「……ここ、ですか……」
天高くそびえる建設中のビルを見上げ、つぶやく。
小鳥さんからもらった地図は、たしかにここを示していた。建設中なので更地にピンが立っていたが、ここで間違いないはずだ。
「ああ、ここで間違いない! さあゆくぞ、まひろくん!」
「行く、って……階段もまだ出来てませんよ?」
「あるじゃあないか、そこに!」
そう言って無花果さんが指さした先には、作業用らしき細い鉄骨の足場があった。階段と呼ぶにはあまりにも頼りないシロモノだ。
しかもこのビル、ものすごく高い。ここらで一番高いようで、落ちたら当然潰れたトマトになる。
手すりもいのち綱も防護柵もセーフティネットもない隘路が、延々と天に伸びていた。
……これを、のぼる……?
実は高所恐怖症の気がある僕にとっては、ずいぶんな無理難題だった。
しかし、ここで容赦してくれる無花果さんではない。
「さあ、のぼれ! ぎゃはは、落ちたら落ちたでそれもまた一興さ!」
確実に死ぬので、のちのち笑い話にしたりはできないだろうけど。
……やるしかないか。
無花果さんは急かすように僕の背中をどやしつけている。僕ばかりがまごまごしていても仕方がない。
意を決して、僕は最初の一歩を踏み出した。
こわごわと頼りない鉄骨の階段を上がり、だんだんと地表から離れていく。普段、これほどまでに地球の重力を実感することはなかなかない。一歩踏み外せば死ぬ。タイトロープをしている気分だ。
震える足で一段一段を踏みしめて、確実にてっぺんへと近づいていく。上空へ近づくにつれて、びょうびょうと冷たい風が吹くようになった。風に煽られたら一巻の終わりだ。いつしか僕は、両手をついて這いつくばるように鉄骨の足場をのぼるようになっていた。
恐怖はもちろんだけど、疲労も蓄積していく。何十階もの高さを、エレベーターもなしに人力で上っているのだ。次第に膝が笑ってきて、日頃の運動不足を実感した。
「……無花果さん……少し、休みませ……」
振り返った瞬間、思わず息を飲んでしまう。
無花果さんは、苦しそうに胸を抑えて息を荒らげていた。明らかに単なる疲労ではない。ぜいぜいと呼吸しながら、鉄骨の上にうずくまっている。
「大丈夫ですか、無花果さん!?」
落ちてしまわないように肩を押さえて問うと、無花果さんは喘鳴をこぼしながらなんとか答えた。
「……すまんね……小生、喘息持ちで……」
「喘息持ちだってわかってたら、こんな無茶しないでくださいよ!」
「……いや、死体があると聞いたら……いても立ってもいられなくてね……大丈夫だ、吸入薬は常備しているよ……」
そう言うと、無花果さんはふところから喘息の吸入薬を取り出して、吸い込みながら深呼吸をした。
なんにせよ、これ以上進むことはできない。
喘息の発作が出たのだって、精神的な要因もあるだろう。やはり、無理をしているのだ。こころよりも先にからだが悲鳴を上げている。
足場はまだ先があった。もうけっこうのぼってきたけど、今更てっぺんまで行こうとは思わない。
「……ひと休みしたら、引き返しましょう」
ようやく呼吸が正常になってきた無花果さんに向かって、僕は苦渋の決断を下した。
しかし、無花果さんは振り切れたような笑みを浮かべて、
「なんで!?」
「いや、なんでって……無花果さん、もう限界でしょう。なにも無理することありませんよ。一旦戻って、今度は僕がひとりで……」
「何を言っているのかね!? 言っただろう、ことは一刻を争うと! 小生ひとり戻ったって仕方がない、すぐにでも死体の元に行かなければならないのだよ!」
妙に焦っているのは、なにか理由があるのかもしれない。だが、からだにガタが来ている以上、これより先は進めない。
僕はなんとか無花果さんを説得しようとしたけど、それより先に、
「さあ行くぞ! 『素材』がすぐそこで待っているんだ!」
真っ青な顔色とは裏腹に、目だけはぎらぎらと輝いている。薬物中毒患者のような眼差しは、たしかに足場の先を見据えていた。
……てこでも動かないか。
やはり、このひとは根っからのアーティストなのだ。
目の前に『創作活動』のタネがあると分かると、一直線に進むことしかできなくなる。
こういうところもまた、業が深い。
だが、同じアーティストの端くれとしてはわからないでもない。嫌いでもない。
進むと言うなら、僕もまた進もう。
「……しんどくなったら言ってくださいね」
「おぶってくれるのかい?」
「まさか」
「つれないねえ」
そんな戯言を交わしながら、僕たちはしばしの小休憩を取った。
無花果さんが落ち着いてきたところで、歩みを再開する。てっぺんまでもう少しだ。ぷるぷるする脚を叱咤しながら、這いつくばるようにして頼りない足場をのぼっていく。
……そして。
やっとたどり着いたビルのてっぺんは、幸いなことにコンクリートが敷き詰められていた。あちこちに資材や重機が並び、いかにも建設中といった風情だ。
息を切らしながら屋上を端から端まで見たけど、死体らしきものはどこにもない。
……まさか、無花果さんの『推理』が外れたんじゃ……?
「……どこにもありませんよ?」
怪訝そうな顔で振り返ると、無花果さんはいきなり中指を立ててきた。唐突に侮辱されて、僕は目を白黒させる。
「……そうじゃない。上だよ、上」
だったら中指ではなく人差し指を使えよと言い返したいのは山々だったけど、僕は言われるがままに頭上を振り仰いだ。
……雲の切れ間から、三日月が浮かんでいるのが見える。その三日月を背景に、クレーン車のアームが伸びていた。
その先のワイヤーに、なにかがぶら下がっている。
最初は、それが人間の死体だとは思えなかった。人体としては、あまりにも『長すぎた』からだ。
……吊った首が、伸びているのだ。
クレーン車の先端から飛び降りた際に頚椎を折ったのだろう、そのまま時間が経過した首吊り死体はこうなると聞いたことがある。
それは、まるっきり妖怪の『ろくろ首』だった。
「……おそらくは、金曜の夜に決行したのだろうね。二日もこのまま放置されていたのでは、そりゃあ首も長くなるってもんさ」
無花果さんの声に、死体に山ほどたかっていたハエが一斉に飛び立った。首吊り死体特有の、青黒く垂れた舌が見える。眼球はすでにカラスにやられていた。空っぽの眼窩が街を見下ろしている。
いっしょに死体を見上げていた無花果さんは、ひとりごちるようにつぶやいた。
「月曜日には工事が再開される。それまでに間に合ってよかった」
なるほど、あんなに急いでいたのはそんな理由があったからか。たしかに月曜日には工事が始まるだろう。そうなってしまえば、死体は露見してしまう。『素材』になどできるはずもなく、警察が来るだろう。
無花果さんは、そうなる前にどうしても今夜、この死体の元にたどりつかなければならなかった。『創作活動』をするためには、この夜にすべてのケリを付けなければならなかったのだ。
「……時間が経った首吊り死体というのは、こうなっていることが多い。とりわけ、首の骨を折るような吊り方をすればね。即死だよ。痛みもなく、一瞬で逝ける。おそらく一番楽な自殺方法だろうね」
淡々と解説する無花果さんは、やはりこういう事例に慣れているらしい。ダテに自殺体を何体も見てきているわけではないのだ。首吊り死体だって山ほど探してきたのだろう。
月夜のろくろ首。
百鬼夜行に出てきそうな情景に、僕はしばし言葉を失って見入ってしまった。