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第9話 エレベーター

 萌香は、目に違和感を感じて洗面所の鏡を覗いた。その面差しは酷いもので、瞼が真っ赤に腫れていた。手で何度も擦ったソフトコンタクトレンズは、乾燥して眼球の中でよれていた。


(今日は眼鏡にしよう)


 萌香は紺色のワンピースに着替えると、ドレッサーの前に座った。涙で剥げかけたファンデーションを丁寧に塗り直して、オーバル型の眼鏡を掛けた。これで赤く腫れた瞼は隠せるだろう。


(孝宏は!なに呑気な事を言ってんのよ!信じられない!)


 気を利かせたつもりの孝宏は、『一緒に、車に乗って行くか?』と、罰の悪そうな面持ちで、萌香に声を掛けて来た。萌香はそれを、ピシャリと断った。


(浮気相手のピアスなんて見たくもないわ!)


 もし、浮気相手の女性が、孝宏とをしているのならば、萌香への牽制で、わざと助手席のシートの角度を変え、ピアスのひとつも座席の下に落とすだろう。また、意図せずとも長い髪が、ヘッドレストに絡まっている可能性もある。そう考えただけで、萌香は気分が悪くなった。






「申し訳ありません、バスに乗り遅れました。遅刻扱いでお願いします」


 実際、出勤時間はとうに過ぎていた。それに、銀行で孝宏と顔を合わせる事が辛かった。萌香は、孝宏が営業で外回りに出た頃を見計らって、タイムカードを切ろうと考えた。


(ああ、最悪だ)


 4月の桜は花吹雪となり、昨夜の雨に濡れて車道の路肩を淡いピンクに染めていた。やがて爽やかな新緑の季節を迎える。この時期になると萌香と孝宏は、千里浜なぎさドライブウェイの海岸線で、ドライブを楽しんだ。そんな思い出も、今の萌香にとっては、脆く崩れる砂の城のようなものだった。


(憂鬱)


 大きな溜め息が漏れた。


ピンポーン


 インターフォンで、身元の確認が行われる。鉄の扉が解錠され、一歩中に足を踏み入れると、受付カウンターの騒めきが伝わって来た。


(はぁ、みんなに迷惑かけちゃった)


 萌香は、長い廊下で重い脚を引き摺りながら、エレベーターホールへと向かった。4階の女性ロッカールームへからは、賑やかしい笑い声がドアの外まで聞こえて来た。


「おはようございます」

「おはよう。あれ?長谷川さん、遅番だっけ?」

「いえ、遅刻しちゃったんです」


 萌香は、職場用の黒いパンプスに履き替えた。


「長谷川さんが遅刻なんて、珍しいね」

「寝坊してバスに乗り遅れちゃって」

「あ〜、あるある」


 遅出の女性行員とすれ違い、作り笑いでとりとめのない会話を交わした。それすらも、今朝は憂鬱だった。


(あぁ!もう!嫌だ!)


 萌香は、なにもかもを放り出し、犀川沿いのサイクリングロードを全速力で駆け抜けて、河川敷の芝生に寝転がり、空を眺めて大声で『馬鹿野郎!』と叫びたい衝動に駆られていた。


(そんな事、出来ないけれどね)


 萌香は、飾り気のない黒いヘアーゴムで、髪をひとつに結えた。細いメタルフレームの眼鏡とこの髪型では、能面と揶揄されても仕方がないと思った。ステンレスのロッカーの鏡に映った萌香の面持ちからは、喜怒哀楽のどれもが感じられなかった。


「おはようございます、遅れて申し訳ありませんでした」

「え、長谷川さん、どうしたの!?」

「え?」


 営業係長は驚いた様子で、顔色の優れない、萌香の体調について言及した。


「長谷川さん。体調が悪いんなら休んでいいんだよ?有給休暇、まだ残っているんでしょ?」

「えっと。有給は残っています。でも、シフトが回らないと、みなさんにご迷惑を掛けてしまいます」


 営業係長は眼鏡のツルを上げ、萌香の顔を見上げた。


「そこはなんとかなるから。それよりも、顔色の悪い行員を、お客さまの前に出す訳にはいかないよ」

「そう、ですか」

「休みなさい」

「はい」


 遅刻届を提出しようと営業係長のデスクに向かった萌香は、有給休暇届を書く羽目になってしまった。貴重な有給休暇を棒に振らせた諸悪の根源、孝宏の辛にくい顔が浮かんでは消えた。


「僕の判子は押したからね。課長の判子を貰ってね」

「はい。ありがとうございます」

「ゆっくり休むんだよ」

「はい」


 萌香は、窓口業務の女性行員に頭を下げ、有給休暇届出用紙を手に、課長のデスクに向かった。萌香は、その気まずさから下を向き、おずおずと声を掛けた。


「申し訳ありません。体調が悪いので、有給を頂きます。判子を宜しくお願い致します」

「はい、判子ですね。分かりました」


 スチールデスクの引き出しを開ける音、印鑑を持った整えられた指先、朱肉にめり込む印鑑、印鑑が、有給休暇届出用紙に捺された。


「はい。では、これはお預かり致します。お大事になさって下さい」

「は、はい?」


 俯いたままの萌香の目は、信じられない名前を目にした。


(せ、せり、芹屋、芹屋!?)


