それは満天の星空が広がる夜更け前。ノーウィン侯爵家の屋敷内にいる、ほとんどの使用人は眠りについており、門兵が睡魔と必死に戦っている時の出来事だ。
白亜の3階建ての洋館の一室に男女四人が集まっている。皆、一様に重苦しい表情を浮かべてソファに座っていたが、その内の若い女性がヒステリックに叫ぶ。
「嫌よ! あんな人のところに嫁ぎたくありません! ジョージ、私はあなたと一緒にいたいのよ」
「ああ、なんて可哀想なシルフィー! 僕だって君をあんな男に渡したくない。ああ、そうだ。僕と一緒に逃げよう! 君となら僕はどこにだって行けるよ」
「ジョージ! 嬉しい! 出来れば私だってそうしたいわ! だけど、そんなことをしたら、お母様やお父様に迷惑をかけるだけでなく、二人に二度と会えなくなってしまうわ!」
ストレートの長い金髪に碧色の瞳を持つ、スレンダー体形のシルフィーと、その恋人でありブラウンの髪に同じ色の瞳を持つ、顔立ちの整った男性のジョージ。
抱き合う二人に少し疲れた顔をした、中年の女性が話しかける。
「シルフィー! あなたは私にとってたった一人の可愛い娘なの。あなたに会えなくなるだなんてそんなの嫌よ! お願い。私たちから離れていかないで!」
「そうだ! シルフィーがいなければ、私たちは生きている意味がない!」
中年の女性の横に座る男性は彼女の夫で、シルフィーの父親のノーウィン侯爵だ。
ノーウィン侯爵がシルフィーに訴えると、彼女は目を潤ませて尋ねる。
「でも、お父様とお母様が私たちと一緒に来るわけにはいかないでしょう?」
「そうだが、良い案があるんだ」
「良い案?」
シルフィーが聞き返すと、彼女の母が話し始める。
「……あのね、シルフィー。アバホカ陛下はあの子を気に入ってるんじゃないかと思うのよ」
「あの子? ……ってまさか、リーシャのことですか!?」
シルフィーの母はシルフィーに優しく微笑み、頷いてから答える。
「そうそのまさか。陛下はあなたの妹のリーシャのことを気に入っているようなのよ」
「じゃ……、じゃあ、私は陛下と結婚しなくても良いのですか?」
「リーシャを嫁がせましょう。きっと陛下は花嫁の変更を承諾してくださるはずよ」
「いらない子だと思っていたが、役に立つ日が来るとはな。あの子はこのために生まれてきたんだろう」
ノーウィン侯爵は大声で笑ったあと、笑みを消して続ける。
「リーシャをこの家に置き去りにして、後は任せよう」
「ノーウィン侯爵、リーシャを身代わりにするのなら逃げなくても良いのでは?」
不思議そうにするジョージに、ノーウィン侯爵は眉根を寄せて答える。
「リーシャでは駄目だと言われた時に困るだろう」
「そ、それはそうかもしれませんが、ノーウィン侯爵家の仕事はどうなるんです? ディルガ様のこともどうするんですか!」
「何の段取りもせずに出ていくつもりはない。仕事も切りの良い所までやっていくつもりだ」
「そういう問題ではないでしょう!」
ジョージが声を荒らげると、ノーウィン侯爵は彼を睨みつけた。
「静かにしろ。心配するな。有り金は全部持っていく。だが、逃げている内に金も尽きるだろう。その時に帰ってくる場所も必要だ。そのためにディルガはノーウィン侯爵家の後継ぎとして置いていく」
ディルガというのは、ノーウィン侯爵家の嫡男で、シルフィーとリーシャの兄だ。
「あいつもリーシャと同じで可愛げがないし、旅には連れて行きたくない。あいつのことだ。私たちを嫌っているから誘っても付いてくることはないだろう」
「そうだわ! リーシャがアバホカ陛下と結婚したら恩赦を求めて帰ってくることにしたらどうかしら?」
目を輝かせて言った母の言葉を、シルフィーは否定する。
「リーシャが私たちを恨んでいる可能性もあるから、それは難しいと思います」
「ではどうするつもりなの」
「お母様、私たち4人で暮らせるなら、どこにいても幸せなはずよ。そう思わない?」
「そ、そうね」
「でしょう?」
シルフィーが微笑むと、他の三人は幸せそうな笑みを見せた。その後、四人はこの家を出ていく計画を立て始める。
「隣国のアッセルフェナムに逃げよう。良い田舎町を知っているんだ。まさか侯爵家の人間がそんな田舎に逃げてくるだなんて思わないだろう」
「お父様が一緒に逃げて下さるなんて、本当に心強いわ」
「可愛いシルフィーの為だからな」
愛娘の言葉に父は頬を緩ませて答えた。ジョージがシルフィーの手を握って話しかける。
「僕は初めからリーシャとの結婚なんて望んでいなかったんだ。幸せになろうね、シルフィー」
「あなたやお父様たちが傍にいてくれるなら、私はどんな時でも幸せだから今も幸せだけどね。ディルガ兄様とリーシャには悪いけれど、私たちが幸せになら許してくれるわよね?」
「シルフィーのためなんだ。許してくれるさ」
ジョージに抱きしめられたシルフィーは、目を閉じて彼の胸に頬を寄せた。
「リーシャは何の役にも立たない子だと思っていたけれど、シルフィーの代わりになるために生まれて来た子なんだわ」
「そうだな」
シルフィーの両親も寄り添って微笑みあう。
この時の四人は自分たちの未来は幸せなものだと思いこんでいた。しかし、現実はそう甘くないことを実感させられることになる。
そして物語は、五年後のリーシャ視点で始まる。