事務所に帰りついて、早速死体を搬入した。首の長い首吊り死体は事務所の奥の『アトリエ』へと迎え入れられる。
今回、僕は無花果さんといっしょに『アトリエ』に足を踏み入れた。『創作活動』の前の祈りの姿も写真に収めたかったのだ。
薄暗がりの中、死体をブルーシートの上に横たえると、無花果さんは早速膝を着いて両手を組み、瞳を閉じてこうべを垂れた。
祈りだ。
神に、あるいは死者に向けられた祈り。
無花果さんはいつもこうする。
『死を想う』上で、これはなくてはならない儀式なのだ。
それは無花果さんなりのリスペクトであり、ともすれば死を冒涜する行為になりかねない『創作活動』を芸術たらしめるために必要なおこないだった。
僕は知らぬ間にカメラを構えていた。ぼんやりとしたあかりの中で祈りを捧げるシスターの様子を、次々カメラに収めていく。
「……As I do will, so mote it be.」
そうあれかし、と締めくくりの言葉をつぶやくと、無花果さんはようやく目を開いた。その瞳には、なにか慈母じみたものと、悪魔じみたものが同居している。
そんな眼差しを死体に向けると、無花果さんは猛然と立ち上がった。
小鳥さんが取り寄せてくれた大量の資材のカバーを払い除けると、そこには山ほどのシャンパングラスが積まれていた。
しかし、どう見てもガラス製ではなくプラ製だ。それも、継ぎ目がはっきりと目視できるような粗悪品。中華サイトなんかで一個数円で購入できるような安物だと一発で分かる。
そんなプラのシャンパングラスを、無花果さんは丁寧に積み上げていった。そして、これまた粗悪な酒の栓を抜くと、そのてっぺんから流し込む。
たちまち安っぽいシャンパンタワーが出来上がった。
飽かずシャッターを切り続ける僕の目前で、次に出てきたのは女性のマネキンだ。デパートの服飾品売り場でよく見かける、スタンダードな白いマネキン。
服など着せなかった。担いで床に座らせると、無花果さんはそのままマネキンをM字開脚の格好にさせた。卑猥なポーズを取るマネキンは、うつろな目で虚空を見つめている。
そんなマネキンに、無花果さんはただひとつ、真っ赤なハイヒールを履かせた。これは明らかに高級品だと分かるような仕立てのいいものだ。
ハイヒールだけを履いたマネキンは、色と欲に塗れた女の姿をしていた。どぎつい赤が目を射抜く。
無花果さんは、そこでようやく死体に手をつけた。服を剥ぎ取ると、これも小鳥さんが用意してくれていた衣装を着せていく。
童話の中に出てきそうな、白いタイツにかぼちゃパンツの王子様スタイルだ。しかしこれも、あからさまにコスプレ用だと分かるような粗悪なシロモノだった。
そんなパチモノの王子様に、最後に靴を履かせる。使い古したぼろぼろのスニーカーだ。マネキンの赤いハイヒールとはとてもじゃないけど釣り合わないような、みすぼらしい靴だ。
着せ替えを終えると、無花果さんは死体に針金を通して首や姿勢を固定していった。からだは床に這いつくばらせ、長く伸びた首をマネキンの脚に巻き付ける。
その状態でしっかりと固定すると、首吊り死体特有のだらりと垂れた舌は赤いハイヒールを舐めるような状態になった。
無花果さんはその首にネクタイを結ぶと、最後に安っぽい王冠をその頭に載せる。
僕はその間、絶え間なく写真を撮り続けていた。以前のような荒々しい『創作活動』ではなく、静かで丁寧な仕事だった。
それでも、無花果さんの瞳からは矢尻のような光が消えることはなかった。何もかもを射抜くような、鋭くとがった切っ先が告げている。
これが無花果さんなりの『メメント・モリ』なのだと。
死体でしか自己表現ができないモンスターの、ひとの死でしか自分の中のやまいを発散できない『Grave Dancer』の、たましいの慟哭が聞こえてくるようだった。
「……できたよ。今回の私の『作品』だ」
内心の熱を抑え込むような口調でつぶやいて、無花果さんはやっと呼吸らしい呼吸をし始める。
……色と欲の女性を象徴したようなマネキンと、それに媚びを売るように寄り添うパチモノの王子様。
何もかもがチープだった。照明を反射して空々しく輝くシャンパンタワーも、王子様の衣装も、靴も、なにもかもが偽物だった。ただひとつ、マネキンの赤いハイヒールだけが本物だ。
どぎつい欲望と、相反するような安っぽさ。
娼婦に媚びを売る詐欺師。
……いや、これは媚びているのではない。
……うらやんでいる?
