僕は今、この世の終わりのような場所に立っていた。
ぼろぼろの雑居ビルである。おそらくはまだ法律ががばがばだった時代に増改築を繰り返したのだろう、一種の迷宮のようになっている様は、香港にあった九龍城を彷彿とさせた。
入っているテナントもロクなものではない。場末の風俗店、個室ビデオ店、闇金の事務所、などなど。惨憺たるカオスぶりだ。
もしかして、ここはスラムかなにかなのだろうか? 明らかに法治国家日本の風景ではない。もっとこう、文明のにおいがあってもいいはずだ。
だというのに、今も老朽化した細い廊下ではドブネズミがゴキブリをむさぼっているという地獄が繰り広げられている。
間違いない、ここは吹き溜まりだ。こんなところに用事がある人間なんて、到底マトモだとは思えない。
思えないが……残念ながら、僕は用事がある人間だった。
だが、僕はマトモだ。
要件だってそうぶっ飛んだものではない。
廊下に寝ているホームレスをまたぎ越え、5階までの階段を登る。エレベーターも一応あったが、絶対に乗りたくないシロモノだった。
埃まみれの踊り場を4つ踏破した後、廊下の奥へ進むと、目的地のドアがあった。
ドアには『安土探偵事務所』という黄ばんだプレートが素っ気なくかかっている。
そう、僕はここに用があったのだ。
ドアを開けたいのは山々なのだが、どうも気乗りしない。こんな地獄の吹き溜まりみたいなところにある探偵事務所なんて、うさんくささがメーターを振り切っている。できることならかかわり合いになりたくない。
が、僕にはやらなくてばならないことがあって、そしてそのためにはこの探偵事務所のちからが必要なのだ。
深呼吸をしてから、古式ゆかしいドアノブをひねって扉を開く。
「……ごめんくださ……」
言いかけたところで、目の前を何かが通り過ぎていった。
いや、『なにか』なんて言い方はやめて、現実を見よう。
シスターだ。よく教会にいる聖職者の女性。長い黒髪をなびかせた長身のシスターが、骸骨とワルツを踊りながら目の前を通り過ぎて行ったのだ。
わけがわからない。脳が理解を拒んでいる。
いっそ気のせいにしたかったが、ダメだ、現実と向き合わなければならない。
僕はもう一度踊っているシスターを見やった。よく見れば、骸骨は骨格標本のようだった。そんな骨格標本を相手にして、シスターは上機嫌にワルツのステップを踏んでいる。なかなか達者な足運びだった。
そして、そんなシスターと目が合った。しまった、と思うがもう遅い。
喜色満面のシスターは、骨格標本と肩を組みながら僕に迫ってきた。
「やあやあやあ! ご機嫌麗しゅう! お客さんかい? まあ入りたまえよ! ゆっくりしていくといい!」
めちゃくちゃなハイテンションでまくし立てられ、僕は事務所に引きずり込まれた。ここまで来て客ではないと言い張っても説得力に欠ける。しかし、こんな女と関わるなんて冗談じゃなかった。
そんな僕の思惑をよそに、シスターは僕を古ぼけた応接セットのソファに座らせ、自分も隣に座って骨格標本といちゃいちゃし始めた。どうやらずいぶんなお気に入りらしい。
「ああ、いとしのジェーン・ドゥー! 今日も照り輝きが美しいね! このすべらかな肌触りに小生すっかり首ったけさ! 華奢なところもかわいらしい! 今日も君といっしょにいられて小生しあわせだよ!」
ずっとこんな調子だ。躁病患者なのだろうか、ぺらぺらとしゃべってはバイブスぶち上げで上機嫌だった。
骨格標本に頬ずりをしていたシスターは、ふと事務所の奥に目を向けた。釣られてそちらに視線をやると、そこには手があった。
手だけが、ドアの隙間から伸びていた。軍手に覆われた小さな手が、お茶の乗ったお盆を差し出している。本体は扉の向こう側にいるらしいが、手だけだった。
「おやおや小鳥ちゃん、お茶を出してくれたのかい! ありがとう、ありがとう! そんな小鳥ちゃんのやさしさが詰まったお茶は一等おいしいだろうねえ! そう、客商売はこうでなくちゃいけない!」
