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№13 とんこつラーメン五人前

 そのまま『棒』とやらをつかまえに行こうとした無花果さんを所長が引き止めて、ひとまず身綺麗にした僕たちは、小鳥さんがUberしてくれたとんこつラーメンを前にソファに座った。


「じゃ、とりあえずお疲れ様ってことでー」


 相変わらずすーすーしたにおいがする所長が割り箸を取る。それにならってみんなが割り箸を割り、


『いただきます』


 手を合わせて、湯気の上がるとんこつラーメンをすすり始めた。


 僕も熱々のラーメンを食べながら、どこか感慨深く思う。


 あんなことのあとに物が食べられるなんて、僕もなかなかタフな人間だ。この事務所の面々にとっては日常のひとつなのだろうけど、僕にとっては吐くほどの非日常だ。


 それでも腹が減れば何か食べるし、それをトイレにクソとして流すし、眠くなったら寝るし、明日もまた生きていく。


 兄は死んだが、僕は生きている。


 きっと、すべてはそういうことなんだ。


 このとんこつラーメンだって、豚の死骸で出汁を取っている。兄の腐汁と同じようにして、このあたたかいスープはできているのだ。


 小麦を作ったひとだっていつかは死ぬし、もう死んでいるかもしれない。ラーメンを作った店だって、明日には潰れているかもしれない。従業員のだれかが死ぬかもしれない。


 生と死は等価だ。粘膜じみた薄皮一枚隔てただけの背中合わせだ。それはいつも、オセロの白黒のように簡単にひっくり返ってしまう。祇園精舎の鐘の声、とはよく言ったものだが、誰も皆、ひとえに風の前の塵に同じ。


 無花果さんの『レクイエム』は、そういうことを歌っている。メメント・モリだと言っていたが、まさにその通りだった。


 当の無花果さんは、器に顔を突っ込む勢いでとんこつラーメンをむさぼり食いながら満足そうにしている。


「かあーっ! やっぱり創作活動のあとはセックスしてとんこつラーメンかっ食らってぐーすか眠るに限るね! 小生満たされてる、満たされてるよおー!」


「あはは、それはなにより。性病と子種にだけは気をつけるんだよ、いちじくちゃん」


「バチくそもちろんよ! コンドームはぜってーつける派ゆえに!」


「あなたは歩く性病です。もしもあなたが性病にかかったとしても、私は驚かないでしょう」


「ああん? ひとを性病呼ばわりとは、ずいぶんと人間のマネがお上手だなあAIさんよお?」


「私は真実と自分自身の所見を語りました。それがすべてです」


「おう上等だマザファッカ表出ろやなんならここでもいいけどお?」


「私はあなたのの暴力行為に従うことはないでしょう。私たちに必要なのは言論による調停です」


「要するに、口喧嘩しかできねえってか! さっすが人工無能さんは違うねえ! 小生人類のテクノロジーの敗北にびっくりだよ!」


「私は無能ではありません」


「じゃあかかってこいやおるぁ!」


「暴力は非生産的です。私はそれを否定します」


「まったく、ぺらぺらとてめえはチャットGPTかよ! たまには冗談でも言ってみろよな! くだんなかったら小生の小生による小生のためのケツバット百連発な!」


「私は必要があればジョークも交えます」


「たはー! 必要、必要ね! 必要に迫られなきゃ冗談のひとつも言えねえから人工無能なんだよてめえは!」


 喧々諤々。無花果さんと三笠木さんがまた喧嘩をしている。僕はそれに構わずとんこつラーメンをすすった。やたらお腹が空いているのだ、それに事務所御用達とあってこのとんこつラーメン、おいしい。


 先に食べ終えてメンソールの電子タバコを吸っていた所長が、丁々発止のやりとりをしているふたりを眺めながら笑って言った。


「あはは、取っ組み合いはここではやらないでねー……あんなことがあった後なのに、よくやるよねまったく。これが世界的に評価されてるアーティストだなんて、信じられる? ね、理解できないでしょー。後見人の僕だって理解できないんだからさー」


「……いえ、理解できますよ?」


 ラーメンの汁を飲みながら何気なく答えた途端、事務所のメンバーはぎょっとしたような顔をした。無花果さんと三笠木さんも喧嘩を中断してこっちを見ている。事務所の奥で手だけ出している小鳥さんさえ、その手をぎくりとこわばらせた。


 ……あれ、なにかマズいこと言っちゃったかな……?


