舞台を両部観終わった頃、蒼葉は相当体力を消耗していた様子でぐったりと、机に突っ伏していた。
「兄上、大丈夫……?」
「まあ、こうなるとは思っていたので……」
かくいう臙時も、初めて舞台を観たときと違い、蒼葉ほどではないが体力を消耗している。
それは舞台を観終えた際に起こる体力消耗とは違う、ということは両者とも理解していた。
「舞台として面白かったのは確かですから、後悔はしていませんけれど……」
「でしょ、面白かったよね!」
臙時としては大変好みの話だったため、少し前のめりになる。
蒼葉も同じく、前世が影響しなければまた観たい、と思う程の舞台だった。
しかし、記憶がある分、蒼葉は記憶に引っ張られやすい。
そのため、臙時よりもずっと体力を消耗していたのだ。
「これほどの完成度ならば、臙時が呼び覚まされかけているのも納得です」
「呼び覚ます、ってどういうこと?」
「前世が気になっているのでしょう? そういう話です」
「なる、ほど……?」
首を傾げている臙時に、蒼葉は一つ指摘をする。
「癖として根付いてるものも、実はヒントだったりするのですよ」
「癖……」
「……そうですねぇ、例えば――臙時は執拗なほど念入りに手を洗いますよね」
蒼葉はそれだけ言い残すと、覚束ない足取りで部屋へと戻る。
「あ、あぁ……兄上! えっと、気を付けて戻ってね」
蒼葉を不安げに見送った後、自身の手をじっと眺める。
(そういえば、小さい頃も兄上に指摘されたっけ……)
物心ついた頃には、念入りに手を洗うようになっていた。
潔癖でもないのに、だ。
「これが、ヒント……?」
そう思った瞬間、動悸が少し早まったのを感じた。
(不安なんだ。でも、何が?)
感情と思考がリンクしない。
(調べる、こと――か?)
妙に惹かれた役、その史実を調べようとスマホを触ろうとすると、動悸が激しくなった。
(怖い、なんでか分からないけれど――すごく、怖い)
逃げるように自身も部屋に戻ろうとしたとき、蒼葉ならこの感情が分かるかもしれないと想い至った。
「はあ、『調べるのが怖い』ですか……そこまで不安に思うことは無いと思いますが」
訪れたのは、蒼葉の部屋だった。
「そう、だよね」
「ええ、知ることは恐ろしいことではありませんよ」
蒼葉は微笑むと、そのまま再び横になった。
「ああ、ごめん兄上。体調悪いのに……」
若干の罪悪感を覚えながらも、蒼葉の言葉を胸の奥で反芻する。
「少し休めば大丈夫なので……少し寝ると思いますが、何かあればメッセージをください」
「大丈夫、最悪叩き起こしに来るから」
「勘弁していただきたいですねぇ」
そんな会話を残し、臙時は自身の部屋へと戻る。
「『不安に思うことはない』だから、大丈夫……大丈夫……」
そう言い聞かせるも、動悸はどんどんと増していく一方。
激しい頭痛に襲われながら、不安から吐き気まで症状として出始めたのだ。
「怖く、怖くない……」
何故自身が此処まで執着しているのかは、分からなかった。
体調不良を少しでも抑えるため、横になる。
そのまま、スマホで資料サイトを開き、妙に惹かれた人物――武市半平太の名前を入力したのだ。
暫くの読み込み時間を待った後、表示された資料。
ただ、目に入った二文字――たったの二文字で、頭はショートした。
内容は全く頭に入らないが、スクロールする指は止まらなかった。
「ちがう……ちがう、ちがう……そんな、そんなんじゃ……」
ただうわ言とのように、口からこぼれ出る言葉は、とても小さくか細い。
『ちがう』ただその感情だけが湧き上がり、何を否定しているのかは自分でも理解していない。
理解できるほど、理性は働いていなかった。
ただただ、上手く呼吸すら出来ず過呼吸と化し、尋常じゃないほどの吐き気を抑えながら、頭痛で思考が鈍る。
(このままじゃ不味い――)
漸く理解した頃、急いでブラウザを閉じたが、一度出た症状は治まらない。
ただ、布団の中で丸まって何かを否定し続けた。
「ちがう、ちがう……」
勝手に口から出てくる否定の言葉に、感情も理性も働かず、理解できないままだった。
――理解しようという余裕すら無かった。
暫く呟き続け漸く落ち着いてきた頃、思考を逸らそうとイヤホンを両耳につけ、状況と正反対なポップな曲を流した。
過呼吸を抑えるため、意識的にゆっくりと呼吸をする。
最早息切れのようになっていた中だった。
「――っ!」
確かに――何かに見られた。
