとして世間の明るみに御社の開発された薬剤や実験体を出すことは絶対に避けなければいけないので」


雨野が全て言い終わらないうちに、彼女の後ろのほうから右目に眼帯をした黒いスーツの男性とクマの耳がついた黒いパーカー姿の少年が入ってきた。


「……ま、まって。じゃあ、ここの地下階にいるあの子たちはどうなるの……?」

「あ〜……実験体いえ、パラサイトの新種のことですか?それなら、僕たちパラサイト課でしっかり管理しますよ。ねえ支部長」


怯えと恐怖が入り混じった目で雨野を見つめる早河に、圭がそう言って悪戯っぽく笑う。


「そうね。おかげで説明の手間が省けたわ、ありがとう圭……それじゃあ、そろそろ行きましょうか」


かしゃり、と金属の擦れる音がする。いつの間にか黒いスーツの男が近寄ってきていて、早河の細い手首に鈍い銀色に輝く手錠がはめられていた。


「……パラサイト課の本部まで御同行願えますか?」


手錠をかけた男……阿嘉谷が早河の顔を見ながら低い声で言う。早河は無言のまま首を縦に振るしかなかった。



5月2日の白峰製薬会社社長の逮捕から1週間後のこと。中がほとんどもぬけの殻同然になった白峰製薬に定期的に出入りをしている人々がいた。


宵ヶ沼支部の支部長である雨野綾子と、研究員の浅木と霧原、それから羊子とパラサイトくん––要するに支部のメンバーである。


「……じゃ、引き続きB4の子たちのお世話をよろしくね。もし、彼らに何かあったら私の携帯に連絡いれてちょうだい」

「「了解」」


B4階で下りた羊子と霧原が同時に雨野に向かって返事をする。


「それじゃ、僕たちも他の階の子たちの様子見に行ってきますね」


圭がエレベーターの中でくるりと振り返り、雨野に笑顔を向ける。


「ええ、頼むわね。阿嘉谷さんと一緒に頑張るのよ」


雨野が母親のように優しい口調になり、圭に微笑み返す。


「……うん、行ってきます」


まるでこれから学校に出かけるかのようにニコニコしながら、圭は閉じられていくエレベーターのドアの向こうで手を振った。


「さてと、ここなら誰にも聞かれないし、話しても大丈夫かしら」

「……今度は何を企んでいらっしゃるんですか支部長?」


雨野のもったいぶった口調に、霧原が質問をする。


「企むなんて……そんな言い方しないで眞ちゃん。そうね、実は宵ヶ沼支部をそのうちここに移転させようと思ってるの。ほら、研究設備も環境も整ってるし貴方にとってもいろいろと《都合がいい》でしょう?」

「……なるほど。確かにその通りですね、ですがそんなに簡単に白峰製薬側がこのビルを手放すでしょうか」

「白峰ならこんなビルの1つや2つ、どうってことないんじゃない?……もし手放さないなら、本部に掛け合ってなんとかするつもりよ」


そう言って雨野は不敵に笑う。羊子はその表情に背筋に冷たいものを感じて身を震わせる。


「……なるほど。実に貴女らしいお考えだ」

「あら、もしかしてそれ褒めてるの?」

「いえ?貴女のその強欲さに改めて嫌気がさしたところですよ」


雨野を見る霧原の眉根へ縦に皺ができる。相手に対して怒っている時のサインだ。


「じゃ、私はこれで失礼するわ。午後からも頑張ってね」


雨野はそう言い残し、エレベーターに乗りこみ去っていく。


「……了解」


ドアが閉じた後にぽつりと、霧原がつぶやいた。



その日の午後。近くの喫茶店で遅めの昼食を済ませた羊子と霧原はB4階の管理のため、白峰製薬のビルに戻った。


ホールで一緒にエレベーターの到着を待っていると霧原が「ちょっと用事があるから、先に行っていてくれ」と言ってきた。


「了解です、じゃあ先に行ってますね」

「……ああ、すまない。すぐに戻るから」


羊子はそう返し、到着したエレベーターに乗りこむ。ドアが閉じる時、霧原の唇が動いて何かを言った気がしたがきっと自分の見間違いだと思うことにした。



「霧原さん、霧原さん‼︎ やだ、嫌です、死なないでください……‼︎ 今、救急車呼びますから‼︎」


羊子は地面にぺたんと両膝をついて、涙と鼻水でぐじゃぐじゃになった顔を手で覆う。膝のすぐそばにうつ伏せになり、後頭部を激しく打ちつけて真っ赤な血が長い髪にこびり付いた霧原が薄目を開けて苦しそうに肩で息をしている。


「……も……いい、んだ」

「良くないです!霧原さんがよくても私が困ります…‼︎」

「どう、せ……にげられないんだ、から……」

「え?それ、どういう意味ですか」


そう言った霧原が口から大量の血を吐き出した。羊子はひっ!と小さく悲鳴をあげる。スーツから震える手で携帯電話を取り出し、急いで110番をダイヤルする。


「も、もしもし⁉︎ あの救急車の手配をお願いします!人が、人が頭から血を流して倒れてるんです‼︎ ……お願いですから早く来てください、場所は白峰製薬のビルの出入り口付近です‼︎」



