「さて、事件になっても厄介だ! とりあえずさっさと死体を引き上げよう!」
義務は果たしたとばかりに、無花果さんはとんでもないことを言い出した。
「隠蔽するんですか? 仮にも殺人事件ですよ?」
常識人としての僕の発言を、無花果さんは鼻で笑って一蹴する。
「当然さ! この死体にはこれから素材になってもらうのだからね! おまわりさんに嗅ぎつけられたらせっかくの素材が水の泡だ!」
そういえばそうだった。法的にはなんの根拠もない契約だけど、僕はあの契約書にたしかにサインをしたのだ。死体を見つけてもらった恩もある。
死体を使った現代アート……まるっきり死者の尊厳を無視している。神様も激おこの人外の所業だ。
だが、それに了承した僕も共犯者なのだ。無花果さんの事ばかりを責められない。
……兄の死体がどんな風に『装飾』されるのか。
正直、興味がある。
無花果さんがどんな風に作品を創造するのか。出来上がった作品というものがどんなものなのか。
そして、真の創作とはなんなのか。
アーティストの端くれとして、世界的に評価されている芸術家の制作現場というのは、否が応にもこころ惹かれるものがあった。
そういう僕も、ひとでなしかもしれない。
兄の死を確認したというのに、僕は自重の笑みを浮かべてしまった。
「おーい、こっちこっち!」
無花果さんがなにやら声を張り上げている。気がつけば、現場にはトラックがやって来ていた。死体を搬出するのは軽トラのはずなのに、なにを運んできたのだろう。
かっ!と照明がともる。まばゆいハロゲンライトに照らされた積荷は、小型のショベルカーだった。
「これもことりちゃんに手配してもらったのだよ! さあ、こいつで死体を引っ張り上げちまおう!」
さくっとショベルカーに乗り込んだ無花果さんは、キャタピラを回転させながらトラックから降りた。がこがことレバーを動かし、ショベルカーの腕を振り上げる。
「……あの、重機の免許とかは?」
「ぎゃはは! そんなもの、あるわけがないだろう! 無免許上等! 動けばいいのだよ!」
やっぱり持ってなかった。免許を確認しなかったところを見ると、運んできたのも違法業者なのだろう。こんなものまで手配してしまうとは、小鳥さんはなにものなのだろうか。
ショベルカーの腕を勢いよく残飯タンクに突っ込むと、無花果さんは残飯ごと兄の死体をすくい上げた。そしてそのまま、軽トラの荷台に載せてしまう。
ショベルカーをトラックの荷台に元通り戻して、違法業者が去っていき、残飯タンクの地獄の蓋が閉じれば、あとはひどい腐乱臭が漂うばかりの静寂が残った。
ブルーシートで覆っても、その死臭はすさまじかった。各しようもない腐ったもののにおいが、たえず鼻の奥を刺激している。
えづきそうになるのをこらえるのに必死だった。
だというのに、僕はまだイマイチ兄が死んだという実感が湧かないでいた。この腐った肉の塊が兄だって? 死に顔もわからない、かろうじて兄だと確認できる程度の死体が、兄の死の結末だって?