大切そうに舌を這わせる赤いハイヒールへの羨望か。唯一の本物であるマネキンの靴へのあこがれか。
本物になれなかった安物の王子様は、卑猥なポーズをしたマネキンをうらやんでいるのだろうか。
……いや、それだけではまだ理解が浅い気がする。
羨望と同時に、また別のものが『作品』から伺えた。
これは……なぐさめ?
ぽっかりと空いた眼窩は、今にも涙を流しそうに見えた。
首を巻き付けるほどに執着したマネキンの靴を舐める姿からは、動物が相手の傷を舐めるような印象を受けた。
傷を癒そうとしているのだ。
他ならぬこの偽物の王子様がつけてしまった傷を、つぐないのように治そうとしている。
そんなこと叶いやしないのに、せめて少しでもと、懸命に舌を這わせている。
この死体にできる唯一のなぐさめが、それだった。
遺されたものに対して、精一杯できること。みずから死を選んだ人間が最期にできる恩返しはこれくらいだった。
……羨望と、なぐさめ。
この『作品』から伝わってくるものは、そんな感情だった。
マネキンは明らかにマダムを象徴している。お金というリアルを兼ね備え、奔放に生きている女。
死体はそれをうらやんでいた。どうしてもたどり着けない場所を遠くから眺めていた。
同時に、一番近くで寄り添っていた。
甘えるように首を巻き付け、自分がつけてしまった傷をなんとかして癒そうとしている。
しかしそれも叶わず、ただただ動物的なやり方でしか傷をなぐさめることしかできない。
なにもかもに手が届かず、夢なかばで、遺すものだけ遺して、自分勝手にいのちを絶った死体が、唯一できること。
その『作品』からは、精いっぱいの『いいなあ』と『ごめんね』が聞こえてきた。
こんな声が聞こえてきて初めて、僕はその『作品』のすべてを理解することができた。
夢中でシャッターを切る。夢中すぎて、またしてもピントや絞りの調整を忘れてしまった。
しかし、それでもその『作品』の意図をできる限り汲み取り、僕なりの解釈でフィルムに刻みつけていく。
その瞬間、たしかに僕はアーティストとしての無花果さんの概念と同化していた。からだで繋がるよりも深く、言葉で繋がるよりも率直に、僕は無花果さんとひとつになった。
何度も何度もシャッターボタンを押して、気がついたらけっこうな時間が経っていた。
ようやくカメラから顔を離した僕は、ファインダーという窓を取り払った状態で『作品』と向き合う。
……月並みな言葉だけど、胸が締め付けられるようだった。
ぎゅうぎゅうとこころを鷲掴みにして、爪を立て、じかに傷痕を残すような『作品』。その爪からは、僕のこころが流した血液が今にもしたたり落ちそうだった。
それでもなお、その『作品』は僕のこころをとらえて離してくれなかった。
どこまでも深く刻みつけてやる、という鬼気じみた執念を感じた。
「……マダムを、呼んできてくれ」
無花果さんの言葉で、ようやくその呪縛から開放される。はっと我に返った僕は、こくこくとうなずくと事務所へ向かい、死体が帰ってくることを待ちわびているマダムを呼びに行くのだった。