事件が起きる数時間前。羊子とエレベーターホールで別れた霧原は1人、屋上へ向かっていた。理由は明確だった。死ぬためだ。


月が赤いか赤くないかに関わらず日中はただの人間なのだから高いビルから落ちれば死ぬし、体に致命傷を負えば死ぬ。今朝の新聞で月齢を調べたら、今日は新月だった。


(……柴崎くんには申し訳ないが、もうあの女に協力するのは限界なんだ)


だから、死ぬことにした。今まで自分がしてきた事を全部、置き去りにして。それが出来るのなら、どんなにいいだろう。


そう考えながら、霧原は屋上の落下防止用の柵を乗り越えて下を見る。見上げた空は青く、吸いこまれそうなくらいに透き通っていた。


「……さようなら」


柵を後ろ手に掴んだ両手を離し、右足を虚空に向かって1歩踏み出す。そのまま重心をかけ続ければ、ここから自然に落下していけるだろう。


「––––––––ちょっと、待ってください‼︎」


柵の向こう側、屋上を羊子が息を切らしながら走ってくる。


(……柴崎くん⁈ なぜだ。なぜ君がここに)


右足にかけ続けていた力を一瞬だけ緩めた霧原は、反動で柵にもたれかかるようにして背中を打ちつける。


「……柴崎くん、なぜここにいる。先に地下に行っていてくれと私は言ったはずだが」

「彼が……パラサイトくんが教えてくれたんです、だから来ました。ねえ霧原さんやめましょうよこんなこと」


羊子は自分のスーツの裾ポケットから顔を出しているパラサイトくんに視線を送り、柵をグレーの手袋をはめた両手で掴んで、向こう側の霧原に必死に語りかける。


「あなたが今ここで死んだら、パラサイト課の皆はどうなるんですか? 霧原さん、いつか人間に戻りたいんだって私に言ってたじゃないですか。あれ……やっぱり嘘だったんですか‼︎」

「……嘘じゃない‼︎ 今だって、ずっとそう思ってるさ。でもね柴崎くん無理なんだよ、今まで研究を続けてきても何1つ手がかりは見つからなかった。調べれば調べるほど……パラサイトについての謎がどんどん深まっていくだけだ」


柵に背中を向けた霧原が急に振り返り、羊子の手首を強く掴む。


「……私が今までしてきた研究は、結局何の役にも立たなかった。全部無駄だったんだよ。それからあの女……雨野綾子に協力するのはもうたくさんだ」


(雨野さんって……たしかPマートの店長さんよね。霧原さんの口からなんで今、その名前が出てくるの?)


「……雨野さんに協力ってそれどういうことなんですか霧原さん。私にもわかるように、こっちに来て説明してください」


羊子は自分の手首を掴んだままの霧原の指を握り返す。


「お願いします、教えてください」

「…………わかった。君がそこまで言うのなら全て話すが、1つ条件がある」


霧原はそう言い、羊子に引きあげてもらいながら柵を乗り越え、屋上の白いペンキ塗りのコンクリートの床に降り立つ。


「それで……なんですかその条件って。私にも出来ることと出来ないことがありますよ」


羊子は腰に両手をあてて仁王立ちになり、床に膝をかかえて体育座りをしている霧原を見下ろしながら言う。


「……たしかにそうだな。でもまずは雨野綾子の件について話そう。私は……彼女に頼まれてある実験に協力をしていた」

「ある実験……?」


羊子が首をかしげると、霧原はうなずいて話を続ける。


「そう……パラサイトを人間に戻す方法が見つからないのなら、その逆に人間にパラサイトの血液を与えて適合させてしまおうという実験」

「それは……それじゃ、白峰製薬が裏でやっていることと同じじゃないですか。どうしてそんなことに協力なんてしたんです⁈」


羊子は霧原の答えを聞いて、その場にしゃがみ込む。


「私が協力することを決めた理由は……彼女にパラサイト課に入って一緒に人間に戻るための方法を探さないかと話を持ちかけられたからだ。それが気がつけば全く違うものに関わらされていた……というわけさ」


霧原は苦々しい表情で吐き捨てる。


「あの女はね柴崎くん……人間よりもパラサイトのほうが好きなんだ。だから私をパラサイトだと知っているのにこうして支部に置いている。手放したくないんだ」

「……そんな。おかしいですよそれ」


羊子は顔を両手で覆う。


「残念だが彼女にそういう考えはないらしい……だからこそ、君に頼みたいことがある。聞いてくれるね?」


見つめている霧原の表情は真剣だ。羊子は彼に向き直る。


「……なんですか頼み事って」

「今から、私をここから突き落としてほしい……落ちた後に私の頭の中から漏れ出たパラサイトを回収してほしいんだ」


さも当たり前のことのように霧原が言う。羊子の脳裏に1週間以上前にここの地下にある薬品開発部門で見た試験管の底で蠢うごめく緑色の生物のイメージが浮かぶ。


「……は?え、霧原さん言っている意味が全然わからないんですけど。そんなことしたら死んじゃうじゃないですか‼︎」


両目がすでに潤み、泣き出しそうな表情の羊子に霧原は長くため息をつく。


「大丈夫だよ、今から死ぬのは私の《肉体だけ》だ。今までの記憶と意識は頭の中のパラサイトが吸収しているから何の問題もない、君はそれを回収するだけでいいんだ。簡単だろう?」