否、何かと目があった。
忘れがたいほど冷たい目、狂気と本心――そして失望。
そんな目で、臙時――いや、臙時のずっと内側にいるただ一人を、見ていた。
「どうして、そんな目で……」
その言葉は勝手に口から出た物。
言葉が口からこぼれた瞬間、抑えきれないほど強い絶望感と吐き気に襲われた。
吐く一歩手前で理性を取り戻し、落ち着くために深呼吸を繰り返した。
仰向けの体勢から、右向きに横になった。
眠ろうとしたのだ。
ただ――それは許されなかった。
心臓に、強い衝撃が走る。
外部から何かされたわけでもないというのに、その衝撃から仰向けの体勢に戻されたほどだった。
(ああ、きっと――もう取り返しのつかない所まで来たんだ)
そう悟った臙時は、半ば諦めにも似た感情でただ一つを伝えようと、思考の方向を変えた。
(もう、僕が寝てる間は好きに使っていていいよ――僕の体を)
次の瞬間、臙時は意識を手放した。
それから数時間、痛みと共に臙時は目を覚ました。
意識を手放したときから、全く姿勢を変えていなかったようだ。
「いてて……体バッキバキだ……」
少しばかりの疲労感を抱え、自身の症状を振り返る。
(サラッと主導権渡しちゃったけれど、さっきまでのことって……放置しないほうがいいよな)
そう判断した臙時は蒼葉の部屋を訪ねる。
「兄上! 起きて!」
部屋の扉を乱暴に開けた臙時は、蒼葉の返事を待たずに部屋へと入り込む。
「なんですか……吃驚した……」
「大変だったんだよ! 聞いてくれる?」
「まあ、聞きましょう」
寝起きで少し不服そうな蒼葉は姿勢を起こし、聞く体制に入った。
「実は――」
部屋で別れた後起きたこと、一から説明した。
――主導権を渡したことだけを伏せて。
「ふむ、なるほど……」
蒼葉は少し考え込んだ後、臙時と目を合わせる。
「今から幾つか質問をします。貴方はそれに答えてください」
「あ、うん……」
「そうですね、海……その場所へ帰りたいと思いますか? それとも、帰りたくない?」
突飛な質問に疑問符が浮かびかけた時だった。
胸が苦しい。
呼吸ではなく、精神面だ。
「それか――帰れない? 帰りたいけれど、帰れない」
臙時はただその言葉に頷く。
「砂浜の色は? 白、それかグレー」
白い砂浜は見たことがない。
ならばきっと、グレーなのだろう。
「砂浜は広い? 狭い?」
普通くらいじゃないだろうか、と考えた。
何故なら視界から見える範囲は、それほど開けた場所では無かったから。
「朝焼けの、海岸……」
ポツリ、と臙時は言葉をこぼした。
それに対し蒼葉は一枚の画像を見せた。
「……それは例えば、こんな感じの?」
その海岸、いや――その場所は。
「そう、こんな感じの場所で――ここら辺から見た感じで」
蒼葉が見せた写真は、桂浜の朝焼けの海岸だった。
それを見たことのある場所のように、語る臙時に蒼葉は答えを得ていた。
「間違いない、貴方は――」
「兄上?」
真剣な声色で、蒼葉は真実を告げる。
臙時の前世――その答えを。
「貴方は――岡田以蔵、その生まれ変わりです」
「……へ?」
その言葉で、この時間までに起きた感情の起伏や症状に合点がいってしまった。
「ああ――そう、なんだ」
「しかし、面白い。ワタシが強引に引っ張り上げたのもありますが……貴方がたは共存を選ぶのですね」
蒼葉は臙時の右目をしっかりと見た。
そこには臙時の感情とは別の、違う色の感情が浮かんでいたのだった。
その後、夜も更けてきたため、部屋へと送り返された臙時は、眠る前に幾つか言葉をかけてみようとした。
「多分……最後に見たかった、んですよね。あの光景が……」
目を瞑って見えたのは、一般的に想像される姿とは異なった人物だった。
着物の男性であることは間違いないが、その髪は長く伸ばされていた。
しかしその髪も長過ぎるほどではなかった、結っていないだけだ。
静かに此方を見ている男性は、穏やかで静かな目線を向けていた。
「……したかったわけじゃ、無いんですよね」
その言葉になにか返答があるわけでは無いけれど、感情だけは伝わっていた。
「似た者同士ですね、僕らの人生」
心がすっかり折れきった二人の人間は、一つの体を半分で分け合い、生きていくことを決めたのだ。
半身、互いが互いの半分である。
臙時は密かに二度とその手を離さないことを心に決め、眠りについた。
――まさか、その思考が筒抜けとは知らずに。