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№10 モンスターが死んだ。

 事務所で待っていたマダムを『アトリエ』へと案内した。独特の気配がしたのだろう、マダムは神妙に沈黙して僕といっしょに『アトリエ』に足を踏み入れる。


 ぼんやりとした明かりの中、無花果さんとその『作品』だけがあった。


 マダムにとっては探していた死体との対面だ、こんな状態になった自殺体ということだけでもショックだろうに、『作品』となった死体は容赦なくマダムのこころをこぶしで殴りつける。


 呆然と『作品』を見つめていたマダムに対して、消耗しきった様子の無花果さんが口端を釣り上げて問いかける。


「どうしたんだい? 唾を吐きかけてやるんだろう?」


 意地の悪い言葉に、マダムは返事もできなかった。


 その代わり、ごてごてにマスカラで盛られたつぶらな瞳から、ぼろり、としずくが滴り落ちる。


「……どうして……」


 蚊の鳴くような声音でつぶやくと、マダムは『作品』にすがりついて号泣し始めた。


「……なんで、死んじゃったの……!……こんなことなら、もっと、お金貢いであげればよかった……!……バカ、ばか……あたしがいるじゃないの……!……どうして、あたしのこと、思い出してくれなかったの……!」


 マダムはとうとう、死体を抱きしめてその場に崩れ落ちてしまった。『作品』に触れることに関して、無花果さんは何も言わない。これはマダムの、遺されたもののための『作品』でもあるからだ。


「……首なんてくくって……最後が、これ……!?……こんなのって……こんなのって、あんまりよ……!……あたしは、どうすればよかったの……!?……ねえ、なんとか言いなさいよ……!……いつもみたいに、困ったみたいに、笑ってよ……!」


 一体どうすればよかったのか。


 後悔と絶望。


 自殺者の遺族はみんなそんな『遺産』に苦しむ。


 あのときああしていれば、あんな言葉をかけていれば。


 そんな『たられば』が呪いとなって一生つきまとう。


 だが、よく『遺されたひとのことを考えろ』と自殺者を引き止める言葉があるが、自殺者にそんなことを考える余裕なんてない。


 ぎりぎりまで追い詰められて、周りが見えなくなって、大切なひとのことも忘れてしまって、もう死ぬしかないと錯覚してしまって、そしてみずからいのちを絶ってしまうのだ。


 キュルケゴールも『死に至る病』としていたが、絶望とは真実を見つめるための目を潰す毒薬だ。視野狭窄に陥ったものは、目の前にはたった一本の行き止まりへと続く道しか見えなくなってしまう。


 他にいくらでも選べる道はあるのに、めしいた瞳に映るのは死へと至る一本道だけなのだ。


 差し伸べられた手も、なにも見えなくなってしまう。


 しかし、今回の死者は最期の最後で思い出すことができた。気づくのが遅すぎてもう引き返せはしなかったが、たしかに忘れていたことに思い至ったのだ。


「……あなたのこと、死ぬまで気にかけてたと思いますよ。あなたに宛てて遺書を遺したんですから」


 そう、それもせめてものなぐさめだ。あるいは、『これは仕方のないことなんだ』と遺されたものに対しての言い訳とも言える。


 これで納得できるものなどいないけど、どういう心境でしに臨んだのか、知ることはできる。


 望んで死んだのだと、死によって救われるんだと、この死者はマダムにそう伝えてから死んだのだ。


 どうしようもなかった、と割り切れるはずがない。


 だが、これが死者の選んだ道だと理解することはできる。怒り、かなしみ、あきれ、失望、喪失感、虚無、おそれ、後悔、自責……さまざまな感情を片付けるための手助けとなってくれる。


