萌香は、孝宏が浮気している事を、薄々感じてはいた。けれど、3年間続いた同棲生活が根底から崩れてしまう事が怖くて、その事を問い正せずにいた。
<あなたと暮らす意味が分からない>
萌香は、この数ヶ月のあいだ、悪夢にうなされ続けて来た。
「おかえり、遅かったね」
「ああ」
「お腹減ってるでしょ、食べなよ」
「外で食べて来た」
「そうなんだ」
そんな萌香の、複雑な心の中を察する事が出来なかった孝宏は、何気なく『風呂、外で入って来たから』と口を滑らせた。その言葉は、萌香の苦悩や悲しさを溜め込んで来たダムを、決壊させるには十分だった。
「待てよ!萌香!」
「今夜は帰らないかもしれないから!」
その挙げ句の口論で、怒りを持て余した萌香は、マンションを飛び出していた。
ピチョン
朝帰りをした萌香は、ダイニングテーブルの上に、歪な形の”おにぎり”が置いてあるのを見つけた。ラップの上には、乱雑な字の走り書きのメモが貼られていた。
<腹減ったら食え>
それは孝宏が、萌香のために握ってくれた”おにぎり”に違いなかった。それを見た萌香の目頭は熱くなり、テーブルにはたはたと、涙の跡を作った。
「ずるいんだよなぁ」
孝宏は浮気をしながらも、こうして萌香を気遣った。アクセサリーをプレゼントしてくれない事など些細な事だ。数回の浮気ならば片目を瞑ろう。
(なにやってんだろ、私)
それよりなにより、萌香は、自身が冒した一夜の過ちを初めて悔いた。その時だった、玄関扉の鍵が開錠され、革靴の音が聞こえた。
「孝宏」
「なんだ。帰ってたのか」
「どうしたの?銀行に行ったんじゃないの?」
孝宏は、ローチェストの上に置いてあったクリアファイルを手に取ると、中の書類を確認して茶封筒に入れた。
「書類、忘れたんだ。取りに戻った」
「そっか」
「萌香、今、帰ったのか」
「うん」
萌香は、孝宏の顔を直視する事が出来ず、目を逸らした。
「おまえも一緒に、銀行行くか?」
「う、うん」
「じゃ、俺、トイレ行くわ」
孝宏は、萌香を一瞥すると、トイレに向かった。そして、暫くすると、脱いだばかりの萌香のブラウスを手にリビングへ戻って来た。
「これはなんなんだ!」
「な、なに」
「これは、メンズものの香水だろう!」
孝宏は、ランドリーバスケットに入っていた、萌香の白いブラウスを手に声を荒げた。シトラス・シプレ、ディオールのオーソバージュ、孝宏は、芹屋隼人の移り香に気が付いた。
「それは、えっと」
「どこに泊まった!男と一緒だったのか!?」
「違う!ワインバーで、隣に座った人の香水よ!」
「そんなに近くにいたのか!」
「狭い店だったのよ!」
孝宏は、萌香めがけてシャツを投げ付けた。
「ちょっ!」
シャツは萌香を掠めて、リビングの床にはらりと落ちた。
「なにするのよ!」
孝宏の面持ちは興奮し、肩で息をしていた。
「どこのワインバーだ」
「え?」
「どこのワインバーだ!誰といた!」
「誰って、1人で飲んでいただけよ!?」
「確かめに行く!」
孝宏の声のトーンは徐々に大きくなり、手には握り拳を作っていた。
「確かめに行くって、なにを!?」
「おまえが誰と飲んでいたか聞きに行く!おまえも来い!」
「嫌よ!なんでそんな事しなきゃならないの!」
「後ろめたい事でもあるのか!」
孝宏は人に厳しく、自分に甘い気質の持ち主だ。昨夜の萌香の外泊は、孝宏自身の浮気の負い目もあり、『どうせ、実家にでも泊まるんだろう』と、大目に見た。然し乍ら、萌香が、他所の男と一夜を過ごしたとなると話は別だ。
「ちょっ!孝宏!?」
孝宏はダイニングテーブルの皿からラップを外し、”おにぎり”を掴むと、思い切り、リビングの床に叩きつけた。それは見るも無惨に原型を留めず、辺りに米粒が飛び散った。
「やめなさいよ!孝宏!」
もうひとつの”おにぎり”を握ったその手は、萌香へと向けられた。
「ちょっ!」
萌香の、咄嗟に庇った腕に、水気を含んだ柔らかい塊が当たった。それはねっとりとした感触を残し、ぼたりと萌香のワンピースに落ちた。萌香は信じられないといった表情で、激昂した孝宏を見上げた。
「なにするの!勿体ないじゃない!」
「そんなもん、作るんじゃなかったよ!」
「どうしてよ、嬉しかったよ?」
憤慨した孝宏は、皿を手に掴むと、高々と振り上げた。
「ちょっと!お皿は危ないから!危ないからやめてよ!」
「なにが嬉しいもんか!他の男と寝てきた女に食わせるために作ったんじゃねぇよ!」
「他の男の人となんか!」
「この、裏切り者!」
(裏切り者?)
