すべてが終わって、ようやく僕たちは事務所に戻ってきた。『作品』はアトリエに置いたままにしてある。
ここちよい疲労感に包まれた僕たちを見て、三笠木さんは開口一番、
「あなたたちはひどくにおいます」
そう言って、鼻をつまみながら席から立ち上がった。このひとがパソコンの前から動くのは初めて見た。
三笠木さんは強引な手つきで僕たちを追い立てると、なぜか事務所にあるバスルームへと押し込めた。
水が張ってあったバスタブに、背負い投げのような格好で無花果さんを放り込むと、今度は僕にシャワーの冷水を浴びせてくる。カメラが防水でよかった。
ゲロと腐汁と汚物にまみれた僕たちは、着衣のままたちまちびしょびしょになってしまった。
その様子に納得したのか、三笠木さんはひとつうなずくと、ばたん、とバスルームの扉を閉めて去っていった。
後に残されたのは僕と無花果さんだけだ。
無花果さんはバスタブの水に浸かりながら、気持ちよさそうに手を組んで目をつむっている。長い髪がクラゲのように水の中をたゆたっていた。
水葬された死体のように、安らかに、眠るように。
ひどく安心したような顔をして笑っている。
……そう、安心しているのだ。
自分の中の発露を『作品』として昇華できて、すっきりしているのだ。
行き場のない自意識が、出口を見つけてすっかり放出されてしまった。
それはきっと、この上なく爽快な気分だろう。
死体を使ったアートでしか、そうして思いを排泄することができない。ひとの死でしか、おのれの生を実感できない。言ってみれば、『作品』は無花果さんの排泄物だ。しかし、芸術的な価値のある排泄物。
そういうクソでもってしか、無花果さんは自己表現ができない。
この安堵は、異端者の安堵だ、自己満足だ。
このモンスターは、こうすることでしかおのれを解放することができない。
さぞかし生きづらいことだろう。
無花果さんから芸術を取り上げてしまったら、きっと壊れてしまう。それくらい、無花果さんにとって『作品』は生きるための呼吸のようなものなのだ。
ひとの死でもってしか生きていくことができない。
無花果さんは『死』によって『生きて』いるのだ。
こんなの、まるっきりモンスターだ。
しかし、これはこういう人間なのだ。
切なくてかなしくて美しい、化け物。
そんな化け物を、僕はすっかり理解できてしまった。
共感さえしてしまった。
そんな僕だって、きっとモンスターなのだ。普通に生きている人間には理解し難いだろうけど、僕は無花果さんのことがよくわかる。
理解してしまったが最後、同じところまで堕ちることになる。それはわかっている。
頭では『いけない』と考えている自分がいる。しかし、こころはどうしようもなく共鳴してしまうのだ。
モンスター同士にしかわかりあえない『死』という現実に。
あれだけ胸をさいなんでいたもやもやも、今ではもうなりを潜めている。今なら、兄は死んだのだとちゃんと納得できる。
……泣くこともできないくらい、衝撃的な宣告だったけど。
兄は、無花果さんの手によって、徹底的に『死なされた』のだ。『殺された』のではなく、『死なされた』。一度死んだ兄は、今度こそ無花果さんがきっちり葬ってくれた。決定打をくれた。
死者を美しく見せるためのエンバーマーではなく、死者を排泄物とする『死体装飾家』、それが無花果さんという人間なのだ。
……ずぶ濡れになったままぼうっと考えていると、ふいに安らいでいた無花果さんが目をかっぴらいた。すごい勢いで水を蹴立てて起き上がると、
「よし! セックスをしよう!」
「……はあ!?」
らんらんと光る瞳で迫られて、僕は思わず大声を上げてしまった。声がバスルームに反響する。
セックス……って、あのセックス? なんで今?
そもそも、ほぼほぼ初対面の相手とすることか?
疑問符でいっぱいになった僕を置いて、無花果さんはぐいぐい来る。
「さあ、交わろうじゃないか! 君とて男だ、ついてるもんはついているんだろう! そーれ勃起! そーれ勃起!」
最低なことを言い出した。なんなんだこの女は。
「未成年つかまえて、なんてこと言ってるんですか!?」
「ぎゃはは! 問題はそこなのかい! ならば問題ない19歳は充分に結婚さえできる年齢だセックスくらいなんてことないさそれとも君は童貞なのかい童貞なのだね大丈夫だ最初はみんな初心者だ小生がみっちり仕込んでやろうさあセックスだ!」
「もろもろ問題が多すぎて追いつかないだけですおっぱいを押し付けないでください! なんで今ここでセックスなんてしなきゃならないんですか!?」
「そりゃあ愚問だよ! だって創作の後はセックスをしてとんこつラーメンをむさぼり食らうと決まっているのだから! さあ、服を脱ぎたまえ! いや、着衣がお好みというのならば小生やぶさかではないよ!」
「そうじゃないです! お願いですから発情しないでください! 創作の後で気分が上がっているだけですから! 興奮してるのは創作活動のせいですから! 混同したらあとで後悔しますよ!?」
「ぎゃはは! 小生の辞書には後悔なんて単語は載っていないのさ! セックスをさせろ! そしてとんこつラーメンを食わせろ! これは高度に政治的な要求である!」
「あーもう! 収拾つかないじゃないですか! とにかく、お断りします! そこまで軽い男じゃないんで!」
「ほほう、重い男なのかね!? めんどくさいとは思っていたがまさかそこまで重い男だとはね! 重い上につまらないと来た! そういう男はゴミクズだ! なんの魅力もない! 君、モテないだろう!? 雰囲気イケメンのくせに!」
「竿モテは望んでないです! 僕はあなたと違って純情なんです!」
そこまで言って、やっと無花果さんは落ち着いてくれた。不満げにくちびるを尖らせながら、ぺ、とその場に唾を吐く。お下品だ。
「つまんなー! ありえないくらいつまんないんですけど! 仕方がない、棒はその辺で適当に捕まえてこよう! けど絶対にあのAI野郎とはセックスしないぞ! あいつぜってーヘタクソだし!」
ざぶざぶと水を撒き散らしながら、無花果さんは意気揚々とバスルームから出ていった。まさか、本当にこれから適当な男を捕まえに行くのだろうか……?
……なんなんだ、このひとは?
理解したと思ったら、また意味不明な部分が出てくる。深淵にたどり着いたら、まだ底があった。
無花果さんは、そんな底なし沼のような女だった。
……けど、キスはしたよな……?
その感触を思い出してくちびるに触れてみる。ゲロまみれになって、僕たちはキスをしたのだ。その事実は揺るがない。
僕にしてみれば拒んだのに無理やり奪われたようなものだが、不思議と悪い気はしない。無花果さんは美人だし、魅力的だ。たとえそれが常人には気味悪がられるような美徳だとしても。
それを『魅力』だと思ってしまう僕も、つくづくモンスターだ。堕ちるところまで堕ちてしまった感はあるが、こうなってしまってはもうしょうがない。
「……着替え、あるかな……?」
とりあえず、この汚れとにおいをなんとかしよう。たぶん、そのためのバスルームだ。着替えの有無は確認していないが、バスルームを用意している以上、なにかしらあるはずだ。
べしゃべしゃの服を脱いで、僕はあたたかいシャワーを浴びた。
ボディソープの泡が排水溝へと吸い込まれていく様子を眺めながら、僕はひとの諸行無常やはかなさに思いを馳せ、同時に無花果さんというモンスターに痛いくらいに共鳴するのだった。