 だから、遺書を送ったのだ。


 大切なひとが、できるだけ早く自分を忘れて生きていけるように。


「……バカじゃないの……!?」


 僕の言葉に、マダムは死体から手をどけてその場にひざまずいて顔を伏せてしまった。静かにぼろぼろと流れる涙で、厚化粧はぼろぼろだ。


 ……ああ、このひとは本当にこの死体を愛していた。


 だからこそ、この『作品』に込められたなぐさめと羨望というテーマにも気づいたのだ。


 夢なかばだったのは、死者だけではない。


 遺されたものも、決して届かない夢を叶えてあげようとしていた。そこには願いがあった。


 しかし、夢は実現しないまま、こうして死体だけが残った。さぞかし無念だろう。無念、という言葉だけでは言い表せないくらい。


 あきらめて、ごめん。


 この『作品』からはそんな言葉が伝わってきた。


 すべては自殺者の思考をトレースしたからこそできる、無花果さんにしかできない芸術としての表現だった。


 言ってみれば、自殺者だって異端者だ。無花果さんはその思いの丈を芸術として代弁する。モンスター同士にしか分からない部分で通じあって、死者と交信し、意味を残す。


 ある意味、芸術家とはシャーマンのようなものなのかもしれない。


 あるいは、レクイエムを奏でる音楽家。


 無花果さんは、自殺という選択肢を肯定も否定もしていない。ただの死のひとつの有り様としてとらえていた。


 死に貴賎はなく、平等で、だれにでも訪れるものだ。それがみずから望んだものであっても、望まないものであっても、ある日突然やってくる。それが死だ。


 結局、どんな死に方をしたとしても、死という現実に変わりはない。いつもそこには遺したものがある。


 問題はそこではない。


 死に意味を見出すなら、それは『どんな生き方をしたか』だ。未練のない人生なんてものはないと、僕は思う。けど、納得のいく人生はあると信じている。


 この死体は、すべて納得してみずから死を選んだ。


 納得のいく死に様は、納得のいく生き様だ。


 だからこそ、この『作品』はこんなにも強烈にこころを殴りつけてくる。


 なにもかもが完結してしまっているのだ。アンコールのない、完全なる終幕だ。


 無花果さんはその死を想って、この『作品』を作り上げた。メメント・モリ。死者の思いを喰らい、そしてそれを消化して、芸術として排泄する。


 そうやってひとの死を糧にして、無花果さんは生きているのだ。


 その『作品』を前にすれば、防御などできはしない。


 無花果さんの理解が、脳に直接叩き込まれる。


 決して美しいとは言えない『作品』は、だからこそ触れただけでこころが血を流す。


 マダムも今、こころから血を吹き出しながら慟哭している。無花果さんの解釈が伝わって、そのレクイエムに感情をぼこぼこにやられているのだ。


 よく見れば、マネキンが履いているのは、マダムとまったく同じ赤いハイヒールだった。


「……さあ、まひろくん。マダムを事務所へお連れして。あとは所長と三笠木の仕事だ。君は君の仕事をしたまえ」


 そう言うと、無花果さんはちから尽きたように椅子に身を投げ出した。あとは試合後のプロボクサーのようにうなだれてしまう。


「……少し、落ち着きましょう。粗茶ですが、お出しします」


 泣きじゃくるマダムの肩を抱いて、立ち上がらせる。その大きなからだを支えながら事務所へと戻り、あとは所長に任せておいた。


 そうだ、僕には僕の仕事がある。


 再び『アトリエ』に戻った僕は、改めてカメラを構えた。


 そして、ファインダー越しに『作品』を見つめ、シャッターボタンを押す。さまざまな角度で、さまざまな構図で、何度も何度も。


 その圧倒的な芸術的質量は、とても僕の腕では収め切れるものではなかった。しかし、その片鱗だけでもフィルムに焼き付けようと、夢中になってシャッターを切る。


 ……やがてフィルムが尽きて、僕はようやく憑き物が落ちたようにカメラを下ろした。


 また、この世界に無花果さんの『作品』が生まれた。


 他人の死でしか自己表現できない、やまいを癒すことができないモンスターの排泄物。


 ……それにこころを打たれる僕もまたモンスターなのだと、思わず苦笑がこぼれてしまった。

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