あの『デート』の一件以来、僕は無花果さんを心配することをやめた。もう大丈夫だと確信したからだ。
無花果さんも徐々にメンタルの調子を取り戻してきたらしく、クマも目のぎらつきもやせこけ具合も通常レベルにもどってきた。
今日もまた、骨格標本の手を取って何やらワルツを踊っている。わいのわいのとやかましいのもいつも通りだ。
お使いから帰ってきて窓の拭き掃除をしていると、不意に事務所のドアが開いた。
「……あのー」
開いたドアの向こうには、『冴えない新卒サラリーマン』を絵に描いたような男が所在なさげにたっていた。ワルツを踊りながら通り過ぎていく無花果さんをきょとんと見つめ、間の抜けた顔をしている。
……依頼人、だろう。
「おや、珍しいねー。一週間ちょっとで次の依頼人だなんて」
鼻の下にヴェポラップを塗りながら、所長が依頼人に視線を向ける。ついでに自撮り棒を伸ばしてぽかんとしているリーマンの姿を撮影した。毎度思うのだけど、撮影許可くらい取ったらどうなんだ。いつか訴えられるぞ。
「おやおやおや! お客さんだね! 歓迎するよさあ入りたまえやれ座りたまえそれお茶を飲みたまえ!」
早々に新卒リーマンを事務所に引きずり込むと、無花果さんはそのままソファに座らせてしまう。
いつまで経っても、依頼人はきょとんとし続けていた。これが地顔なのだろうか、ひたすらに不思議そうな顔をしている。
ぼーっとしている、と言えばいいのだろうか。寝起きみたいな間抜け面だ。記憶喪失のひとはきっとこんな顔をしているに違いない。
自分が今どこでなにをしているのかわかっていない。ともすれば、自分がなにものなのかもわかっていない。
なにもかもが他人事で、当事者意識がない。わかっていることの方が少ないのではないだろうか。
……そんな不可思議な第一印象を抱きながら、僕は窓掃除の手を休め、雑巾とバケツを片付けた。
「……依頼人の方、ですよね……?」
そう、依頼人がやって来た場合、唯一の常識人の僕が対応を誤ってしまうと食いっぱぐれることになる。そうならないように、とにかく依頼人を相手にマトモな人間っぷりを披露しなければならないのだ。
丁度そのころ、部屋の奥の『巣』というプレートがかかった扉からお茶を乗せたお盆を持った手だけが伸びてきたので、ありがたく受け取って新卒リーマンの前に出す。
「お茶をどうぞ。お話、聞かせてください」
「……はあ……」
やっぱりぽかんとした顔をしながら、依頼人は湯のみに口をつけた。ここまで来たら、今更帰るなんてことはないだろう。僕のささやかな勝利だ。
おっかなびっくりお茶をすする依頼人に向かって、ソファの対面に座った僕は話を切り出した。
「……ここへ来たってことは、あなたも死体を探しに……?」
僕の問いかけに、依頼人はしばらく考えあぐねているように首をひねり、それからようやく返答した。
「……ええ、はい……たぶん……」
「……『たぶん』……?」
どうにも判然としない答えに、今度は僕が首をひねった。
「なんだいその煮え切らない返答は! 要領を得ないね、チン毛剃毛するぞ!?」
「……恐縮です……でも、『たぶん』なんですよ……」
なんとも曖昧模糊とした言葉だった。『たぶん』でこんなところまでやって来たのかと思うと、この依頼人、けっこうすごいひとなのではないか。
「……ともかく、死体を探したい、と」
「……はい、『たぶん』ですけど……」
なんなんだ、この依頼人は?
