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第11話 ランチタイム

 萌香が、女子更衣室で着替えているとショルダーバッグの中で携帯電話がLIMEの着信を知らせた。眉間にシワを寄せて取り出すと、ポップアップには田辺慎介たなべしんすけと表示されていた。萌香の幼稚園からの幼馴染で、暇さえあれば連絡してくる。



おつー


お疲れ様です(既読)


なに機嫌悪いの


別に(既読)


昼メシ一緒に食わねえ?


誰があんたと(既読)


ひらみぱんのランチ奢る


行く(既読)



 ひらみぱんは、オーガニックな献立がメインの、カジュアルレストランだ。明治に建てられた石造りの外観に、四季折々のハーブが花を咲かせ、壁一面がアイビーの葉で覆われている。それはジブル映画の一場面を切り取った様だと、Instagramaaユーザーの注目を集めている。


「あんた、よく予約出来たわね」


 この店のランチは完全予約制だ。素朴で温かみのある献立がメインで、卵は自家養鶏場直送、野菜も自家栽培と、ナチュラルで健康志向の高い女性から人気があった。


「うちの女の子女性社員が急な出張でキャンセルするって言うから、おまえのために譲って貰ったんだよ」

「ふ〜ん」

「もっと感動しろよ」

「ふ〜ん」


 慎介は、大手生命保険会社の営業部に勤務している。外回りが多く、こうして萌香をランチに誘い、時間を空けずにLIMEのメッセージを送って来る。

『こいつ、私の事、好きなんじゃないの?』

 何気にそう思った時期もあったが、慎介の性格はかなりのお調子者でやや横柄、その時点で恋人枠から除外された。


 萌香と慎介は、ペンダントライトが照らす窓際の席に案内された。テーブルには、ライムが浮かんだミネラルウォーターのグラスと、カトラリーやナフキンが並べられた。ラウンジミュージックの静かな店内に、慎介の素っ頓狂な声が響き渡った。


「え、ちょ、マジか!孝宏が浮気!?マジか!」

「ちょ、ちょっと!声が大きいって」

「おまえら、結婚するんじゃなかったのかよ!?」

「ダッ、誰がそんな事言ってるのよ!」

「おまえの母ちゃん、喜んでたぜ」

「ああああああああ」


 ぬか喜びとも知らずに陽気に笑う母親と、苦虫を潰したような父親の顔が、脳裏に浮かんでは消えた。確かに、萌香自身も、このままスムーズに事が運び、2人は結婚するものだと思っていた。


(それがまさか、浮気だなんて)


 青々としたサニーレタスに包まれた、焦げ目が香ばしいハンバーグ。その上には、ポーチドエッグが添えられていた。萌香がナイフで切り目を入れると、白身から黄身が、涙を流すようにタラタラと垂れた。