意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない意味がわからない意味がわからない意味がわからないいみがわからないいみがわからないいみがわからないいみがわからない
もう責めるべき恋人は死んでいるし、今さら怒りの感情も湧いてこない。かなしみも、喪失感もなにもない。
ただ虚無感に似たもやもやがずっと胸の中にわだかまっている。胃の内容物なんかよりもずっと、こっちの方を吐き出したかった。
再び軽トラを飛ばして高速に乗る。車内にすら侵入してくる死臭だけが、死の実感としてある。
しかし、それが兄と直結しない。
相談しようにも、無花果さんはただただご機嫌にラジオから流れてくる音楽に合わせてハミングをしている。どうせ話しかけてもロクな返事はないだろう。
僕はやり切れない思いだけを抱いて黙って軽トラを運転し、やがて事務所のある雑居ビルへと戻ってきた。この伏魔殿も、様々な驚きがあったことを思うと懐かしささえ感じる。
軽トラのエンジンを切ると、今度は死体を事務所へ運び込まなければならない。荷台のブルーシートからはすでにものすごいにおいが発散されており、担げば腐汁がからだに染み付いて取れなくなってしまうだろう。
無花果さんはそんな面倒のもろもろを僕に押し付けて、それ運べやれ運べと僕をせっついた。
口呼吸に徹しながら、残飯まみれの死体を担ぐ。ぼたぼたと腐敗したものや腐った汁がこぼれ落ちてきた。ブルーシートがなければ死体は崩壊していただろう。
重い。腐っても人体だ、兄はやせ細っていたが、それでもひとひとり分の重みはあった。
今回ばかりは信用ならないエレベーターも使った。ごとごとぎいぎいと不安すぎる音を鳴らしながら、エレベーターは僕たちと死体を乗せて事務所のある階へと到達する。
「おかえりー。おっと、『収穫』はあったみたいだねー。よかったよかった」
探偵事務所の扉を開けると、所長が笑顔で出迎えてくれた。この異臭に慣れているのだろう、動揺ひとつ見せない。三笠木さんも、相変わらず機械のようにパソコンに向かって仕事をしているが、出迎えの言葉はなかった。
「おうよ! ばっちり依頼こなしてきたでござる!」
「さっすがいちじくちゃん。無事見つかって重畳だよー……君も安心しただろう、まひろくん?」
「……はあ」
たしかにひと安心はしたが、どうにもならないもやもやはあった。
煮え切らない返事に苦笑する所長は、今度は無花果さんに向き直り、
「さあ、早速『創作』に取り掛かろうか。アトリエの準備はできてるよー。ことりちゃんが発注した資材も届いてる。あとはいちじくちゃんのコンディションが整い次第だねー」
「うおおおおおお! 小生やるぞ!」
「うんうん、その意気だ」
「それじゃあ、ちょっくら小生、アトリエで集中してくるから!」
「いってらっしゃーい」
手を振る所長に背を向けて、無花果さんはそのまま事務所の扉の向こうへと消えていった。
小鳥さんがまたお茶をいれてくれている。どうも、とお盆から湯呑みを受け取って、僕は所長がくつろぐソファの対面に腰を下ろした。
あたたかいお茶がからだにしみる。ほっとひと息ついたところで、ついでのようにぽろっと言葉がこぼれてきた。
「……『アレ』が、本当に兄さん……?」
思わずつぶやいた言葉を拾い上げて、所長はのんびりとした口調で返してきた。
「そうだよ、みんな死んだらああなる。ただの腐った肉塊になる。生前なにをしようが、それだけは同じだ、平等だ。それが『死』という現実だよ」
すべての人間に必ず訪れる死。それは残酷なくらい平等だった。どんな凶悪な犯罪者も、どんな偉大な発明家も、死ねばただの腐りゆく肉のかたまりだ。
だとしたら、そのひとが生きてきた意味はどこに残るというのだろうか?
やってきたことは、果たしてきた約束は、行った善行悪行は、きれいさっぱりなくなってしまうのだろうか?
……だとしたら、あまりにも虚しすぎやしないだろうか。
やり切れない思いがまた大きくなった。胸を塞ぐくらいのもやもやに、喘鳴のようなため息をつく。
「そのままだと、ただの肉塊だけどね。その腐った肉塊に生きてきた『意味』を見出し、与えるのが、いちじくちゃんのアートだよ」
「……意味を……?」
顔を上げた僕に、珍しく真剣な顔をした所長が語った。
「そう、『作品』としてそのひとの生き様を表現する。芸術に昇華してしまうんだ。その『作品』に意味のすべては集約される」
それは、アートの本来の役割でもあった。無意味なものに、無価値なものに、意味を、価値を与える。
表現するのだ。創作者の感性によって、素材の本質を。
「ただの肉袋に価値を与える、それがいちじくちゃんのアートだよ……それがどんな意味なのか、僕にはまだわからないけど」
所長ですら無花果さんを理解しかねているらしい。
だが、僕は見届けなければならない。
兄の死の結末を、その完成形を。
そうすれば、きっとこの胸のもやもやも消えてくれる。
本当の意味で、兄は成仏するのだ。
「……さあ、そろそろ準備ができてるころだ。普段は立ち入り禁止だけど、君なら大丈夫だろう。行ってくるといい」
そう言って、所長は無花果さんが消えた扉を指さした。
この扉の向こうは、無花果さんの、モンスターの領域だ。
「……いってきます」
そう残して、僕は湯のみを置いて立ち上がり、創作の現場へと向かった。