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№11 レクイエム

「……できたよ。これが『私』の『作品』だ」


 疲れきったように椅子に身を投げ出し、無花果さんがつぶやいた。相当に気力体力を消耗したらしく、いつもの元気はなりを潜めている。


 いや、これはクールダウンの時間なのかもしれない。火照ったこころを落ち着かせるための時間だ。まだ無花果さんの中には創作の炎がくすぶっていて、それをどうにか鎮めている。


 無花果さんは、引き続きだれに宛てるでもない独白を紡いだ。


「私はね、死に触れる度に身の毛もよだつような生を実感する。そうすることでしか、今ここに自分が生きていることを認識できない。そんなどうしようもないモンスターが、この私なのさ」


 無花果さんは、自分がモンスターであることを自覚している。だからこそ、こんなかなしそうな顔をするのだ。


 僕は初めてカメラから手を離し、改めて無花果さんの『作品』に向き合った。


 ファインダー越しではわからなかったけど、いざ肉眼で確認したとたん、ものすごいプレッシャーに襲われた。


 食品サンプルの玉座に座った、ケチャップとマヨネーズと残飯とウジと腐汁にまみれた兄の死体。


 ……あまりにも、あけすけだった。


 受け手が戸惑うほどに、無花果さんはストレートに『死』を表現していた。


 鬼気迫る創作現場だとは思ったが、こんなのは本物の鬼の所業でしかない。忌避も嫌悪も恐怖もなく、ただひたすらに『死』と向き合った結果がこれだ。


 その『作品』は、ダイレクトに精神に訴えかけてきた。この『作品』を前にしたら、防御なんてできやしない。フィルターだとか、こころの壁だとか、そんなものはすべてぶっ壊されてしまった。


 あとはもう、こころをぼこぼこに殴られるばかりだ。


 痛烈な芸術のこぶしが、僕のこころに殴りかかってくる。


 ……痛い。重い。苦しい。


 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も殴られて、たちまちこころはばっきばきに叩き壊された。


 脳が否定する。


 が、そんなのは無駄なあがきだ。


 他ならぬこころが共鳴する。


 ……ああ、兄は死んだのだ。


 ずっと胸にわだかまっていたもやもやが消えていく。


 どうしようもなく、死んでいる。


 疑いようもなく、兄は死んでいる。


 ずっとわかなかった実感が、『死』の直撃を食らってリアルになる。


 兄は死んだのだと、僕は初めて認識した。


 途端、一気に吐き気が込み上げてきた。胃の内容物がせり上ってきて、僕は思わずえづいてしまう。これまでこの悪臭に耐えてきたこの僕がだ。


 ……ダメだ、吐く……!


 そう思った瞬間、無花果さんが椅子から立ち上がった。そしてそのまま、今まさに嘔吐しようとしている僕のくちびるをキスでふさぐ。


 何が起こったのかわからなかったが、かろうじて残っていた理性で無花果さんを静止しようとした。


「……だ、めです……いちじく、さん……!」


 だが、無花果さんはくちびるを離そうとはしなかった。


 もう我慢できなくなって、僕はキスをしたまま吐いた。びちゃびちゃと胃液混じりの内容物が吹き出してきて、僕の口内を、無花果さんの口内を、着衣を、肌を汚していく。


 僕は胃がからっぽになるまで吐いた。吐瀉物まみれになった無花果さんは、ずっと僕のくちびるをふさいでいた。


 腐敗臭と吐瀉物のにおいで、辺りは散々な状態になった。足元にはゲロの水たまりが出来ている。


 吐くまで吐いたあとで、僕はその場にがっくりと膝をついた。ゲロといっしょにこころまで吐き出してしまったように脱力してる。息を荒らげながら、僕はうなだれてしばし黙り込んだ。頭がくらくらして仕方がない。


