ポーン
左右に開いたエレベーターの扉の向こうには、外回りから戻って来たばかりの孝宏が立っていた。片手にはビジネスバッグ、もう片手にはパンフレットが入った紙袋を持っている。
(・・・・・あ)
萌香と孝宏の視線が絡み合い、互いに気不味い面持ちになった。そして孝宏は、萌香の背後に立っている、芹屋隼人の姿に気が付き、会釈をした。
「お疲れ様です」
「ご苦労様でした」
「・・・・」
3人の間に、ほんの一瞬だが、空白の時間が通り過ぎた。萌香は、『お先に失礼します』とエレベーターから降りたが、孝宏は、萌香の背中を追う事も、振り返る事もなかった。
(そりゃ、そうよね)
萌香は、ザワザワと落ち着かない感情を持て余しながら、女子更衣室へと向かった。職場に、プライベートな事情を持ち込むなど、以ての外だ。頭では分かっている。けれど、今日くらいはそんな素振りを見せて欲しかった。
(でも、課長もいたし。そんな事、出来ないよね。当たり前だよね)
萌香は、自分にそう言い聞かせたが、『本当にそれだけだろうか?』という疑念が過った。孝宏が、これまでと変わらず萌香を愛しているのならば、課長には『忘れ物をしました』とでも、なんとでも言い、エレベーターに載らず、萌香を追い掛け、抱き締めてくれた筈だ。
(でも)
今の孝宏から、そんな情熱は一切、感じられない。
(もし、本当にその女の人を好きになっていたら?)
孝宏が浮気ではなく、その女性に本気になっているとすれば、合点がゆく。もしかしたら、萌香自身が邪魔者の立場なのかもしれない。そう考えると居た堪れなかった。
(・・・・あ!)
そしてもうひとつ、気掛かりな事があった。萌香と芹屋隼人がエレベーターの中でふたりきりだった事を、孝宏は不審に思わなかっただろうか?孝宏の浮気を理由に、例え一夜の出来事だとしても、萌香も芹屋隼人と肉体関係を持ってしまった。これは、孝宏に対しての裏切り行為だ。
(まさか、気付いたりはしないよね?)
今朝の、孝宏との諍いの原因は、萌香のシャツに染み付いたパフュームの残り香だった。それは、芹屋隼人が身に付けている香りと同じ、シトラス・シプレ ディオール オー・ソバージュだ。
(どうしよう、大丈夫だよね!?)
萌香は、孝宏が、自身と芹屋隼人との関係性を疑うのではないかと戦々恐々で、気が気ではなかった。エレベーターのランプは、3階、2階へと降りて行く。箱の中ではどんな会話がなされているのだろう、萌香はその場に立ちすくんだ。
孝宏と芹屋隼人を載せたエレベーターは、微妙な空気感に包まれていた。孝宏の喉は乾き、天井から押し潰されそうな錯覚すら覚えた。実は、孝宏と芹屋隼人は初見の関係ではない。孝宏は、6年前の春に芹屋隼人と出会っていた。
(駄目だ。き、緊張、する)
それにしても、なぜ萌香と芹屋隼人が一緒のエレベーターに載っていたのか?それが不思議だった。ただ単に、載り合わせただけかとも思ったが、芹屋隼人は4階でエレベーターを降りる事はなかった。そこで空気が動いた。
「失礼だが、君の名前を教えてくれないか?」
「は、はい!吉岡です!」
「吉岡さん」
「はい!」
「吉岡、下の名前はなんというのかな?」
「孝宏です、吉岡孝宏と言います」
孝宏は、芹屋隼人に名前を呼ばれただけで、背筋が伸びた。そこで芹屋隼人が、孝宏の横顔を凝視した。
「私は吉岡さんと、以前、どこかで会っていないかな?」
「・・・・あ」
「その時、吉岡さんには顎髭はなかった。私の記憶違いだろうか?」
「そ、そうです」
芹屋隼人の中で、吉岡孝宏という名前と面差しが合致した。もう何年も前の事だが、孝宏を新入社員研修会で担当した事があった。
「新入社員の研修で、課長が私の担当でした」
「その時、私は課長ではなくチームリーダーだったけどね」
「はい」
「あぁ、でも、やっぱりそうか。吉岡さんは対応が機敏だった」
「ありがとうございます」
「それに、なかなかのイケメンだ。よく憶えているよ」
「いえ、そんな事はありません」
孝宏は瞬時に顔を赤らめ、ビジネスバッグを持つ手が震えた。
「あぁ、そんなに緊張しないで」
「はい」
「フレンドリーな関係でいこう」
「は、はい」
芹屋隼人は、孝宏に対し和かに語り掛けた。然し乍ら、目の前にいる
「あ、あの」
「なにかな」
「やっぱり、銀行員は髭がない方が良いでしょうか?」
孝宏は、芹屋隼人の面持ちが厳しく変わったのは、自身の身なりへの注意喚起だと勘違いし、思わず下を向いた。
「いや、今の時代、それは個人の自由だよ。ただ・・・」
「ただ?ただ、なんでしょうか?」
「吉岡くんは、髭がない方が爽やかで良いと思うよ」
「そうですか」
「いや、私個人の見解だ。気にしないで良いから」
「分かりました」
孝宏は、紙袋を持ち直すと顎髭に手を遣った。
ポーン
エレベーターの扉が左右に開き、孝宏は慌てて(開)のボタンを押した。
「ありがとう」
「い、いえ!お疲れ様です!」
芹屋隼人が横を通り過ぎる時、爽やかな柑橘系の香りがした。それが芹屋隼人が愛用しているパフュームである事に気付くまで、そう時間は掛からなかった。
(これが、芹屋課長の匂い)
その時、そこに萌香への思いは微塵もなく、今朝のシャツの移り香の事などすっかり失念してしまっていた。