霧原がそう言って羊子ににっこりと笑いかけてくる。


「……それ、本当に信じていいんですね?嘘だったら一生恨みますからね。で、その後はどうするんですか。霧原さんは動かせる体が無くなっちゃいますけど」

「ん……そうだな、ともかく雨野やパラサイト課の手がおよばない場所、どこか隠れられる場所を見つけてくれ。体はもちろん人間にかぎるが……今は選り好みしている暇はない」


霧原の視線が羊子のスーツの裾ポケットに入っているパラサイトくんに向けられる。霧原が何かを閃いた表情になった。


「……そうだ。白峰製薬のマスコットキャラクターのフィギュアくらい、建物のどこかにあるだろう。それを下に来る時に1つ持ってきてくれ、当分の仮住まいにするから」

「わ……わかりました。必ず持っていきますね」


羊子は霧原の意図が読み取れないまま、返事をする。不安だ、すごく不安になる。


「……よし。じゃあ思いっきり突き落としてくれ、後は……頼んだよ」


そう言うと霧原は再び、柵を乗り越えて屋上の縁に立つ。


「じゃあいきますよ……せーのっ‼︎‼︎」


羊子は柵から少し距離をとり、助走をつけてから体ごと霧原の背中にぶつかる。羊子がぶつかった衝撃で柵が激しく揺れ、霧原がバランスを崩して足を踏み外し––––真っ逆さまに下へと落ちていった。


一瞬だけ風にはためいた霧原の白衣の白が、春の青空の中で目に眩しい。羊子は柵から少し身を乗り出し、縁の向こうを覗き見る。気が遠くなるほど遥か下に宵ヶ沼市のビル群や山々が見える。


『……ヨーコ、早く行かないと』

「うん」


パラサイトくんにうながされ、羊子は立ち上がると急いでエレベーターに乗りこみ白峰製薬の出入り口のある階に通じるボタンを押した。


(霧原さん……どうかうまくいきますように)


羊子はパラサイトくんに促され、急いで柵から離れる。こんなに高いビルから落ちたら……ああ、そんなの想像なんてしたくない。



白峰製薬会社のビルの屋上から落ちた霧原の元に駆けつけた羊子は、彼の指示通りに屋上から出入り口に着くまでの間に建物内で見つけた白い白衣を着た日本犬のマスコットキャラクターのフィギュアをパラサイトくんが入っていないほうの裾ポケットから取り出す。


(……えっとパラサイトはどこに……?)


うつ伏せに落ち、手足がありえない角度で捻れてしまっている霧原の体をなるべく直視しないようにしていたら、羊子は頭のあたりに広がっている赤い血溜まりに顔を近づけすぎてしまい、鉄臭い匂いに思わず片手で鼻を押さえる。


『大丈夫……?おいらが代わりに探そうか』


逆の裾ポケットの中からパラサイトくんが顔を出し囁く。羊子は鼻を押さえたままで無言でうなずいて、彼に場所を代わる。


パラサイトくんは地面に飛び下り、くんくんと鼻を犬のようにひくつかせ始める。


『……ヨーコこっち!早くそれ貸して‼︎』


頭が地面につきそうなほどに低い態勢のパラサイトくんが急に叫んだので、羊子は慌てて手に持った彼と同じくらいの大きさの白い犬のフィギュアを手渡す。


パラサイトくんは素早くフィギュアを両手で受け取ると、かぽっと頭と胴体部分を外して血溜まりの中につける。


「ちょっと……何してるの⁈」


羊子はざぶざぶと血溜まりにフィギュアを浸すパラサイトくんを驚いた目で見る。一体何をしているのだ⁇


『大丈夫だってヨーコ。今のでキリハラはちゃんとこの中に入ったから』


きゅぽっと頭部分を元に戻したパラサイトくんがフィギュアを抱えたまま、羊子のほうを向いて小さめの声で言う。


「じ、じゃあ……すぐにここから逃げないと。もし誰かに見つかったら……」

『うん、とにかく言われた通りにしよう』


うろたえる羊子にパラサイトくんが犬のフィギュアを返してくる。それをスーツの裾ポケットにしまうのと同時に、彼も逆側のポケットに戻る。


ひとまずこの場所から離れようと白峰製薬の周囲を見渡し、羊子は住宅街のほうに向かって全力で走り出す。遠くから救急車のサイレン音が響いてくるのを耳がとらえる。立ち止まってはいけない、振り向いてはいけない。


(今度は私が……霧原さんを守るんだ)


羊子が走りながら涙で潤んだ両目を手の甲で拭って見上げた空は青からオレンジ色に染まり、宵ヶ沼市に再び夜が近づいてきていた。

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