リリアは手にした雑巾で机の上をひと拭きした。
ただそれだけで雑巾はすぐに真っ黒になった。
木桶に張った水で雑巾を洗うと、瞬く間に水は黒く淀んでしまった。
もう何年も掃除をしていないというのは嘘では無いらしい。
机だけでは無く、部屋中に数年分のホコリが堆積している。
「――すまねえな、掃除まで手伝ってもらって」
重ねた本を両手に抱えたヨハンが声を掛けてきた。
「い、いえ、掃除は得意ですので、大丈夫です!」
得意気にリリアは言う。
「まったく、本当は契約外だぞ、オッサン」
両手に空き瓶を何本も抱えたライアンが言った。
ヨハンが本棚に本を差し込みながら笑う。
「だから、すまねえって言っているだろ? この掃除の分は酒でも奢ってやるよ」
「よく言うぜ、酒場には入らせてもらえないくせによ」
水晶の洞窟から帰還した三人が次に取り掛かったのは、錬成場所の整備――つまりはヨハンの部屋の掃除であった。
最後に掃除をしたのは思い出せないという部屋を、ヨハンは最初一人で掃除すると言っていたが、メイドとしての労働意欲を刺激されたリリアが自分も手伝うと言い出し、しぶしぶライアンも付き合う形となったのだった。
昼下がりから始めて、日が暮れた頃には部屋は見違えるように綺麗になった。
床に散乱していたごみや酒瓶はきれいに無くなり、雑多としていた机の上はすっきりと片付けられた。
余計な物とほこりが取り除かれた床や机は、木目がくっきりとみえるほどに磨き上げられていた。
ヨハンは久しぶりに座る作業机の椅子の上で酒瓶を呷っている。
そのヨハンを見ながらライアンが言う。
「しかし、意外だったな。オッサンだったら、掃除なんかしないで、作業を始めるかと思っていたぜ」
「まぁ、掃除や片付けは好きじゃねえけど、錬成作業にはきちんと向き合わねえといけねえからな。その為の準備は大事だ」
そう言ってまた酒を煽るヨハン。
それを見ながらライアンは息を吐く。
「いい事を言っているんだが、酒飲んでいるから、台無しだな」
リリアも苦笑いを浮かべるが、ヨハンは上機嫌に笑った。
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「――さて、始めるか」
上着の袖をまくりながらヨハンは呟いた。
目の前の作業机の中央には、洞窟で切り出してきた大小様々な水晶が転がっている。
作業台の右側には底の浅い木箱が置かれていて、ハンマーや鉄製の工具などの道具類が詰められている。
そして水晶を挟むような形で机の反対側――左側には例の本『アルカナス目録教書』が開いて置かれていた。
ライアンが目録教書の開かれたページを覗き込んだ。
「『願人の聖水晶』……? これを造るのか?」
本に書かれた錬成物の名前をライアンが読み上げた。
「ああ、そうだ。まず一つ目はそれを造る」
ヨハンが道具箱の中をごそごそと漁りながら答えた。
そして、木の柄がついた大きな釘のような工具と、小さめのハンマーを並べた。
「『願人の聖水晶』は、心に願った人の姿が見えるっている魔法具だ。材料が比較的揃えやすいから、誰でも最初に挑戦する品物だ」
「ふーん。でも、誰も成功していないんだろ?」
「もちろんだ。『アルカナス目録教書』の中は何一つ再現されていない。比較的簡単と言われている『願人の聖水晶』も例外じゃない」
ヨハンは小さめの水晶を手に取り、品定めをするようにランプにかざして見ている。
リリアは横からその様子を興味深そうに見入っている。
「よし、まずはこれだ」
ヨハンは握り拳ほどの水晶を見ながら言った。
そして机の下から小さなクッションのような布袋を取り出して机の上に置く。
どさりと音がしたことから、中には砂が詰めてあるようだ。
ヨハンはその砂入りの布袋の上に水晶を押し付ける。すると水晶は布袋の中にめり込んでいって、上面だけが顔を出している状態になった。
どうやら砂袋は水晶を机の上で固定するためのものらしい。
そこまでやってヨハンは一つ息を吐く。雰囲気からして準備は整ったらしかった。
それを察したライアンは問いかける。
「いよいよ、リリアの出番か?」
「まぁ、そうなんだが……」
「どうした?」
「……まずは、自分一人でやってみようと思う」
ヨハンが真剣な顔つきで言った。
意外な言葉にリリアはライアンと顔を見合わせた。
「ああ、まぁ、言いたいことはわかるさ。何の為に契約したのか、って話だよな。だけど、まぁ、その、なんだ……」
苦笑しながら言い淀むヨハン。
「――やりたいようにやりな」
ヨハンの肩をポンと叩きながらライアンが言う。
「出番が来たら呼んでくれ」
言いながらライアンはソファに腰を降ろした。リリアも微笑みながらソファに座る。
「ああ、わかった」
ヨハンは机に向き直って再び上着の袖をまくった。瞳は密やかに光を放っていた。