 すると、タヌキによく似た恰幅の良い営業係長が、声を掛けて来た。


「あぁ、長谷川さん。芹屋課長、紹介がまだだったね。本日付で、本店から赴任されたんだよ」

「芹屋課長、です、か?」

「はい、芹屋です。これから宜しく頼むね」


 身動きが取れない萌香は、スチールデスクに置かれた有給休暇届出用紙を凝視した。心臓が鷲掴みにされ、脚が震えた。脇の下に汗が滲むのが分かった。


(きっ、気付かないで!お願い!心の準備が!心の準備がまだ!)


 すると、その指先が氏名欄をスッとなぞった。


「ん?長谷川、長谷川萌香?」

「しっ!失礼します!」

「あっ、ちょっと待って」

「有給、お願いします!失礼します!」


 萌香は、回れ右で踵を返すと、一目散で事務所の扉へと向かった。ドアノブを回す手のひらが汗で滲んでいた。背後で、椅子から立ち上がる気配がした。


(嘘、嘘、嘘、嘘!芹屋隼人!昨夜のあの人じゃない!あの人よね!?)


 シトラス・シプレのディオール、オーソバージュ


(う、うそ、嘘でしょー!?)


 鉄のドアが閉まる音がした。


(えっ、ついて来た!?)


 萌香は、エレベーターホールに向かい、一心不乱で早足で歩いた。パンプスの音を追いかけ、革靴の音が勢いを増して近付いて来る。萌香には、後ろを振り返る勇気はなかった。


(嘘、嘘、嘘!)


 萌香は、エレベーターのボタンを連打すると、その中に飛び込んだ。


「ヒッ!」


 扉が閉まる直前に、革靴がその隙間に差し込まれた。そして、エレベーターの箱の中に入って来たのは、芹屋隼人、その人だった。


「ご、ごめんなさい!」

「なにを謝っているの?」

「許して下さい、ごめんなさい、ごめんなさい!」


 芹屋隼人は、萌香の眼鏡を外し、ヘアーゴムを解いた。サラサラと落ちる髪をひと束すくうと、まるで味わうようにその匂いを嗅いだ。


「長谷川さん。私と同じコンディショナーの匂いですね」

「そっ、そうでしょうか!?」

「ええ、同じです」

「きっ、奇遇ですね!」


 今度は萌香の首元に鼻を近付け、上目遣いでその顔を凝視した。


「私と同じボディソープの匂いだ」

「そっ、それは!」


 芹屋隼人は、萌香に眼鏡を返すとその面差しを覗き込んだ。


「泣いたんですか?」

「・・・・・」

「目が腫れてますよ?なにかあったんですね」

「それは、課長には関係ありません」

「課長!」


 萌香はその声に驚いたが、芹屋隼人は口元を綻ばせていた。


「な、なんですか?」

「あんな事や、こんな事をした女性から、”課長”と呼ばれるこの背徳感!」

「なんなんですか、それ」

「後ろめたさが良いですね!」


 萌香が眉間にシワを寄せていると、上昇するエレベーターの中で芹屋隼人が腕を組んでほくそ笑んだ。


「確か、あなたの恋人も、同じ職場だと言っていましたね?」

「そ、そうですが。それがなにか?」

「長谷川さんを、そんなに悲しませたのは、孝宏さんですよね?」


 芹屋隼人は孝宏の名前も覚えていた。


「き、記憶力が良いですね!ワイン、あんなに沢山、飲んでたのに!」

「ほーら、やっぱり萌香さんだ」

「・・・・!」

「昨夜とは随分、雰囲気が違いますね」

「昨夜は特別です!」

「これはこれで良いですね、その制服を脱がせてみたい」


 萌香は仰ぎ見ると監視カメラを指差した。


「カッ、カメラ、カメラがありますから!」

「こんな所で、そんな馬鹿げた事はしませんよ?仮にも”課長”ですし」

「こんな所でって!」

「日航ホテルの2710号室はいかがですか?」

「結構です!」

「結婚?」

「結構です!」


ポーン


 そこで、扉が左右に開いた。萌香は咄嗟に、芹屋隼人から距離を置いたが、逆光の中に立っていたのは、孝宏だった。


(孝宏!)


 萌香は、その気不味さから孝宏から顔を背けた。芹屋隼人は、そんな萌香の横顔を見た。


「・・・・・あ」

「・・・・・?」


 ところが、孝宏の視線は萌香ではなく、芹屋隼人へと向けられていた。それは、萌香がこれまで見た事のない、真剣な眼差しだった。

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