旧校舎の二階、技術室のテーブルの上にはタロットカードが貼られて大人しくなった物の怪がいた。兎のような長い耳がへにゃりと垂れさがっている。
猫の体に兎のような耳が付いているというのは何とも不思議だ。千隼は面白いなと物の怪を観察する。
暫し、物の怪を見ていれば源九郎が静代を連れてやってきた。彼女がこの物の怪を見て、「この子です!」と指をさしたので、風吹はさてどうしようかとタロットカードを一枚、手に取る。
「祓うこともできるが……」
「祓わないんですか?」
「なるべく祓いたくはないんだ」
元はこの土地に住んでいたものだ。あとからやってきたのは人間で、住処を追いやられた妖怪たちに罪はない。とはいえ、悪さをするのは良くないことではある。
説教ではないにしろ、対話をして穏便にすませることで、妖怪たちは祓われることもなく、人間も迷惑を受けない。静かに暮らしていくことができる選択を与えたいのだと風吹は話す。
なんでも祓うものだと思っていたが、そう言われるとそうだなと千隼は納得した。妖怪側も住処を奪われているのだから。
「さて、キミはもう迷惑をしないと約束できるかい? できるなら、その札を外してあげる」
風吹が優しくそう問えば、物の怪はうんうんと首を縦に振った。もう何もしないと言うように必死に。
「約束できるね? なら、剥がそう。ただし、約束を反したら祓う」
物の怪がミギィと鳴いた。それは約束をするという返事のようで。風吹は貼っていたタロットカードを剥がす。
自由になった物の怪が宙を浮いてくるくると回り始めた、自由になったぞと。けれど、ひょいっと物の怪は静代に捕まる。
「わたしたちがこの子の面倒をみるので大丈夫ですよ、妖狐様!」
「それなら安心だ。もう連れていっても大丈夫だよ」
任せると風吹に言われて静代と源九郎は物の怪を連れて教室を出て行った。残された千隼は案外、あっさり終わるものだなと拍子抜けてしまう。
「あっさりしているなと思ったかい?」
「え? はい、少し」
「早々、大それたことはしないんだ。私は人間も妖怪も穏やかに過ごせるようにしたいだけだよ」
どんな存在であれ、生きる権利はあるのだから。そう話す風吹の言葉は優しく、本心からそう思っているようだった。
その一言で彼の人となりが知れたような気がした。無意識に顔を見つめてしまっていた千隼に風吹が首を傾げながら、「どうしたんだい?」と問う。
「何か疑問でもあっただろうか?」
「え? あ、えっと……なんでタロットカードなんだろうなぁって……」
勝手に人となりを知った気で見つめてしまっていたことを言うのは恥ずかしさもあって、千隼は誤魔化すようにそう答えれば、風吹はあぁとタロットカードを手に取った。
「タロットカードのほうが便利なんだ。誰かに見つかったとしても、占いが好きだと誤魔化すことができるからね」
お札といったものは持っていることが誰かに見られてしまった場合、誤魔化すのが難しいのだという。お守りならばそんなことはないが、お札を持ち歩くなど不審に思われかねない。
その点、タロットカードは便利だ。持ち歩いていたとしても、占いが好きだからと理由を言えるだけでなく、適当に弄っていても怪しまれることはない。今、占い事をしているのだなと思われるだけだ。
「千隼が私に声をかけてきた時、タロットカードをシャッフルしていただろう? あれは妖力を籠めていたんだ。お札だと怪しまれるが、タロットカードではそうではない」
「なるほど」
「まぁ、私を薬師寺風吹と知ってあんな風に声をかけてきたのはキミが初めてだけどね」
「失礼な態度でしたか?」
いいやと風吹は首を振る、千隼は何も失礼な態度は取っていないよと。彼は「キミは見てきた人とは違う反応をしていたから」と話した。
薬師寺と知っている人間の態度というのは大きく分けて三つのパターンがある。
一つは媚を売ってくるまたは恩恵を受けようとする。
一つは敵対的、または協力を結ぼうとする。
一つは尊敬あるは好意を抱く、または避ける。
大体がこの三つの中に当てはまるのだが、千隼は違っていた。知っていて媚を売ってくるわけでも恩恵を求めるわけでもなく、敵対するわけでもない。協力を申し出るわけでも、避けるわけでもない。
ただ、話しかけてきて占ってもらっただけなのだ。色恋で近づいてくることもあるがそれすらも微塵も感じない。
「てっきり知らないのかと思っていたけど、そうではなかったから驚いたさ」
「何か悪いことでしたかね?」
「いいや。珍しいと思っただけだ」
珍しかった、何の邪な考えも持たずに話しかけられたことが。風吹の言葉に千隼は彼も色々あったのだろうなと察する。
ある程度の地位や、財力というのを親が持っていると子供に影響が出る。周囲からの視線も、言動も変わってくる。だから、千隼のような態度というのは珍しく映ったのだろう。
「不思議な人だなと思っていただけかなぁ。正体は不思議どころじゃなかったんだけども」
元お狐様な妖狐だもんなと千隼が呟けば、風吹は「それを知ってもなお、普通に接してくれるのがもっと珍しい」と話す。普通は怪しむだろうにと言いたげに。
「えー、うーん、風吹先輩は怪しくは見えないけどなぁ」
「その純粋さが少し心配になる。でも、嬉しかったよ」
キミはそれだけで相手を決めつけることも、恐れることもなかったから。安堵するように、っと息をつくように風吹は囁く。それは彼の心からの声のように千隼は感じた。
普通の人間ならば、恐れるなり、勝手に決めつけて態度を変えるかもしれないなと千隼は思わなくもなかった。でも、そうでもない人間もいるとも言える。自分は全くそうではなかったから。
風吹にとって自分のような存在は珍しいのかもしれない。安堵している姿を見るに少なからず不安はあったのだろう。
「僕はそれだけで決めつけたりしませんよ」
何故だか、もっと安心させたくなった。自分の前ではそんな不安を感じてほしくなくて。千隼はそう言葉にはしなかったけれど、今の一言で風吹には伝わったようで。
「ありがとう、千隼」
ふっと微笑んだ風吹の顔に不安にはもうなくて。優しげに細められた眼に千隼は目が離せなかった。あまりにも眩しく映ったから。