萌香が、女子更衣室で着替えているとショルダーバッグの中で携帯電話がLIMEの着信を知らせた。眉間にシワを寄せて取り出すと、ポップアップには
おつー
お疲れ様です(既読)
なに機嫌悪いの
別に(既読)
昼メシ一緒に食わねえ?
誰があんたと(既読)
ひらみぱんのランチ奢る
行く(既読)
ひらみぱんは、オーガニックな献立がメインの、カジュアルレストランだ。明治に建てられた石造りの外観に、四季折々のハーブが花を咲かせ、壁一面がアイビーの葉で覆われている。それはジブル映画の一場面を切り取った様だと、Instagramaaユーザーの注目を集めている。
「あんた、よく予約出来たわね」
この店のランチは完全予約制だ。素朴で温かみのある献立がメインで、卵は自家養鶏場直送、野菜も自家栽培と、ナチュラルで健康志向の高い女性から人気があった。
「うちの
「ふ〜ん」
「もっと感動しろよ」
「ふ〜ん」
慎介は、大手生命保険会社の営業部に勤務している。外回りが多く、こうして萌香をランチに誘い、時間を空けずにLIMEのメッセージを送って来る。
『こいつ、私の事、好きなんじゃないの?』
何気にそう思った時期もあったが、慎介の性格はかなりのお調子者でやや横柄、その時点で恋人枠から除外された。
萌香と慎介は、ペンダントライトが照らす窓際の席に案内された。テーブルには、ライムが浮かんだミネラルウォーターのグラスと、カトラリーやナフキンが並べられた。ラウンジミュージックの静かな店内に、慎介の素っ頓狂な声が響き渡った。
「え、ちょ、マジか!孝宏が浮気!?マジか!」
「ちょ、ちょっと!声が大きいって」
「おまえら、結婚するんじゃなかったのかよ!?」
「ダッ、誰がそんな事言ってるのよ!」
「おまえの母ちゃん、喜んでたぜ」
「ああああああああ」
ぬか喜びとも知らずに陽気に笑う母親と、苦虫を潰したような父親の顔が、脳裏に浮かんでは消えた。確かに、萌香自身も、このままスムーズに事が運び、2人は結婚するものだと思っていた。
(それがまさか、浮気だなんて)
青々としたサニーレタスに包まれた、焦げ目が香ばしいハンバーグ。その上には、ポーチドエッグが添えられていた。萌香がナイフで切り目を入れると、白身から黄身が、涙を流すようにタラタラと垂れた。
「萌香、おまえ今、そんな気分?」
「え?」
「卵が泣いてるぞ」
「その通りよ、だらだらのぐしゃぐしゃよ」
「汚ねえな」
「ええん」
「ええん、じゃねーよ」
慎介はベーコンを頬張りながら、つぶらな黒い瞳を輝かせた。
「なぁ、浮気調査しねぇ?」
「ああ、それ慎介に頼もうかと思ってたの」
「マジか!」
「しっ、声が大きいって」
萌香は慎介に、孝宏の勤務時間を事細かく伝えた。お調子者の慎介は、鼻歌混じりでGooglrのカレンダーにそれらを入力し始めた。
「あんた、遊びじゃないのよ?」
「分かってるって」
「見つからないでよ」
「1回しか会ってねぇし、覚えてねぇだろ」
「そっか」
慎介は、携帯電話をスーツのポケットに入れると、水滴が付いたグラスを手に、機嫌が悪そうな面持ちをした。
「最初からあいつ、気に食わなかったんだ」
「そうなの?」
慎介は、グラスの水を一気に飲み干すと、ライムの薄切りを頬張った。
「俺が挨拶してやってんのに、顔ばっかジロジロ見て、『はい、そうですか』って失礼じゃね?」
「や、あんたの『してやってんのに』という態度もどうかと思うわよ?」
「そうか?」
「うん」
紙ナフキンで口を拭いた萌香は、慎介へと身を乗り出した。
「な、なんだよ」
「私、その女と孝宏に土下座をさせたいの」
「土下座ぁ?土下座だけで良いのかよ。慰謝料とか貰えば?」
「残念ながら、内縁の妻でなければ頂けません」
「ちぇ、1割貰おうと思ってたのに」
「強欲ね」
紙ナフキンで口を拭いた慎介は、萌香へと身を乗り出した。
「な、なによ」
「婚約者なら、慰謝料もらえるんじゃね?」
「残念ながら、指輪を貰った事もなければ、『結婚しよう』と言われた事もありません」
「3年間も、なにやってたんだよ」
「それは、そうだけど」
食べ残した赤いミニトマトが歪んで見えた。気が付くと萌香の目頭は熱くなり、生温かいものが頬を伝って白い皿へと落ちた。慌てた慎介はおしぼりを手に萌香の頬を拭こうとしたが、『ファンデーションが取れるからやめて!』と逆に怒られてしまった。慎介は申し訳ない顔をして、上目遣いで萌香を凝視した。
「ごめん」
「や、私もごめん。ちょっと涙腺崩壊状態なの」
「わかった!萌香を泣かす悪い奴は、俺が成敗してくれるわ!」
「成敗って、あんたいつの人間よ」
「じいちゃん、時代劇見てるし」
「あ、そうか」
慎介には、調査代として10,000円札を握らせた。成功の暁には、もう10,000円寄越せと言うので、萌香は渋々念書を書いた。
(成功の暁って、どの辺りよ!見つかるまで!?土下座まで!?)
そして、慎介とのランチの後、マンションに真っ直ぐ帰る気分になれなかった萌香は、百貨店の化粧品売り場をあてどなく歩いた。新色の桜色の口紅を塗ってみたが、浮いて見えた。
(最悪)
そして萌香は、ディオールのコーナーで足を止めた。ビューティーアドバイザーに勧められ、パフュームを色々と試してみたが、どれも惹かれる香りではなかった。
(あ、あれ。もしかして)
そこで目に留まったのが、メンズコーナーにディスプレイされた、オーソバージュの紺の小瓶だった。
「すみません、あの香水のテスターはありますか?」
「オーソバージュですね。メンズですが、贈り物ですか?」
「あ、はい」
咄嗟に口から、言葉が転がり出た。
手首に一滴。芹屋隼人との
「いかがでしょうか?」
萌香は迷わず、紺色の小瓶を手にしていた。パフュームを使う予定もなければ、孝宏にプレゼントするつもりもない。気が付けば紺色のショップバッグを手に、マンションの階段を上っていた。
(あ、帰ってる)
205号室の前でシリンダーキーを取り出すと、給湯器の音が聞こえた。孝宏が風呂に入っている。昨夜の、『外で入って来たから』を思い出し、胸が締め付けられたが、このままここに立っている訳にもいかない。
「ただいま」
「おう」
脱衣所から孝宏の声がした。
「おかえり。おまえ、身体、大丈夫か」
「え?」
「課長が、おまえ体調が悪くて帰ったって言ってたぞ」
孝宏が、芹屋隼人と話をした。それだけで、ホテルでの出来事が詳らかになったのではないかと、萌香のこめかみは脈打ち、動悸がした。
「だ、大丈夫。買い物して来た」
「そうか」
髪を拭きながら風呂から上がった孝宏を見た萌香は、その変わりように、呆然とした。