どうやら僕は、この得体の知れない飲み物を飲まなければならないようだ。一服盛られていたとしてもおかしくないが、出された以上はどんなところでも飲むのが礼儀と習っている。
「……どうも」
お盆から緑茶の湯呑みを受け取ると、すぐさま手は扉の向こうへ引っ込んで行った。巣穴から偵察に来た小動物のようだ。顔も知らない職員さんは、それっきり『巣』というポップなプレートのかかった扉から頑として出てこなかった。
ソファに戻ってお茶をいただいていると、もうひとりいることに気づいた。
かたかたとキーボードを叩いているのは、喪服姿の成人男性だ。背が高く、黒髪をオールバックにしている神経質そうな男だった。
やっと出てきたマトモっぽいひとにひと安心していたのもつかの間、シスターはその男に向かって絡み始めた。
「君も小生や小鳥ちゃんのように少しは愛想良くしたらどうだい?」
揶揄するような口調で言われても、男は一切途切れることなく機械のようにキーボードを叩き続けていた。
「私は事務員です。私には接客の業務は課されていません。それはあなたの仕事です」
「ああん? 相変わらず中学英語の教科書の日本語訳みたいな喋り方しやがって! そんなんだから君はAIなのだよ! やーい、ひとでなしー! トンチキ! ゲロシャブ!」
「あなたは私と口論がしたいのですか?」
「いーや、小生君を殴りたいね! スカシやがってこの野郎殴りてえとは常々思っていたけれども、今日はまた一段と殴りたい!」
「あなたは暴力によって私を服従させようとしていますか? あなたは愚かです」
「あ、今バカって言った? 言ったよね? おーし表出ろぼっこぼこにしてやんよ!」
いつの間にやら喧嘩が勃発していた。当の僕はすっかり置いてけぼりだ。腕まくりをするシスターがAI男に迫っているが、男はまったくモニターから目を離していない。
骨格標本とワルツを踊る躁病シスター。
手だけの職員。
AIみたいな事務員。
……やっぱり、ここは魔窟じゃないか。
遅ればせながら、僕はあの扉を開けたことを後悔していた。この乱痴気騒ぎのすべてはあの瞬間から始まっていたのだ。もう僕にはどうすることもできない。
……そもそも、僕はここになにをしにきたんだっけ……?
いかんいかん、当初の目的を見失ってはいけない。
僕は確固とした目的があって、この場所を訪れたのだ。今更用事を果たさずに帰ることはできない。
しかし、一体どうすれば……?
いよいよシスターがAIにつかみかかろうとしていたその時、事務所の奥にあったゲーミングチェアから男の声が聞こえてきた。
「ちょっと君たち、もうちょっと仲良くしなよね」
ああ、待ちに待っていたマトモなひとだ。そう、探偵事務所と言うからには所長がいるはずだ。おそらくはゲーミングチェアの主がそうなのだろう。
ぱあっと顔を明るくして救いを求める視線を向けると、そこにはジャージ姿でぼさぼさ頭、無精ひげを生やした中年男性が、自撮り棒を掲げながら立っていた。
やたらスースーするにおいを漂わせており、懐からなにかの小瓶を取り出すと、鼻の下に塗り始める。息を大きく吸い込んで恍惚の表情をして、それからようやく僕の視線に気づいたらしい。
「ああ、大丈夫大丈夫、ただのハッカ油だから、合法だから」
……終わった。
絶対にマトモなひとじゃない。
悪い大人の見本みたいな所長は、自撮り棒を下げる様子もなくスマホで撮影しながら、
「お客さん? ようこそ、安土探偵事務所へ!」
のんきな声でそう言って笑った。笑うと若干マトモに見える気がするが、それは他のメンバーが濃すぎるからだ、騙されてはいけない。
しかし、僕はここの他に行くあてがない。こんな『依頼』、引き受けてくれる探偵事務所なんてここくらいしかないからだ。ついでに、お金もない。
こんなロクデナシたちにしか、この仕事は任せられないのだ。
おのれの身の上を嘆いていると、所長が後ろ頭をがしがしと掻きながら歩み寄ってきた。
「とりあえず、話だけでも聞くよー」
……話すしか、ないか。
諦念にがっくりと肩を落とし、僕は渋々事情を話し始めた。