 無花果さんは吐瀉物を気にした様子もなく、口元を乱暴に拭うと、そっと囁いてきた。


「『メメント・モリ』だよ。『死を想え』……『死』はいつも、すぐそばにいる。薄っぺらい壁一枚隔ててね。その隔たりを、ちからづくでぶっ壊す。それが私の『作品』だよ」


 そう言っては、無花果さんはふっと笑った。


 中世の修道士たちの言葉だ。『死を想え』。


 そう、僕は今、吐くほど『死』を思い知った。


 もうやめてくれ、と泣きを入れたくなるほど思い知ってしまった。


 兄の死の輪郭が、はっきりと浮き彫りになる。厳然たるリアルがド迫力でぶつかってきた。その衝撃たるやトラックに衝突したようなもので、こころがばらばらになりそうだった。


 ……それでも、僕は兄の死を飲み込んだ。


 飲み込んで、理解した。


 やっとケリがついたのだ。


 ずっと、兄の死を直視することができなかった。けど、この『作品』を前にしたらそうも言っていられない。


 そのちからは、もはや暴力だった。これは芸術の形をしたこぶしだ。僕はそのこぶしにまんまとノックアウトされてしまったというわけだ。


 しかし、悪い気分ではない。何万回『兄は死んだ』と言われるよりもしっくりくる。逆転満塁サヨナラホームランじみた爽快感さえ感じる。


 そう、僕はすかっとしたのだ。無花果さんの『作品』は暴力であると同時にエンドマークだった。映画の最後に流れる『Fin』の文字そのものだった。人生という長く壮大な一篇の映画に打つ終止符。


 これで、ああ、終わったんだなと席を立つことができる。


 ずっと僕をとらえていた兄という劇場を去ることができる。


 吐くものを吐いて、物理的にもすっきりした。


 ぺ、と吐瀉物の残紙をその場に吐き捨てると、僕は苦笑いを浮かべて無花果さんに向き直る。


「……兄は、無事死にました。ありがとうございました」


 そして、深く頭を下げるのだ。


 無花果さんは『それはよかった』と薄く笑み、


「さあ、改めて撮影してくれ。私の『メメント・モリ』を、他ならぬ君のカメラで」


「……はい」


 そう答えると、僕はゲロまみれのまま再びカメラを構えた。いろいろな角度から、いろいろな構図でシャッターを切る。


 撮影しているうちに理解した。


 無花果さんの『作品』が、多くのひとのこころを打つ理由を。


 だれもみな、いつかは死ぬ。


 だからこそ、すべてのひとが『死を想う』。


 無花果さんの『作品』は、そのヒントになってくれる。答えにはならないかもしれないが、一助になってくれる。『死』という虚無の深淵を覗き込むための光になってくれる。


 強引すぎるそのこぶしは、ときに僕たちをはっとさせるのだ。


 おそれに立ちすくんでいる僕たちの背中を、思いっきり殴りつける。


 まるで、『これが現実だ』と言わんばかりに。


 シャッターを着る度に、無花果さんの『作品』と一体になる度に、それが如実にわかってくる。


 これは勇気であり、希望だ。


 所長は『死に意味を与える』と言っていたが、この作品によって『死』のみならずその『生』にも意味があったのだと納得するのだ。


 死してなお、生者に訴えかけることができる。


 その『死』は、その『生』は、無駄ではなかったと。


 たしかに生きていたのだと。


 慰め、というほどやさしいものではないが、この『作品』は死者も生者も救う。


 レクイエムそのものだ。


 ……僕は何枚も写真を撮った。僕なんかの腕ではとうていこの作品のすごさはとらえきれないかもしれないが、それでも精一杯その意図を理解をしてシャッターを切った。


 やがてフィルムが尽きる。もう持ってきたフィルムはなくなってしまった。


 そこでようやく、憑き物が落ちたようにファインダーから視線を外す。


 無花果さんの『作品』を撮影して、僕はたしかに興奮していた。息が上がり、頬が上気している。脳の回転が追いつかない。


 そんな僕の肩を叩き、無花果さんはいつも通りににんまり笑った。


「さあ、戻ろう。『日常』へ!」

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