ふぁっと欠伸をする。廊下の壁に設置された姿見にくりっとした栗色の瞳を千隼は映す。少し襟足の長い黒髪を耳にかけて眼をじっと見つめた。
「充血してるわ、これ」
「何、夜更かしでもしたの?」
「そうなんだよ、陽平。聞いてくれよー、課題が終わらなくてさぁ」
隣で茶色の短い髪を整えている陽平に千隼は愚痴った。
この聖ヶ丘高等学校は私立の名門校だ。数多の優秀な、財力を持った、または地位を持つ者たちが通っている。一般入試で入れるのは一握りである高校に暁星千隼は通っていた。
一般入試枠の狭き門を掻い潜った千隼だが、成績は他の生徒よりも低く、ギリギリ中の下をキープしている。そのため出される課題の量に着いてくので必死だった。
「まだ、高校一年生は始まったばかりだよー。こんなに課題だされるとかさぁ」
「この学校、名門校だから仕方ないだろー」
「そうだけどさー。ただでさえ、全寮制男子校ってだけでげんなりなのに、勉強まで厳しいとかきついって」
はぁと溜息をついて千隼は瞼をぎゅっと閉じながら何度が瞬きをし、陽平も髪を整え終えたのか、何を言うでもなく二人は歩き出した。
「勉強なんて嫌だぁ」
「どうどうどう、落ち着けって」
うえーんと泣き真似をして外廊下を歩きながらふと中庭の方を見る。五月中旬、桜の木には青々とした葉が茂っていた。綺麗に手入れのされた花壇には名も知らない花々が咲いている。
そんな中庭の奥、ひっそりとあるテラス席に誰かが座っているのが見えた。藍色の長い髪を流している、白ブレザー制服を着こなす遠目から見ても顔立ちが良い、少し不思議な雰囲気のある男子生徒。
あんなところで何をしているのだろうかと気になった千隼は「おい」と陽平の制服の裾を引く。
「あれ? あの生徒だれ?」
「はぁ? ……あぁ、薬師寺様だろ」
薬師寺様とはと千隼が首を傾げれば、陽平が「お前、噂話とか興味ないもんな」と話し出す。
二年生の先輩、薬師寺風吹。多くの土地を持っている大地主の家系で、いくつもの高級マンションの管理や、商業施設などの土地貸しをやっているらしい。
土地貸しをやっているだけあり、お金持ちなのだが成績も優秀で、素行も良い文句のつけようがない生徒として有名だ。
彼のことを皆、薬師寺様と呼ぶ。彼のようにお金持ちや家柄の良い生徒は皆、様付けが普通で先輩などと気安く呼べない。暗黙のルールと化している。
「一人でいるのはなんでだろ?」
千隼が知っている限りのそういった様呼びされる生徒というのは誰かしらとつるんでいた。父の部下の子供だったり、取り巻きだったりととにかく行動を共にしているのをよく見かける。
だが、薬師寺風吹は一人なのだ。大地主で商業施設にも土地を貸しているのならば、その関係者の息子や、恩恵を受けようとする生徒が近寄ってくるはずだ。
そんな千隼の疑問に陽平は「詳しくは知らないけど」と答える。
「薬師寺様、誰も相手にしないんだよ」
もちろん、近寄ってくる生徒というのはいた。それは大地主だからという理由だったり、容姿の良さに惹かれた生徒の色恋目当てだったり。
「あ、やっぱり、男に告白されてるんだ。この学校、あちこちで色恋沙汰あるよなぁ……男同士で」
「まー、女子いないし、イケメンとか可愛い男に目が行くっていうこともあんだろ。でも、薬師寺様は相手にしないんだよ」
薬師寺風吹はどんな理由であれ、相手にしないのだという。何を考えているのか良く分からない不思議な人というのが生徒の間での評判だ。
陽平にそう教えてもらい、千隼は一人でテラスに座る彼の後ろ姿を見る。寂しそうには感じられず、かと言って楽しそうでもない不思議な雰囲気になんだか興味が惹かれた。