今のところ、自殺者の関係者といった雰囲気ではない。かといって、殺人に関わっているとも思えない。
……そもそも、『死』のにおいがまったくしないのだ。
僕にもそろそろわかるようになってきた、あのニンゲンが腐っていくにおい。冷えたガラスのように厳然とした真実の手触り。奈落の、深淵の気配。
そういうものの一切が、この依頼人からは感じられなかった。ここへ来る人間は、どんな事情があるにせよ、必ずそんな香りを漂わせている。
だというのに、この新卒リーマンからは『死』の気配を全く感じなかった。
逆に、なぜこんなところを訪れたのかという疑問ばかりが湧き上がってくる。
ぽかんとしている姿がとてつもなく滑稽で、場違いだ。
不気味ですらある。
どうしても拭い去れない違和感を抱いていると、無花果さんもそれに勘づいたのか、目を細めて依頼人を見つめた。
「たぶんたぶんと、君はタブンくんかね? 毒ガスだよ? 決めた、君は今からタブンくんだ! いいね、タブンくん!?」
「……あっ、はい、それでよろしければ……」
「ちょっとはツッコミたまえよ! ボケ殺しだよそれは!? 小生なんだかやるせないよ!?」
「……はあ、恐縮です……」
「あなた、本当にわかってここに来たんですか? 冷やかしだったら帰ってくださいよ?」
「……ああ、そうじゃなくて……『たぶん』死体があるんです……それを探してもらいに来たんです……だから、冷やかしじゃないです……」
珍しく僕がいらいらし始めていると、タブンくんはそう言って弁明した。どうやら、興味本位の物見遊山、というわけでもないらしい。
だとしたら、立派な依頼人だ。そこには死体があって、事情があって行方が分からなくなって、僕たちはそれを探し出して、それを素材に『作品』を作る。
そういう流れになるのは決まっているのだ。
……なのに、このもやもやはなんだろう?
狐につままれているようなこの感覚はなんだろう?
無花果さんもそれを感じているのか、いらだった様子で頭をかき、
「タブンくん! やる気あんのかね君は!? おおん!?」
「……や、やる気なら一応……たぶん……」
「ああもう! どうやったらそんなにぼんやりと生きていけるのか、小生君に問いたいね!」
「……僕、そんなにぼんやりしてますかね……?」
「してるとも! もう氷が溶けてぬるくなって気が抜けたドクペくらいぼんやりしてるとも! むしろそこは胸を張っていいから!」
「……はあ……恐縮です……」
「くきいいいいいいいいいいいいいらいらするううううううううう!!」
とうとう無花果さんは頭を掻きむしって発狂してしまった。こうなってしまってはいつ掴みかかるか分からない。
依頼人の身の安全のためにも無花果さんを脇にどけておいて、僕は改めて問いかけた。
「本当に、死体はあるんですね?」
「……すみません、断言はできなくて……恐縮です……」
「じゃあ、ひとが死んだかどうかもわからないんですか?」
「……ええと……それは『たぶん』、死んでると思います……その証拠らしきものも残ってますし……」
「また『たぶん』、ですか……証拠って、その死体は殺されたんですか?」
「……ええ、『たぶん』、殺されました……」
「一体、誰に?」
「……ええと……『たぶん』、僕に……」
……今、なんと?
にわかには理解しがたくて、僕はしばらくフリーズしてしまった。
息を吸って、吐いて。
言葉の意味を咀嚼すると、僕は改めてタブンくんの顔を覗き込んで、
「……つまり、あなたはひとを殺したんですか?」
これは決定的な言葉だ。
自分はひとを殺したと、宣言するのだから。
いのちを奪ったのだと、罪を告白するのだから。
……だというのに、タブンくんはどこまでもきょとんとしながら他人事のように軽々しく答えた。
「……はい、僕がやりました……『たぶん』……」
……参った。
殺人者がみずから死体を探しにやって来るなんて、前代未聞だ。
そもそも、その殺人者には『ひとを殺した』自覚がないと来た。
……これは、厄介なことになりそうだ。
これからのことに思いを馳せながら、僕は呑気にお茶をすするタブンくんに向かって肩を落とした。
「……とりあえず、話を聞かせてください」