「萌香、おまえ今、そんな気分?」

「え?」

「卵が泣いてるぞ」

「その通りよ、だらだらのぐしゃぐしゃよ」

「汚ねえな」

「ええん」

「ええん、じゃねーよ」


 慎介はベーコンを頬張りながら、つぶらな黒い瞳を輝かせた。


「なぁ、浮気調査しねぇ?」

「ああ、それ慎介に頼もうかと思ってたの」

「マジか!」

「しっ、声が大きいって」


 萌香は慎介に、孝宏の勤務時間を事細かく伝えた。お調子者の慎介は、鼻歌混じりでGooglrのカレンダーにそれらを入力し始めた。


「あんた、遊びじゃないのよ?」

「分かってるって」

「見つからないでよ」

「1回しか会ってねぇし、覚えてねぇだろ」

「そっか」


 慎介は、携帯電話をスーツのポケットに入れると、水滴が付いたグラスを手に、機嫌が悪そうな面持ちをした。


「最初からあいつ、気に食わなかったんだ」

「そうなの?」


 慎介は、グラスの水を一気に飲み干すと、ライムの薄切りを頬張った。


「俺が挨拶してやってんのに、顔ばっかジロジロ見て、『はい、そうですか』って失礼じゃね?」

「や、あんたの『してやってんのに』という態度もどうかと思うわよ?」

「そうか?」

「うん」


 紙ナフキンで口を拭いた萌香は、慎介へと身を乗り出した。


「な、なんだよ」

「私、その女と孝宏に土下座をさせたいの」

「土下座ぁ?土下座だけで良いのかよ。慰謝料とか貰えば?」

「残念ながら、内縁の妻でなければ頂けません」

「ちぇ、1割貰おうと思ってたのに」

「強欲ね」


 紙ナフキンで口を拭いた慎介は、萌香へと身を乗り出した。


「な、なによ」

「婚約者なら、慰謝料もらえるんじゃね?」

「残念ながら、指輪を貰った事もなければ、『結婚しよう』と言われた事もありません」

「3年間も、なにやってたんだよ」

「それは、そうだけど」


 食べ残した赤いミニトマトが歪んで見えた。気が付くと萌香の目頭は熱くなり、生温かいものが頬を伝って白い皿へと落ちた。慌てた慎介はおしぼりを手に萌香の頬を拭こうとしたが、『ファンデーションが取れるからやめて!』と逆に怒られてしまった。慎介は申し訳ない顔をして、上目遣いで萌香を凝視した。


「ごめん」

「や、私もごめん。ちょっと涙腺崩壊状態なの」

「わかった!萌香を泣かす悪い奴は、俺が成敗してくれるわ!」

「成敗って、あんたいつの人間よ」

「じいちゃん、時代劇見てるし」

「あ、そうか」


 慎介には、調査代として10,000円札を握らせた。成功の暁には、もう10,000円寄越せと言うので、萌香は渋々念書を書いた。


(成功の暁って、どの辺りよ!見つかるまで!?土下座まで!?)


 そして、慎介とのランチの後、マンションに真っ直ぐ帰る気分になれなかった萌香は、百貨店の化粧品売り場をあてどなく歩いた。新色の桜色の口紅を塗ってみたが、浮いて見えた。


(最悪)


 そして萌香は、ディオールのコーナーで足を止めた。ビューティーアドバイザーに勧められ、パフュームを色々と試してみたが、どれも惹かれる香りではなかった。


(あ、あれ。もしかして)


 そこで目に留まったのが、メンズコーナーにディスプレイされた、オーソバージュの紺の小瓶だった。


「すみません、あの香水のテスターはありますか?」

「オーソバージュですね。メンズですが、贈り物ですか?」

「あ、はい」


 咄嗟に口から、言葉が転がり出た。


 手首に一滴。芹屋隼人との目眩めくるめく時間が鮮明に蘇った。それは、シトラスとハーブのフレッシュな香り。そして、ラベンダーやジャスミンの繊細な甘さ。ラストノートは、ウッディな力強さで萌香を包み込んだ。


「いかがでしょうか?」


 萌香は迷わず、紺色の小瓶を手にしていた。パフュームを使う予定もなければ、孝宏にプレゼントするつもりもない。気が付けば紺色のショップバッグを手に、マンションの階段を上っていた。


(あ、帰ってる)


 205号室の前でシリンダーキーを取り出すと、給湯器の音が聞こえた。孝宏が風呂に入っている。昨夜の、『外で入って来たから』を思い出し、胸が締め付けられたが、このままここに立っている訳にもいかない。


「ただいま」

「おう」


 脱衣所から孝宏の声がした。


「おかえり。おまえ、身体、大丈夫か」

「え?」

「課長が、おまえ体調が悪くて帰ったって言ってたぞ」


 孝宏が、芹屋隼人と話をした。それだけで、ホテルでの出来事が詳らかになったのではないかと、萌香のこめかみは脈打ち、動悸がした。


「だ、大丈夫。買い物して来た」

「そうか」


 髪を拭きながら風呂から上がった孝宏を見た萌香は、その変わりように、呆然とした。 

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