『……もう、それ以上動くな。腕と足を噛まれているから、じきに血を失って死ぬぞ』
『はん、人間のアンタにアタシの何がわかるのよ!』
ガツン、という鈍い衝撃。パラサイトに変化した黒河が放った尾が素早く動いて、同時に霧原の左肩と体の数箇所を刺し貫く。白衣や床へさらに血が飛び散るが、霧原は前に進む歩みを止めない。
(なんなんだこいつ……。これだけあちこち刺してるのに、なぜまだ歩けるんだ)
『そ、それ以上アタシに近づいたら……本当に殺すぞ。いいのか?』
黒河の表情に焦りが見え隠れする。
『……もし嫌だ、と私が言ったらどうする』
着ているものを含めて、体中が傷と血だらけなのにまだ余裕がある……という雰囲気の霧原の表情に、ついにぷつりと黒河の堪忍袋の緒が切れた。
『やっぱり死ね‼︎』
もう一度、体に生じた不恰好な尾が放たれ、相手の胸部の急所を刺そうとする。
『……そうか、それは残念だな。やっと君を見つけたのに』
霧原はなおも余裕の顔をくずさず、自分の胸めがけてまっすぐ向かってくる黒河の尾を避けようとすらしない。
『坂咲青くんから、君を探してほしいと頼まれたんだが』
(は?……こいつ今、なんて言った。なんで青の名前を知ってる?)
黒河がその一言に明らかに動揺したのが見えた。向かってくる尾の速度が一瞬だけ減速する。霧原はその隙を狙って伸びた尾の先端を爪の生えたを両手でつかみ、ぐいっ、と自分のほうに引きよせる。
『う、うわ‼︎』
あっという間に黒河の体が床から浮き上がり、霧原に背を向ける格好で両腕を下から抱えられて拘束される。放った尾のほうは左足で強く床に踏みつけられていて、まったく動かせない。
『悪いな。こっちも君らパラサイトの保護が仕事なんでね……大人しくしてもらうよ』
『……なんだ、アンタもパラサイト……か』
そう言う霧原の体から何かが腐ったような臭いがする。彼が自分と同じだと気がついた黒河はそれだけを言い残し、そのまま気を失った。霧原がさっきから拘束していた体からもすっかり力が抜けている。
(……安心して気を失ったか。手足の傷は少し再生し始めているが、正直なところ出血の程度がどれくらいか判断ができん)
ここから出て、支部に一旦戻ろう。医療スタッフの浅木なら何か対処方法を知っているはずだ。霧原は気絶した黒河の両手を自分の肩に、両足を脇の下にまわしてしがみつかせてから背負うと、3年4組から廊下に出た。
「あっ……えっ、霧原さん?」
すぐそばから羊子の声がした。霧原がそちらを向くと、足元に自分が囮を指示したパラサイトくんがいて、ちらちらと彼を見上げている。その目はなんだかすごく申し訳なさそうに見える。
『……ごめんキリハラ。おいら必死に止めたのに、彼女がどうしても3階に行くって言って……』
おろおろしながら小声でつげるパラサイトくんは、目まで潤んで今にも泣きだしそうな表情だ。
『……いや、君に無理を言った私が馬鹿だった。謝らなくていい、どちらにしろ気づかれるのは時間の問題だったんだから』
『え、だってそれじゃ……わあ⁈』
パラサイトくんの言葉の最後のほうは、小さな悲鳴に変わった。霧原が床から彼をつかみ上げて自分の白衣の裾ポケットへ乱暴に押しこんだからだ。
「霧原さん……ずっと探してたんですよ! ちょっとその怪我どうしたんですか……白衣とかそこらじゅう緑色じゃないですか⁉︎」
駆けよってきた羊子が、霧原の左肩が大きく裂けて緑色のまだら模様になった白衣や中に着た黒のベストとスラックスにうがたれた穴にぎょっとした表情で動きを止める。
『君のほうこそ、私の指示を無視してここまで来たのか?』
「う……それは認めますけど、医療スタッフの浅木さんが青くんの目の傷は回復できるって言っていたので大丈夫かなって思って」
「私、こっちに残った霧原さんのことが心配で……だってあんな言い方ないでしょう」
羊子まで今にも泣き出しそうだ。霧原はどうしていいのか分からずふう、とため息をつく。
『……保健室での発言はすまなかった。今後は気をつけよう。それで、どうして君はもう一度ここに戻って来たのかね?』
「あ……それを言うのすっかり忘れてました。浅木さんからの伝言で、本部からの連絡がだいぶ前にあってこの旧校舎にいる調査対象のパラサイトを全員保護から処分に切り替えるように……って伝えてほしいって」
霧原の顔が羊子の口から伝えられる浅木からの伝言に、だんだんと険しくなってゆく。本部は一体何を考えている? 調査対象のパラサイトは保護と収容が優先されるべきではないのか?
「あの、霧原さん聞いてます?」
『……ああ。浅木くんからの伝言はそれだけかね』
「はい。他には何も」
羊子はうなずきかけ、霧原の背中に目をやる。セーラー服を着た髪や肌が異様に白い女の子を背負っている。誰だろう。
「あの、霧原さん。その背中に背負っている子って誰ですか?」
『彼女は黒河朱莉だよ。ほら、坂咲青くんのクラスメイトの子だ。そこの教室で倒れていたから保護した』
そこの教室というあたりで霧原は、自分が今出てきたばかりの3年4組を顔の向きで示す。羊子がすぐに教室に向かおうとするので、霧原は道をふさぐように移動してそれを止める。
『……中は見に行かないほうがいい。天井から床までパラサイトの血塗れだ、教卓の近くで教師らしき男性が1人と生徒5人がパラサイトになって死んでいる』
「一応私もパラサイト課の職員ですから、見に行きます。そこどいてください」
羊子が目の前で壁になっている霧原の体を手で押し退けて通ろうとした。
「……ぐっ⁈」
羊子の鼻を新校舎の保健室に放置されていたゴミ箱の中身をのぞいた時と同じ、あのなんともいえない生ゴミのよう強烈な臭いが襲う。体が拒絶して反射的に一歩後ずさる。
(これってまさか……霧原さんの臭いなの?)
『うん?……どうしたんだい柴崎くん。変な顔をして』
「……霧原さんもしかしてとは思うんですけど、私と別れた後に保健室のゴミ箱に何か捨てませんでした?」
そう言いながらスーツの袖で鼻をおおって顔を歪める羊子の様子を見て、霧原は気づく。彼女は
『いいや、何も……と言ったところで言い訳にしかならないだろうから、素直に言おう』
『そうだよ柴崎くん、私は…………パラサイトだ』
しばらくの沈黙。羊子は驚きと信じられないという感情が入りまじった複雑な表情を浮かべている。
「……どうして、今まで言ってくれなかったんですか」
『言う必要がなかった。これからもずっと、君に私の正体を明かすつもりはなかった』
「だからってそんな……!」
『それにそんなことをしたら……今の職と研究を失うことになる』
「研究……ですか?」
霧原は背中に背負っている黒河を一度床に下ろし、後ろにまわしていた自分の変化した両手が羊子に見えるようにする。
『パラサイトになった者を人間に戻す方法を探しているんだ』
『私はね柴崎くん、こんな中途半端な姿じゃなく……もう一度人間に戻りたいんだよ』
羊子はそう言う霧原の表情がどこか寂しそうに見えて、目をそらしてしまう。こういう時、何と返していいのかがわからない。それよりも今は……。
「……とにかく霧原さんのことは後からじっくり聞きますから、今は本部からの命令をどうするかを一度支部に戻って考えましょう」