**
その日の昼休みに千隼が中庭を覗くと藍色の長い髪が目に入った。薬師寺風吹、彼が背を向けるようにテラス席に座っている。
陽平から話を聞いて風吹の雰囲気に興味をもった千隼は観察しにきたのだ。
彼は暫くぼうっと中庭を眺めていたが、ブレザーの内ポケットからカードを取り出したのが見えた。千隼はなんだろうかと目を凝らし――あっと声を上げる。
「占い!」
タロットカードを風吹は持っていたと気づいたものの、千隼は慌てて口を手で覆う。思わず声を出してしまったと。
「まぁ、タロットカードは占い事ではあるけれど」
風吹は振り返ることなく答える。やっぱり気づくよなと千隼はどうしたものかと考える。彼は何を言うでもなく、テーブルに置いたタロットカードをぐしゃぐしゃとカットし始めた。
声を出しておいて逃げるのも相手を不愉快に思わせてしまうかもしれない。
そもそもこっそり観察していたことも失礼だと、千隼は風吹の元へと近寄って背後から覗き見る。テーブルに広げられたタロットカードがぐるぐると混ぜられていた。
「席に着いたらどうだい」
風吹がそう言って前の席を指したので千隼は促されるままに座る。彼は何を言うでもなく、ただカードをシャッフルしている。
「何か占うんですか?」
「キミは何か占いたいことがあるのかい?」
千隼がその問いに「興味はある、かな」と答えれば、風吹に「私は本人が本心から占いたいことしか占わないよ」と返された。
「じゃあ、今日の運勢が知りたい」
これといって何か困りごとがあるわけではないが、自分はあまり運が良いほうではなかったので、運勢は気になった。そう話せば風吹は纏めて山になったカードを千隼の前に置く。
「今、浮かんだ数字を言ってくれるかい?」
「え? じゃあ、五!」
ぱっと浮かんだ五の数字を口にすれば、風吹は山札の一番上から五番目のカードを引いて表に向ける。
捲られたカード塔のようなものが描かれていた。風吹はふむと顎に手を当てて考える素振りをみせてから、タロットカードを額に当てて目を閉じて何かを呟き始める。
何だろうかと黙ってその様子を見つめていればゆっくりと瞼を上げて風吹は言った。
「塔の正位置。今日は災難に見舞われるかもしれない。グランド側の廊下は通らないほうがいい」
「なんかそれ、ピンポイントですね。そんなこともわかるもんなんですか?」
千隼の疑問に風吹はただ笑みをみせるだけでこれは教えてくれないようだ。それが不思議だったけれど、千隼は「気を付けるよ」と言葉を返した。
「タロット占いってこんな感じなんですか?」
もっと引いたり並べたりするのだと思っていたと聞けば、風吹は「あぁ、これはワンオラクルという占い方だよ」と説明してくれた。
シンプルで分かりやすい占い方法の一つ。些細な質問などならばこれだけでも十分に読み取れる。ただし、質問は具体的にしておくほうがいいと。
「キミの想像しているものは多分だが、ヘキサグラムだろう。あれは確かに詳しく占うことはできるがそれは質問の重要性にもよる。今日の運勢など些細なものならば、ワンオラクルが分かりやすい」
占い方に結構な種類があるらしく、質問の重要性によって使い分けるらしい。そんなものなのかと千隼はへーっと言葉を零す。
「占いのお礼って何がいいですか?」
流石に何もなく占ってもらったのは申し訳ないなと思い、そう聞くと風吹は少し考えて笑みをみせた。
「キミの名前と学年を教えてくれるかい?」
「えっと、一年の暁星千隼です」
「そう。ありがとう」
「……え、それだけ?」
風吹の「えぇ、それだけでいいです」という返事に千隼は目を瞬かせた。名前と学年を教えるだけでお礼になるのかと。
他にはと問おうとして予鈴が鳴る。風吹は何も言わずタロットカードを仕舞うので、千隼はそれ以上のことは聞けなかった。