『裏切り者』と聞いた萌香は、無言で立ち上がると寝室へと向かった。クローゼットの扉を開け、震える指で、ハンガーラックに掛かったスーツの匂いを1着、2着と嗅いでいく。
(これでもない、これじゃない)
ある筈だ、
(これだ)
リビングから、孝宏の怒声が聞こえて来た。萌香は、そのスーツが掛かったハンガーを手に、武者震いをする足で廊下を進んだ。ホワイトムスクの香りが染み付いたスーツを、ずっしりと重く感じる。胸の動悸が激しい、こめかみの血管が逆流しているようだ。
(裏切り者は、誰よ!)
とうとうこの言葉を、孝宏に投げ付ける時が来た。
「萌香!スーツなんか持って、なにしてんだよ!」
「・・・・・」
萌香は無言で孝宏の顔を凝視した。
「な、なんだよ」
萌香の手は大きく振りかぶると、ハンガーに掛かったままのスーツを、孝宏に向かって勢いよく投げ付けた。
「い、痛っ!」
孝宏の顔は腕の痛みで歪み、木製のハンガーは鈍い音を立ててリビングの床に落ちた。
「萌香!なにすんだよ!」
「なにかをしているのは孝宏でしょう!?」
「なんの事か分かんねぇよ!」
この後に及んで素知らぬ振りの孝宏に、萌香は呆れ顔で大きな溜め息を吐いた。
「そのスーツの匂いを嗅いでみて」
「スーツ?」
「早く!」
萌香の剣幕に、孝宏は慌ててスーツの匂いを嗅いだ。萌香が腕組みをして見ていると、スーツを握ったまま、立ちすくんだ孝宏は、その顔色を変えた。
「その香水を使っている人は誰?」
「香水?誰かな、エレベーターで一緒になった奴かな」
「そんなに近くにいたんだ」
「満員だったから」
「誤魔化さないで」
萌香はリビングの床に張り付いた”おにぎり”や、散らばったご飯粒を拾い集めながら、淡々と言葉を続けた。
「孝宏、浮気してるよね?」
「・・・・・」
「私が、気が付いてないと思ってた?」
「・・・・・」
スーツジャケットを手にした孝宏は、下を向き微動だにしなかった。
「孝宏はどうしたいの?浮気している人と暮らしたいの?それとも、私とこのまま暮らしたいの?」
「・・・・・」
「私と別れたいの?」
萌香は生ゴミのダストボックスの蓋を開けると、”おにぎり”だった物を捨てた。この息苦しい空気も一緒に捨てたかったが、それは叶わなかった。
「ごめん」
孝宏は、自身が浮気をしていた事をあっさりと認め、萌香に謝罪の言葉を述べた。萌香は、後頭部に殴られたような衝撃を覚え、急に視界が遠くなった。孝宏の言葉が理解出来ず、目頭が熱くなり、頬を生温かいものが伝って落ちた。
「ごめん」
「出て行って!」
「萌香、ごめん」
「出て行って!」
「そんなつもりじゃなかったんだ」
「そんなつもりじゃなきゃ、どんなつもりだったの!?」
ただ、出て行くもなにも、このマンションの名義人は吉岡孝宏で、これから数十分後には、2人は同じ職場で働かなければならない。
「萌香、ごめん」
「出て行って!」
それでも萌香は、困惑する孝宏に向って『出て行って!』と悲痛な声を上げ続けた。