「――よし、完璧だ」
練習台にした水晶を、ランプにかざしながらヨハンは呟いた。
リリアの悪魔の力を使った魔力制御は想定以上の成果をあげていた。
最初はリリア自身が魔力の制御をしようとしてしまい失敗をしていた。
しかし、試行錯誤の結果、リリアはヨハンの肩に触れているだけで良いという結論になった。
リリアが触れているだけで、ヨハンには悪魔による人外の力が備わり、魔力制御の正確さが格段に跳ね上がったのだった。
「さて、ようやく、本番だな」
ヨハンが大きく息を吐きながら言った。
「緊張しているのか? オッサン?」
腕組みしたライアンが問う。
ヨハンは口角をあげる。
「不思議な感覚だ。緊張はしているはずなのに、すげえ落ち着いている。意識がすみずみにまで行き渡っていて、何もかもが思い通りに操れそうな気がする。嬢ちゃんの悪魔の力ってのは、俺の心の中にまで作用しているらしい」
その言葉通りにヨハンの心の中は澄み切っていて、今から起こる未来さえも見通せそうな感覚すらあった。
「よし」
ヨハンがそう言って、何工程も掛けて下ごしらえをした本番用の水晶を手に取る。
そして、無造作に表面を撫でた。
「できた」
ヨハンのその言葉の意味が理解できずに、リリアはライアンと顔を見合わせた。
「なんだ、その顔。できたぞ、『願人の聖水晶』」
ヨハンは水晶をライアンの目の前に差し出した。
ライアンが受取ってそれを覗き込むと、表面にびっしりと書かれた銀色の文字は光り輝いていて、角度が変わるごとに、反射する色を鮮やかに変化させていた。
「い、今のでもう終わったのか?」
「ああ、終わった。完璧な手応えだ。少々味気ないけどな」
ヨハンは早くも片付けを始めている。
ライアンが手の中の光り輝く水晶を、リリアと一緒に見入っている間に、ヨハンは片付けを終らせてしまった。
そして祝杯とばかりに酒瓶に口をつけた。
「あー、しかし、疲れたな」
ごろりとソファに横になりながら酒を飲むヨハンを、ライアンは呆れ顔でみる。
「もうちょっと余韻とかねえのかよ? 誰も造ったことのない物を造ったんだろ?」
「だから、今味わっているだろ。酒という名の余韻を。ライアン、お前も飲むか?」
酒瓶を突き出しながらヨハンはおどけて言うが、ライアンは手を振って断る。
「付き合い悪いなお前。まぁ、でも今日はありがとよ。おかげで一つは成功だ。明日から二つ目に取り掛かるからよ、今日は帰って休みな」
すでに眠そうな顔になりながらヨハンは言う。
ついさっきまでの緊張感が嘘のようなヨハンのだらけ具合に、ライアンもすっかりと肩の力が抜けてしまった。
すると、朝から動き回った疲れが、一気に体に吹き出してくるのを感じた。
「じゃ、帰るか、リリア」
水晶を見入っていたリリアも顔を上げて、こくんと頷いた。
************
ヨハンは工房から出ていくライアンとリリアを横目で確認していた。
そしてドアが完全に閉まった音を聞いて、おもむろに体を起こした。
立ち上がり、机の上の『願人の聖水晶』を手に取る。
穏やかな笑みで表面の銀色の文字を撫でた。それに呼応するように文字は光を明滅させた。
ヨハンは椅子に座り、それを机の中央に置いた。
そして、それを包み込むように両手を添えて、目を閉じた。
幾度目のかの深呼吸の後、唇を引き結んで手の平に意識を集中させる。
すると、『願人の聖水晶』の表面の文字が発光し始めた。文字だけではない、本体の水晶自体も内側になにか光源があるかのように光り始めた。
水晶は部屋のランプよりも遥かに強い光で部屋を照らす、まるで星屑が部屋の中に落ちてきたように。
ヨハンはそっと目を開けた。
そこで彼の目に映っていたのは、机の上の水晶でもなければ、工房の中の風景でもなかった。
ここではない、どこかの家を外から見ている。
視界はその家の中に入り、家の中を歩いているかのように、景色は移ろいでいく。
やがて、ひとつの部屋の中が映し出された。そこにはベッドが置いてあり、誰かが寝ている。
視界にはベッドの中の寝顔が映った。
ヨハンは息を飲み込んだ。
そして視界の中の寝顔へ向けて手を伸ばす。
しかし実際には何もない空間では何も触れることはできずに、手は空をつかんだ。
目尻から涙が伝い降りて、ヨハンは目を閉じた。
同時に視界の情景は消えて、『願人の聖水晶』の光も消えてしまった。
工房の中はランプの光だけが灯す空間に戻った。
ヨハンは何も掴めなかった己の手の平を見つめる。
小刻みに震える指。
深い悔恨の念に胸を締め付けられながら、ヨハンは涙を拭った。