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工房の夜陰にて

 イグナシオは工房の自室へ入ると、誰も居ないはずの部屋に人の気配を感じた。


 しかし、彼は動じることなく、部屋の中央の来客用のソファに腰を降ろした。

 暗い部屋の中、人の気配は窓際の方にある。


 そちらにはイグナシオの執務用の机が置いてあり、誰かがそこに座っているらしかった。


「イグナシオ、会食は楽しかったか?」

 窓際の暗がりから声がした。


「……ヴァルゴ、用があるなら、まずは伝言を使えと言っていたはずだが」

 予想通りの声に、イグナシオはため息をつきながら答えた。


「そんなに警戒しなくても大丈夫だ。誰かに見つかるようなヘマはしねえよ。で、どうだったんだ? 美人の外交官が相手だったんだろ」


 窓の外から雲間の月明かりが差し込み、窓際の男の姿がさらされる。

 男はイグナシオの椅子に座って机の上に肘をついている。椅子に比べて身体はやけに小さい。


 しかし子供ではないことが、顔のシワが物語っている。

 ヴァルゴと呼ばれたその男は、ギョロリとした眼を嬉しそうに眇めている。


「ふん、別にどうということはない。ただ食事をしただけだ。まぁ、錬金術にあれやこれやと聞かれたから、答えてはやったがな」


「まぁ、高名な錬金術師なら、美女との会食も珍しくもないか。羨ましい限りだな、へへ」


 ヴァルゴの野卑な笑い声に、イグナシオは顔をしかめる。


「それでなんの用だ? まさか、美女との会食に参加したいというわけでもないだろう」


 イグナシオは上着を脱いで無造作に対面のソファに投げ捨てた。


「嫌な噂を聞きつけてな」


「噂? なんだ、なんの噂だ」


 イグナシオは鬱陶しそうにヴァルゴの顔を見る。その顔からは下品な笑みは消えていた。


「聖道教会。やつらが来ているらしいな」

「教会? ああ、そういえば、そんな話があったな。確か奇跡監査官という奴らが来ているみたいだな」


「そうかい、あの奇跡監査官かい」

「その教会の手の者が何かあるのか?」


「まぁ、俺等の職業柄、天敵みたいなもんだ」

「……なるほどな、確かにそうだな」


 イグナシオは納得した表情で細かく頷いた。


「アイツラは鼻が効く。アンタも気を付けときな」

「頭の片隅に置いておこう。で? それだけか?」


「ああ、あと一つ、アンタから貰ったリストについてだ。本当にこのリストで全部なのか?」

 ヴァルゴは一枚の紙を机の上に置いて問うてきた。


「どういう意味だ?」

 イグナシオはその問いかけの意図が解らず、質問で返した。


「色々とこっちでも調べてみたんだが、この街には天才と呼ばれた錬金術師がいたそうじゃねえか。街の奴らに聞いたら、そいつの名前が頻繁に出てきやがる。でも、そいつの名前はここには無い。そいつはいいのか?」


「なるほど、それでわざわざ確認に来たのか。意外と律儀だな」


「後から違うとなっても、お互い困るだろ?」

 言いながらヴァルゴはニヤリと笑う。


 その気味の悪い笑みに、イグナシオも品の無い笑みで返す。

「確かにな。だが、そいつはリストから外しても問題は無い。そいつは既に落ちぶれている。妨害工作は前に渡したリスト通りでいい」


「そうかい、解ったよ。それにしても、錬金術師も有名になると大変だな。目の前の錬成作業だけじゃなくて、こんなことまでしないといけないとは」


「一種の保険さ」


「……保険、か」


「さぁ、もういいだろう。話は済んだはずだ。この部屋だって安全なわけじゃない」


 イグナシオは手の平を振って、ヴァルゴの退室を促した。


 ヴァルゴは音もなく立ち上がり、窓の方へと歩む。


 そして無言のまま窓から消えていった。


「天才と呼ばれた錬金術師、か」

 誰もいない部屋でイグナシオはその言葉を反芻した。


 そして、とある男の名をぼそりと呟いた。

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