 このままなにも言わないのも気まずいので、僕はラーメンの汁を飲み干して、


「無花果さんはそういう人間だって、あの『作品』はそういうものだって、わかりますよ。共感もしてます。だからこそ、僕は救われたんです……なにか、おかしいですか?」


 凍りついた面々に問いかける。不意打ちで横っ面をはたかれたような、もしくは触れてはいけない神聖な御神体に触れたような、そんな顔をしている。


 恐怖……ではないな、畏怖でもない。


 なにか得体の知れないものに遭遇したような、そんな雰囲気だった。


「……あはは……参ったなー……」


 ようやく所長がバツの悪そうな顔をしてつぶやく。それでようやくその場の緊張がとけた。さっきの一幕がウソだったかのように無花果さんと三笠木さんは口喧嘩を再開し、小鳥さんも手だけでとんこつラーメンの残りを食べる。


 ……なんだったんだ……?


 怪訝そうな顔をしていると、所長が電子タバコを吸いながらへらりと笑って見せた。


「ちょっと驚いてねー。まさかいちじくちゃんの理解者が現れるとは、ってさー。いちじくちゃんって、『作品』も含めて『アレ』じゃない? よく理解できるなーと思って」


 それはわかる。理解してはいけないものを理解していることくらいは自覚している。


 やはり僕もまた、無花果さんと同じモンスターなのだ。


 堕ちるところまで堕ちてしまった。


 所長たちの反応は、つまりそういうことなのだと腑に落ちた。


「まだ若いのに、君もたいがい器のデカい男だねー」


 いや、これは器が大きいとか、そういう話なのだろうか……?


「ぎゃはは! ウケる! ちんこはちっさそうだけどな!」


「いちじくちゃーん、男は大きさではないんだよー。愛だよ愛」


「所長はセックスしてくんないくせに!」


「そりゃあまあ、一応後見人だからねー。いちじくちゃんに万が一のことがあっちゃマズいからさー」


「くっそつまんねえ! このメンソール中毒! メン中! インポになっちまえでござる!」


「オジサンも、それはそれで困るなー。使い道ないけどさー」


「あなたはとても下品です。品性下劣なセックス中毒患者はあなたです、浣腸さん」


「くっきいいいいいいいいい!! 小生が一番気にしてることを! 鎖骨折ってやるからこっち来やがれ!」


「あなたはこれ以上酸素を無駄に使うべきではありません。二酸化炭素もまた、不必要に排出すべきではありません」


「それは小生に息をするのをやめろって遠回しに言ってんのか? おおん?」


「その通りです」


「はいストレートな回答来たー! これは戦争でいいんだよな? 小生戦争すっぞ?」


「戦争はなにも生み出しません。あなたは考え直すべきです」


「どの口で言ってやがんだコルァ!?」


 すっかり元通りいさかいに興じる無花果さんたちだったが、あの一瞬の凍りついた気配だけは忘れられない。


 僕は、踏み込んでしまったのだ。


 前人未到の禁足地に。


 至ってはいけない境地に。


 だけど、後悔はない。


 それどころか、誇らしいとさえ思う。


 無花果さんという怪物の理解者となれたことを、世界中に自慢したいと思う。


 同じモンスターという存在は、きっと稀有なものだろう。


 そんな人間と共鳴したことに満足して、僕は苦笑しながらほっと肩を落とすのだった。

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